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自動車の車体が、砂利道に入り不規則に揺れる。
桜子に伝えた通り、日暮れまでにはなんとか戻れそうだ。巽はハンドルを握る英治の隣で、ぼんやりと外を眺めていた。
荷物同士のぶつかる音が車の荷台から聞こえてくる。そこには店を回って購入した日用品に、桜子への土産も入っている。ガタゴトと音がするたび土産がこちらに存在を訴えてくるようで――巽の心臓が落ち着きなく騒ぐ。
桜子と数ヶ月は共にいるが、意外にも物を贈ったことはなかった。彼女に物欲がないというのもあるが、物など介さずとも彼女は言葉を交わすだけでいつも楽しそうにしていたから。
だからこれは、巽の気持ちだ。
柄にもなく難しい顔で小間物屋を覗いていたら、英治に世にも珍しいものを見たといった顔をされるぐらいには、悩んだわけで。
「……喜んでくださるといいですね」
ようやく帰ってきた屋敷に車を停め、こちらの心中を見透かすかのように英治が口を開いた。
「他人事やからって、ええ気なもんやな」
巽がじとりと見やれば、英治が「そんなんじゃないですって」などと軽口が返してくる。
「私は坊っちゃんが楽しそうなのが嬉しいだけですよ」
「……さいですか。で? そう言うお前はどうなんや」
「私ですか?」
トランクから箱を引っ張り出している英治の横で、巽が荷物のひとつを指さす。
「小間物屋でなんか買うとったやろ」
今度はぎくりと肩を揺らす英治に、巽は含み笑いを零す。人の心配をする前に、自分のことをどうにかすればいいのにと思う。
「いちいち臆病な男やな」
「いや、坊っちゃんにだけは言われたくないのですけど」
巽は箱を小脇に抱え玄関に向かいかけ、ふと屋敷が静かなことに気づく。いつもなら自動車が敷地内に入った時点で桜子か、いるなら伊里が駆けてくるはず。けれど今日はどちらも姿を見せていない。
よく見れば、施錠して出たはずの戸が、なぜかうっすらと開いていた。
夕焼けに照らされた硝子戸が鈍く光る。隙間から覗く三和土に並ぶ靴が、妙に乱れていた。
巽の腕から箱が滑り落ちる。
嫌な予感がした。
「どうかされましたか……て、あの!」
英治を半ば突き飛ばすようにして戸を開け放ち、靴を脱ぎ捨てる。廊下を抜け、居間を抜けても、どこにも彼女たちの姿がない。それどころか、どの居室も中途半端に扉が開いているのだ。
「桜子さん! 伊里!」
呼び掛けると、屋敷の奥の方でくぐもった人の声がした。巽のただならぬ様子に、英治もようやく異変に気づいたようで、追いついて共に声の出処へ駆けていく。
「おにいさまぁ、おにいさまぁ!!」
伊里だ。しかもいるのは桜子の居室のあたり――尋常ではない彼女の叫び声に血の気が引いていく。英治とともに中へ飛び込むと、伊里が手足を縛られた状態で床に転がっていた。
「伊里さん! 一体何が!」
英治が血相を変えて伊里を助け起こす。伊里は絨毯に染みをつくるほど、顔中を涙で濡らしていた。
「おにいさま、ごめ、ごめんなさい……わ、たし、何も、できなくて……っ」
「何があったんや。桜子さんは」
室内のどこを見渡しても、彼女の姿がなかった。しゃくり上げる伊里に、巽の指先が冷えていく。倒れた衣紋掛けに、落ちた着物。乱暴に散らかされた室内から嫌な想像がかき立てられる。
英治が棚を漁り、見つけた鋏で伊里の縄を断ち切る。伊里は英治に肩を抱かれ、床にへたり込んだまま途切れ途切れに口を開く。
「し、知らない男の人たちが、たくさん……桜子さん、攫われて……わたし、何も、できなくて……っ」
伊里の言葉に、頭が真っ白になる。いや、違う。真っ白どころか、激情が一気に沸き上がってくる。
「それはいつのことや」
「おにいさまたちが、出て行かれて、すぐ」
彼女の手足は真っ赤に腫れていた。抜け出そうとこの半日、ひとりでもがいていたのだろう。その絶望と恐怖を思うも、言葉にならない。伊里の肩を抱く英治の手が震えていた。
「坊っちゃん」
「分かっとる」
桜子がここにいると知る人物は限られている。その中でとりわけ彼女に固執する人間となれば、道枝以外にあり得ない。伊里は英治に任せ、巽は踵を返しかける。
「ま、待ってください、おにいさま」
伊里が巽の袖を掴む。
「さ、桜子さんが着物に、糸を」
「糸?」
「桜子さんを攫った男の人と、お茶会の白いお着物に、縁を結ばれているのを見たんです。わたしに合図して……」
