柔らかな綿が頬をくすぐる。あたたかくて、けれど少し埃っぽい。桜子の意識は、泥のような微睡みに沈んでいた。そこに、ふっと鼻先を女物の香の匂いが掠めて――濁流のように意識を失う前の記憶が押し寄せる。
――伊里さん!
飛び起きるように身体を起こせば、胸元から掛け布団がずり落ちた。
「はあ、はあ……」
肩で息をしながら周囲を見渡す。薄暗くて狭い洋室だ。机以外の家具が見当たらない。他には薄ぼけた硝子の小窓がひとつ。縦縞模様が透けて見えているところを見るに、嵌殺しの格子窓か。
「……ここは……?」
やけに視界が高いことに気づき、桜子は自分が寝台に寝かされているのだと知る。
知らない場所で、いつの間にか寝かされている?
桜子が呆然としていると、背後から扉の開く音がした。
「やっと起きたのね」
慌てて振り向くと、そこには継母がいた。ヒュッと喉が鳴る。みるみるうちに顔色を失う桜子に、彼女はおっとりと微笑む。
「随分長く寝ていたわね。もう夕方よ。お腹が空いたんじゃない?」
「なぜ、貴女が」
「あら、居てはいけないの? 私は貴女の母親なのに」
継母が枕元に立つ。桜子は自然彼女と距離を置こうと寝台の上で後退する。
「私は二條のお屋敷にいたはずです。そこに男の人たちが押し入って、それで――」
「押し入っただなんて失礼な言い方ね。なかなか帰って来ない家出娘を、わざわざ引き取りに行っただけなのに」
「ひ、引き取るって」
再度周囲を見渡すと、戸のあたりに父の姿があった。
「桜子、目が覚めたか」
「お父さままで、なぜ……ここはどこなのですか。道枝の屋敷ではありませんよね?」
父は疲れた顔で室内に入ってくると、継母の横に並ぶ。
「別にどこでもいいだろう。私たちはお前と直接話がしたかったんだ」
「話?」
彼らの口からそんな言葉が出るだなんて。桜子は知らず身構える。
「桜子、よく聞け。お前が話を聞けたなら、きちんと二條の屋敷に返してやる」
「一体……何がおっしゃりたいのですか」
父が寝台に腰を下ろす。薄暗い室内のせいで、父の表情がきちんと見えない。
「端的に言う。道枝との縁を切るな」
「……え?」
意味が分からない。
桜子が眉を寄せれば、父の語調が強くなる。
「とぼけるな! 二條さまに頼めば、糸を切るなど容易いことだろう。道枝との縁を切って、自分だけ一葉や二條の恩恵を受けるつもりだろうが……そうはいかない。育ててやった恩を忘れたのか?」
「そうよ、桜子。きちんと道枝の娘として茶会に臨みなさい。私たちも貴女の父母として、きちんと茶会に出席するから」
隣の継母の諭すような調子が煩わしい。
つまりは――なんだ。桜子は呼吸が浅くなるのを感じた。
一葉分家として本家に良い顔をするため、神眼を持つ桜子を利用したいということ?
