耳に薄膜を張ったような、くぐもった人の話し声が聞こえる。桜子は薄目を開け、見慣れぬ白い天井をぼんやりと見つめる。寝起き特有の倦怠感で四肢が重い。
ここはどこ――首だけ回すと、枕元の椅子に腰掛ける伊里の姿があった。
「桜子さん! ああ、よかった!」
伊里は飛び上がると、外に向かって「桜子さんが起きましたよう!」と声を張り上げた。
「……ここは」
身体を起こそうとすると、慌てて伊里が背に手を添えてくれる。
「おにいさまのお部屋ですよ。桜子さん、戻って来られてから丸一日寝てらしたんですよ」
「なんで、巽さんの……?」
「一階にある桜子さんのお部屋より安全だからって……念のためだと思いますよ」
見れば、窓の外はとっぷりと日が暮れていた。巽たちに見つけてもらったのが深夜過ぎ。その後、屋敷へは車で移動していたはずで――けれど、車中からの記憶がない。服もいつの間にか寝間着に変わっていた。
「私、着く前に車の中でそのまま寝てしまったんですね」
「お疲れだったんですから仕方ないですよ。それより」
伊里が目を潤ませて言葉を切る。
「ご無事で、本当によかったです」
「はい……伊里さんも」
ふたりで抱き合う。別れてから互いにどんなに心配していたのか、言葉を交わさずとも分かるような気がした。
伊里の声を聞きつけて、巽と英治がやって来た。寝台の上で身体を起こす桜子を見て、ふたりともほっとした顔をしていた。
「桜子さん、お腹空いていませんか。何か持ってきましょう」
巽はそのまま中へと入ってきたが、英治はすぐに引き返そうとする。その様子に伊里も何か察したような顔で立ち上がる。
「わ、わたしもお手伝いしますねっ」
示し合わせたかのような二人の連携に、あっという間に巽とふたりきりにされてしまう。苦笑した巽は、先程まで伊里が座っていた椅子ではなく寝台に腰掛けた。
「えらい気ぃ遣われてもうた」
「そ、うですね」
桜子は掛け布団を落ち着きなく握り締める。ずっと会いたいと思っていた相手なのに、いざ目の前にいると妙に緊張してしまう。ここが巽の部屋というのも理由のひとつかもしれない。
「寝る前より顔色がようなったな。気分はどない」
「だ、大丈夫です。何から何まで本当にありがとうございます」
「礼を言うんはこっちやわ。桜子さんが着物に縁を結んでくれとったお陰で、すぐに攫った男らの尻尾が掴めたんやから」
巽が言うには、実行犯の男らは道枝に金を掴まされただけの破落戸で、桜子の両親と面識すらなかったそう。こちらがどういった人間なのかも知らされず、ただ言われるままに攫ったらしい。
「あん人らを甘くみとった僕の落ち度や。申し訳ない」
「巽さんは何も悪くありません。これは私の問題です」
攫われた際に伊里を脅しに使われたこと、縁結びを要求されたことを伝えると、巽は不快そうに顔をしかめた。
「ええ根性してはるわ。……ホンマに、無事でよかった」
掛け布団を掴んでいた桜子の手に、巽の手が重なる。そういえば今自分は寝間着――思い出したくないことが頭をよぎる。気恥ずかしさから身体が跳ねてしまうと、巽がさっと手を引いた。
「ああ、怖がらせるつもりはなかってん。ごめんな」
「あ、違……」
「知らへん男に連れ去られたんやから、ベタベタ触られるんは嫌やろ」
勘違いをさせてしまっている。当然のように身を引こうとする巽の腕に桜子は慌てて縋る。
「驚いただけで、嫌なんて全く思っていません。本当に」
やっとまともに巽と目を合わせる。形のいい額に落ちる前髪の隙間――薄茶の目の下にはうっすらと隈があった。もしかしたら昨晩から今まで、夜通し起きていたのかもしれない。
こんな自分にそこまで手を尽くしてくれたのだという感謝と、愛おしさのような感情がないまぜになる。
桜子は身を屈める巽の胸に頭を寄せる。
「巽さんに会いたかったです。ずっと、ずっとここに帰りたかった」
「……うん」
また気を遣われないよう、今度は自分から巽の背に手を伸ばす。はしたないかもしれないが、今この瞬間はどう思われようと構わない。
「巽さん、大好きです」
布団の中にいた桜子より冷えた巽の温度に安心する。桜子が巽の背を掴むと、きつく抱き返してくれる。この人も同じ気持ちを返してくれる――胸がきゅうと苦しくなる。
「桜子さんは、ぬくいなぁ」
ゆっくりと体重を掛けられ、彼の重みに耐えきれず、桜子は彼の胸元にひっついたまま背中から布団に転がる。人のぬくもりが心地良い。あんなに寝たのに、また全身がじんわりと眠気に包まれる。乾く目を瞬かせると、頭上からいつもより抑えた声音で問われる。
「眠い?」
「……すこし、だけ」
正直に頷けば、くつくつと笑われた。
「ええよ。桜子さんらしいわ。英治らが来るまでこのまま寝とき」
「なら巽さん、も」
「僕?」
もぞもぞと顔を上げると、思ったよりも近くに巽の顔があった。桜子は巽の背に回していた腕を外し、彼の目許に指を伸ばす。
「だって、お疲れではありませんか? お休みになった方がいいです」
隈に触れると、ひくりと眦が跳ねた。
「あー……せやなぁ」
ほんの少し困ったような顔をして、巽が視線を彷徨わせる。しばし考えている風ではあったが、やんわりと手を取られ、再び腕の中に閉じ込められた。
「桜子さんが気にせぇへんのやったら、このまま僕もここにおろか」
「わあ、嬉しいです」
ぼんやりとする頭では、うまく思考がまとまらない。男女が同じ布団にとか道徳がどうとか、線引きが曖昧になる。思ったままに言葉が口をつくと、巽が小さく呻く。
「あんま可愛いこと言わんで。僕が眠れへんようになるから」
「……眠く、ないんですか……?」
「ハハ、この話はまた今度な」
ポンポンと背を叩かれると、瞼が重くなってくる。額に柔らかいものが落とされたような気がしたが、確かめる間もなく意識が遠くなった。
それから程なくして、部屋に戻ってきた英治と伊里が寝台に転がるふたりを見て悲鳴を上げた、らしい。
翌朝、巽とふたりして寝坊した後に聞かされた桜子は、寝ぼけた自分の大胆さに頭を抱えたのだった。
