春待つ乙女のしあわせな縁切り


 屋敷の周りは古い平屋が多く、街の外れといった景色が広がっていた。桜子は裾をたくし上げ、ひたすらに走る。

 雲ひとつない空には、欠けた月が天高く昇っていた。夜半を過ぎようとする頃に外を出歩く者などいるはずもなく、自分の足音だけが響いて聞こえるのが一層焦燥感を駆り立てる。

「これって……」

 思わず立ち止まる。水の音がした気がしたのだ。
 見上げれば、すぐ近くに高い土手があった。そばには木橋も掛かっている。桜子は一瞬迷うも、すぐに土手をよじのぼる。

 足袋(たび)ひとつでは長時間歩き回れない。朝になるまで橋の下で身を隠し、日が昇ってから動いた方がいいと思ったのだ。それに、追っ手以外に夜闇に紛れる追い剥ぎや不貞を働く輩も恐ろしかった。

 桜子は河原を越えて橋脚の陰に座り込むと、息をつく。人目も避けられる上に、土手が死角になってうまく隠れられそうだ。

「この川は隅田川かしら」

 この川幅の広さには、どことなく見覚えがある。けれど、この場所が帝都という保証もない。
 ここはどこなのだろう。(たつみ)の屋敷がある神田へはどう行けばいいのか。

 桜子が痛む足の裏をさすっていると、風に乗って男の声が聞こえたような気がした。それも複数の――追っ手だ。桜子は身体を縮こませて息を殺す。

 けれど、彼らは声の調子を落として桜子の名を呼んでいた。連れ戻すというよりは、慎重に探しているような――けれど確かめる勇気はない。桜子が息を詰めていると、橋脚まで足音が近づいてきた。

「桜子さん!」

 顔を上げると、手提げ提灯(ちょうちん)を掲げ男がこちらを照らしていた。眩しさから一瞬目が眩む。誰だろう。

 見覚えのあるお端折りに、見覚えのある彫り物。
 桜子は目を細める。

「そうすけ、さん?」
「よかった……おい、見つけたぞ! 屋敷に連絡いれろ!」

 宗介(そうすけ)が背後の男に何か叫んでいる。桜子は安堵から浮かしかけていた腰を地面に下ろした。緊張から解放されて身体が弛緩していく。

「なんで、宗介さんが」
「俺も詳しくは知らされてねぇんですけど……あの男が桜子さんを探すのに人手が欲しいって、叔父貴に頼み込んできたんすよ」
「あの男、って……巽さんのこと? ああ、本当、に」

 喉が震えた。
 見捨てられてなどいなかった。信じてはいたが、あの人は自分のことを探してくれていた。
 宗介は仲間の背を見送った後、ほっとした顔で桜子を見下ろす。

「すげぇな、自力で逃げたんすね。実行犯に吐かせた場所に行っても桜子さんがいねぇから、掴まされた情報がガセだったんじゃねえかって焦ったすよ」

 水面下ではそんなことが――桜子は驚く。

「鍵がたまたま開いていて、それで」

 本当にたまたまなのか。眠りに落ちる前に、確かに施錠音は聞いたのだ。誰かが意図的に開けておいてくれたとしか思えない。

 とすれば、それは(みどり)ではないか。

 半ば桜子の希望もあった。彼女の心に何か引っ掛かるものがあったのならと、祈ることしかできない。 
 ひと息ついた宗介は、黙って考え込む桜子に囁く。

「なあ、本当にあそこに帰るんすか」
「え?」

 顔を上げると、険しい表情の宗介がいた。

「またこんな酷い目に合うかもしれねぇすよ。天家だかなんだか知らねぇけど、あんな古臭い場所、離れた方がいいって」

 宗介は本気で心配をしてくれているようだった。提灯の灯りが風に揺れ、彼の目に映った光もまた揺らいでいるように見えた。

「ありがとうございます。でも私はあの場所がいいんです」 
「理由は――」

 言いかけた宗介が、口端を歪ませる。

「……て、聞くのも野暮っすか」

 どこか悔しそうに俯く宗介に、桜子はやんわりと微笑む。

「心配してくださってありがとうございます」
「いや別に、いいっすよ」

 ふと頭上の橋から急いた足音がひとつ近づいてきた。そのまま土手から転がり落ちるようにこちらへ駆けてくる。その姿がずっと会いたかった人に似ていて、桜子は目を見開く。宗介も気づいたのか、あからさまに顔をしかめる。

「屋敷で待てって言われてたんじゃねぇのかよ……」
「桜子さん!」

 その声を聞いた瞬間、張り詰めていたものがすべて崩れ落ちたようだった。桜子は足の痛みも忘れて人影に向かって走る。

「巽さん……っ」

 巽の腕が当然のように桜子を受け止める。言葉は要らなかった。ただその温もりだけが、現実を教えてくれる。我慢していた涙が(せき)を切ったように溢れてくる。

「……俺の出番はここまでっすか」

 宗介が提灯の火を落とし、あたりが真っ暗になる。
けれどもう怖くない。
 安心できる人のそばに帰ってきて、ようく桜子は息ができた気がした。