「わ、私は」
「はい以外の答えは求めていないのよ桜子。お話がちゃんと聞けたら巽さまの屋敷に帰れるわ。ああ、嘘を吐こうなんて考えては駄目。そうしたら――」
継母がうっそりと目を細める。まるで悪鬼の如き笑みであった。
「あの屋敷にいた女の子、今度は怪我だけじゃ済まないかもしれないわね」
咄嗟に言葉が出ない。
こんな話をするために桜子を攫って、伊里を巻き込んだというのか。こんな、こんな――。
桜子は目をきつく瞑る。
「…………分かりました」
伊里を人質に取られてしまったら、そう答える以外ないではないか。従順な桜子の態度に、両親はホッとしたように肩の力を抜いた。
「流石は由緒ある道枝の長女ね。賢い子を娘に持てて嬉しいわ」
擦り寄るように継母の手が桜子の頭を撫でる。ぞわと鳥肌が立った。身を捩り、その手から逃げる。
「まあ、恥ずかしがらないでいいのに」
猫なで声に背筋が寒くなる。桜子は別れる直前、巽に頭を撫でられたことを思い出す。巽はなんの見返りもなく真っ直ぐに桜子自身を見てくれるのに、この人たちは桜子を利益を生む卵としか思っていない。
苦しい。人に対してこんなに憤るのは初めてだ。
「あと、ひとつだけやってもらいたいものがある」
父が懐からつげ櫛を差し出してきた。
「これは?」
「翠の櫛だ。これにあの子の縁の糸が絡まっているだろう? この糸と……ここにある糸を結んでほしいのだ」
そう言って、父は懐から鼈甲色の万年筆を取り出した。一目で良いものだと分かるそれからは、うっすらと一本の糸が絡んでいる。
「翠の糸と、こちらの糸を結ぶ? これはどなたの糸でしょうか」
「お前が知らなくてもいいことだ。茶会に臨むというのだから、縁を結うことはもうできるのだろう?」
桜子の手に櫛と万年筆が押し付けられる。今すぐやれと言わんばかりの圧に、桜子は戸惑うしかない。
「もしかして……できないの? 神眼を持つというのは嘘なの?」
継母が畳み掛けてくるも、桜子は「違います」と否定する。
「話を聞けたら屋敷に帰すという話ではなかったのですか」
「その話の中に、この糸を結ぶことも含まれているわ」
そんなもの、詭弁ではないか。
桜子は唇を噛む。この望みを叶えたとて、今度は別の要求が出てくるのでは――結局は彼らが桜子を解放すると言わない限り、ここからは出られない。
桜子は嫌な予感に絶望する。顔を上げると、こちらを値踏みするような目をした両親の姿があった。結ぶまでいかずとも、何かしないとこの場は解放されそうにない。
桜子は仕方なく万年筆に意識を向け、糸に集中する。
ぼんやりと糸から記憶が流れ込んでくる。男性だ。歳は巽より上……この万年筆を使って書き物をしているところに、使用人らしき人が名前を呼んで――はたと、集中が途切れる。
「弥幸さま……?」
桜子の呟きに、両親の顔が硬直する。
「この万年筆の持ち主は、一葉弥幸さまという方ではありませんか?」
「……なぜ分かる」
彼らの問いには答えない。桜子は顔を歪める。やはり、と確信する。
「翠と縁を結ばせるのは一葉との縁談が目的ですか」
「糸だけで、そこまで……」
父の顔に驚愕とも畏怖ともとれる色が浮かぶ。隣の継母は桜子の顔をじっと見つめると、声音を固くする。
「それで、糸は結べるの?」
「結べますが……結びたくありません」
手の中の櫛と万年筆を父の前に差し出す。
「弥幸さまと翠は、面識がないのではありませんか? 縁談相手という感じでもありませんし……翠が望んでいたとしても、お相手の意向もあります。私は結ぶべきではないと思います」
「まあ、随分と偉そうな口をきくようになったのね。余程この場所の居心地がいいみたいだわ」
継母の額に青筋が浮く。桜子が反論するより早く、彼女が寝台を離れる。
「しばらくここにいたらいいわ。頭が冷えた頃に、また来るわね」
「そんな!」
父までもが黙って桜子に背を向け、部屋を出ていく。
このまま巽の屋敷に帰れないのか。桜子は寝台から飛び降りると無情に閉まっていく出口に駆け寄りかけ――カチャンと硬質な音がしたことに絶望する。
外から鍵を掛けられてしまった。
背後の窓は格子があって出られない。
「帰れない……巽さん……」
これからどうしたらいいのだろう。桜子は成す術なく、床にへたり込む。ここがどこかすら分からない。二條の屋敷は今どうなっているのだろう。
見上げた窓は、夕日に煌々と染まっていた。