まさか本当に――巽は床に広がる着物を拾い上げる。目を凝らし、伊里の言う糸を探す。
視えた。
淡く光る糸が裾のあたりに絡みついていた。確かに一本は桜子のもの。そしてもう一本は、伊里が言うように攫った男のものなのだろう。
巽は着物を握り締める。
「えらい子や。ようやった」
身の危険に晒されながら、手掛かりを残そうと機転を利かせた桜子の冷静さに舌を巻く。
糸は真っ直ぐに窓の外へと伸びている。この糸をうまく辿ることができれば、彼女の居場所を割り出して実行犯を引っ張れる。
「僕は今から道枝の屋敷に向かう。英治は伊里のそばにおったって」
「はい……ありがとうございます」
桜子が道枝の屋敷に囚われていたら話は早いのだが、もし違った場合――巽は窓から外を睨む。糸は西南の方角へと伸びているが、明らかに道枝の屋敷がある方角とは違っている。
「戻ったら石渡さんに連絡つけるかもしれへん。保管しとる名刺を探しとって」
表立って動く訳にもいかない。けれど人手は欲しい。巽が頼りにできそうな人物は、この人以外に思い至らなかった。
――待っとけ。絶対に見つけ出したる。
巽は英治から鍵を預かり道枝の屋敷に向かったのだが。
思った通り、道枝邸に桜子はいなかった。先方の使用人は巽の訪問に大いに戸惑った。そもそも、道枝当主もその妻も昨晩から家を明けているというではないか。彼らに行き先を聞くも、知らされていないの一点張り。
埒が明かないと巽は一度屋敷に戻り、石渡の人脈を頼り帝都のあちこちに人を遣わせてもらったのだが。
「……今日も見つからへん、か」
桜子が姿を消してから丸三日。
巽は今日も空振りに終わったという内容の電話を石渡から受けていた。
『申し訳ないね。いつも世話になってる巽くんからの頼みだから、手は尽くしているんだが』
通話口の石渡もため息をついている。
縁の糸は本人と距離が離れるほどに薄くなり、辿ることも難しくなる。桜子の糸は薄らぼんやりとしており、歯痒いことに追跡はおおよそ不可能。道枝当主らもずっと行方知れずのままで、見つからないという体たらく。
最初の勢いは削げ、人海戦術で虱《しらみ》潰しに彼らを探す他ない状況であった。
巽はかさついた指先で電話のコードを弾く。
「男の方は、どないです」
石渡が「ああ」と声の調子を上げる。
『そっちの方は、まあまあ成果があがっているよ。うまくいけば、明日にでもお話してくれそうだよ』
幸いなことに、攫った男の方はすぐに見つかった。今は身柄を押さえ、石渡のもとで拘束させている。彼の一派も把握していないような、テキ屋の一員の下っ端と聞いた。道枝が金を掴ませて適当に雇った人間なのだろう。
男が石渡から一体どのような扱いをされているのか――巽としては、別にどうでもいい話だ。
「そうですか。もしソイツが居場所を吐いたら……」
『すぐに連絡するよ。こちらもすぐ人をやるから、好きに使ってくれて構わないよ』
心など痛みようがない。こちらの大切なものに手を出したのだ、相応の報いは受けてしかるべきである。
「何から何まで、ありがとうございます」
『いやいや、いいんだよ。これからも私たちは二條さんを頼りにしてるからさ。それじゃあ』
朗らかに笑い、石渡が通話を切る。巽は息を吐き出すと、乱雑な手つきで前髪をかき上げた。
石渡は巽自身ではなく、巽を通して二條から得られる利益のために手を貸してくれている。報告せずに済ませられる問題でもないと、巽から静香に一報を入れたのが功を奏したのだろう。
これほど二條の名を有り難いと思う日が来ようとは――巽は失笑する。
気分は最悪だったが、別に構うものでもない。これで桜子が救えるのであれば、自分の鬱屈した感傷など安いものだ。
「……桜子さん、泣いとらんとええんやけど」
石渡のもとに情報が集まっている以上、あの男――宗介の耳にも、桜子の一件は知れているだろう。あの日、泣いている彼女を見て憤っていた彼は、今まさに巽のことを酷く恨んでいるに違いない。
なんと言われようと、もう揺らがない。
巽の気持ちは固い。
彼女と想いを交わした日から、巽の中に彼女を手放すという選択肢は消え去った。それはきっと彼女も同じ。だから糸を結んでまで巽に手掛かりを残そうとしてくれた。
「……会いたいわ……」
巽の呟きが無人の室内に溶けて消える。人ひとりいなくなっただけなのに、屋敷がやけにがらんどうに思えて仕方なかった。
石渡より桜子の居場所が分かったとの報を受けたのは、それから丸一日後のことであった。
