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外の様子もろくに知れぬまま、数日が経過してしまった。
桜子は扉の隙間から差し込まれた蒸かし芋を机の奥に押しやると、寝台の上で悄然と膝を抱えた。扉の外からは低く押し殺した男たちの話し声がしている。内容までは聞き取れないが、どこか粗野な話し方をする彼らは、桜子をここへ連れてきた連中と同じ雰囲気をまとっている。
外には監視のためか常に人の気配、扉には鍵。逃げようにも逃げられず、気を休める時間がない。
また来ると言っていた両親も、結局あれから姿を見せていない。これからどうなるのだろう。一葉の茶会まで監禁されてしまうのか。
明かりのない室内は、日が落ちると真っ暗になる。狭まる視界に、考え方までもが後ろ向きになっていく。
「……帰りたい」
呟いて、巽の屋敷が自分の帰る場所だと思っている自分に気づく。
咄嗟に着物に結んだ縁は、何かの役に立っているだろうか。桜子を探す手掛かりになってくれていると信じたいが――けれどもし、巽が桜子のことを気に掛けていなかったら? いなくなったのなら仕方がないと、探すことすらしていなかったら?
仄暗い思考に沈みかけ、桜子は頭を振る。
彼を疑うようなことをしてはいけない。絶対に大丈夫だ。
「もっと明るいことを考えないと」
気を落ち着かせようと深呼吸していると、外で扉の鍵が開けられる音がした。食事の時間……ではないはずだ。
桜子は扉を凝視し、腰を浮かせる。逃げられる隙があるのであれば、逃したくはない。
息を詰めていると、ゆっくりと扉が開いた。室内に入ってくる小柄な人影に、桜子は駆け出すのも忘れ声を上げる。
「翠……」
ここに来てから声も姿も一度も見ていないので、てっきりいないものだとばかり思っていた。驚く桜子を尻目に、翠は以前会ったときよりも一層冷えた眼差しを桜子に向ける。
「惨めですわね、お姉さま。一瞬でも得られた自由を全て奪われる気分はいかが?」
「翠、どうしてここに」
「わたしだって来たくて来たわけじゃないわ。お母さまがどうしてもと言うから」
翠は飽き飽きだといった様子で桜子の前に立つ。
「で、わたしと弥幸さまの縁を結ぶ気にはなったんですか」
「……翠がお母さまたちに頼んでいたの?」
「ハッ、そんなわけないでしょう」
蔑むような目をして翠が腕を組むと、薄桜色の小袖の袖が上がり、彼女の白い肌が露わになる。
昔から、桜の名を冠する桜子より翠の方が春めいた色が似合う子だった。今だってそう。あたたかな色に包まれた翠は、絵に描いたような良家のお嬢様に見えるのに。
「ぼんやり生きてらっしゃるお姉さまには、お分かりにならないでしょうね。天家のことも大してご存知ないようですし?」
なのに、今の彼女は昔の桜子よりも不幸に――両親の言いなりになっている翠が、苦しそうに見えた。
「嫌なら、嫌と言うべきだと思うわ」
桜子がそう告げると、翠の表情がみるみるうちに険しくなる。
「なに、それ」
「そもそも天家の婚姻は、縁の相性を見て決めるものだと聞いたわ。無理やり結んで成婚させるのは違うはず」
「だから、何だって言いたいんです」
噛みつかれそうな調子だ。桜子は気圧されそうになるも、言わねばと言葉を続ける。
「翠はとても優秀な天眼を持っているわ。お父さまやお母さまも言っていたじゃない。こんな形で縁を結ばなくても、絶対に良い人が――」
「うるさい!」
翠が机の脚を蹴り倒した。派手な音を立て、机が桜子と翠の間に横たわる。
「うるさいのよ! なによ良い子ぶって! あんたもわたしも所詮お母さまたちの……天家のお人形じゃない!」
「翠……」
「意思もなく、縁に従って嫁いで、子を成す。それが天家の普通でしょう? それがなによ、疫病神の役立たずがちょっと人に優しくされたからって、意見が言えるようになったとでも思ってるわけ!?」
避ける間もなく、肩を突き飛ばされる。後ろによろけるも、桜子は転ぶまいと目の前の異母妹を見つめたまま踏ん張る。
「あんただけ自由になって、幸せになって、それでおしまい? あり得ないわ! 人形は人形らしく、最後まで黙って使い潰されなさいよ!」
翠の叫びが室内に響く。気づけば外の男たちの声が遠くなっていた。ふたりの息遣いだけがやけに耳につく。
昔ならこれ以上話すことは無理だったと思う。けれど今は違う。
「私はもう、不幸を理由に閉じ籠もるのは嫌なの」
桜子の決然とした口調に、翠がたじろぐ。
「お父さまたちのやり方が間違っていると分かっているのでしょう。なら、翠にだって抗議して逃げる選択肢だってあるはずよ」
桜子もあの日、道枝家から逃げようと決めて庭を走ったのだ。巽だって、何かを変えようと二條家から帝都に出てきた。逃げから始まる幸せだって、きっとある。
「な、によ偉そうに」
「私が疫病神なせいで、翠がずっとひとりでお父さまたちの期待を背負って頑張ってきたことを知ってる。だから、翠にも幸せでいてほしいと思う」
決して仲のいい姉妹ではなかった。それでもこの世でたったひとりの妹なのだ。この歪な関係を恨むだけで終わらせたくはない。
「私は、翠と弥幸さんの縁は結ばない。結んでも、翠が幸せになれるとは思えないから」
翠が震える手を握り込め、桜子に剣呑な目を向ける。
「綺麗事ばっかり。やっぱりわたしはお姉さまが嫌いだわ」
その瞳の奥に怒りと、羨望のような色が見えた気がして、桜子は口を閉ざした。
翠は桜子を押し退けると、早足で出ていってしまう。様子を見に来たらしい男らと短いやりとりの後、苛立ちを込められた手つきで錠が下ろされる。桜子は息を吐き出すと、寝台に座った。
自分が外に出るために、望んでいない翠の縁を結ぶなどできようもない。
「……これで、よかったのよね」
脱出がさらに遠退いたと痛感するも、これ以上の選択肢はないはずだ。桜子は身を横たえる。
これからどうしたらいいのだろう。目を閉じて煩悶しているうちに、意識が疲労に呑まれていった。
次に目を開けたときには、薄闇だった室内が闇に沈んでいた。
気を張った反動で疲れが出たのかもしれない。そんなに長い時間寝ていないとは思うのだが――桜子は寝起きで霞む目を擦る。
寝台から降りかけて、こちらに向かって一筋の光が差していることに気づく。
「え……?」
顔を上げかけて――何故、と心臓が早鐘を打つ。
閉まっていたはずの扉が、薄く開いているのだ。
一体誰が開けたのだろう。寝ている間に様子を見に来た監視の閉め忘れか、あるいは――桜子は、はやる気持ちを抑え、耳を澄まして外の様子を伺う。扉の向こうに人の気配はなく、静まり返っているようだった。
――今なら逃げられるかもしれない。
桜子は物音を立てないよう、忍び足で外に出る。長い廊下は真っ暗で、明かり取りから差し込む月明かりだけが床に落ちている。
この建物の出入り口がどこか分からないが、屋敷の外郭に沿って歩けばどこかしらから表に出られるはずだ。
履物がないので足袋のまま庭に降りるしかない。桜子は夜闇の深い木陰を選び、息を殺して庭を駆ける。
屋敷自体あまり大きくないようで、あっという間に裏の通用門が見つかった。幸運なことに戸にも鍵が掛かっておらず、桜子は監視に見つかることなく、外の世界へ逃げおおせた。
屋敷を離れる前に、一度振り返って耳を澄ます。屋敷は静まり返っており、桜子の逃走に気づいた様子はなかった。
悠長にしている余裕はない。桜子は夜陰に乗じて走り出した。
