春待つ乙女のしあわせな縁切り


 電球が明滅している。
暗澹(あんたん)たる空気が漂う道枝(みちえだ)家の居間には、三つの人影のみが集っていた。最近の女中らは不穏な気配を嫌い、道枝の人間から距離をとるようになっていた。

二條(にじょう)さまが桜子を保護すると言ったからには、アレはこちらと縁を切って茶会に臨む気だ。もう手遅れだ」

 (みどり)は、「失敗した」と食卓で項垂(うなだ)れる父の背を冷ややかに見つめた。 

「ならせめて……せめて茶会前に、桜子と話ができないかしら?」

 向かいに座る母が歯噛みする。上等な着物の袖から覗く指先は、癖のように苛苛(いらいら)と動き続けている。

 誰も彼もが桜子、桜子と、姉のことばかり――翠は腹の中で言いようのない感情が(うず)くのを感じた。

「このままじゃ二條だけではなく、一葉(ひとつば)とも懇意にはなれないじゃない。あの疫病神を屋敷にここまで育てて置いていたのは私たちなのに、何の見返りもないだなんて。そんなこと許されるとでも思っているのかしら」

 母の悲痛な声が翠の頭に刺さる。
 桜子は天眼も持たない、役立たずの疫病神。だから何を言っても、何をしても許されるのだと思ってきた。なのに――二條の屋敷で見た桜子は、翠が見てきた彼女とは全く違っていた。
 二條当主に臆することなく物を言い、二條(たつみ)を庇うような素振りを見せていた。

 ――ただの役立たずの、姉だったのに。

 翠は笑顔を張り付け、口を開く。

「お父さま、お母さま」

 両親はようやく翠の存在に気づいたようだった。二條家に父とともにわざわざ行かせたくせにと、内心毒づく。

「私の天眼も、一葉分家の中では抜きん出て優秀です。お姉さまなんて居なくとも、私がこれから一葉や二條の方と懇意になればきっと道枝の名も――」
「そんなものじゃ駄目よ!」

 母がばっさりと切り捨てる。

「神眼は特別なのよ。何物にも代えられない。良い子の貴女なら分かるでしょう?」
「……ええ、そうですわね」

 ただの天眼では不十分だと? これまでの努力は何だったのかと、翠は忌々しく眉を寄せる。

 もう好きにすればいい。嫌いな姉がどうなろうと知ったことではない。翠が裾を翻すと、背後から両親の仄暗い声が聞こえてきた。

「まだ、方法はある」
「なら――」

 翠は振り返ることなく、足音高く居間を出て行った。


 ◇


「わぁ! これがお茶会で着られるお着物! 素敵!」

 伊里(いり)は部屋に入るやいなや、桜子の手を引いて衣紋掛けに駆けていく。

「わわっ、伊里さん!」

 伊里と顔を合わせるのは二週間ぶりか。静香(しずか)や道枝の訪問が重なったせいもあってか、もっと長く会っていなかったように思える。桜子はよろけながら、彼女に引っ張られていく。

 春の(きざ)しを感じさせる明るい陽光が、窓から差し込んでいる。昨日呉服屋から届けられたばかりの白い着物が一層眩しく見えた。

「やっぱり巽おにいさまが選ばれたのですか?」
「いえ、私がこれがいいと選びました。巽さんもいいとおっしゃってくださったので」
「ふたりで選ばれたんですね! いいなぁ……」

 伊里はうっとりと着物を眺めた後、そっと顔を寄せてきた。

「ねえ桜子さん。最近おにいさまと何かありました?」
「何か、ですか」

 桜子が首を傾けると、伊里が含みのある笑みを浮かべる。

「色々あるじゃないですか。()()()()、あったんじゃないですか?」

 巽と想いを告げ合ってから数日は経っているが、もしかしてそのことを言っているのだろうか。顔が赤らむのを抑えられず掌で頬を覆うと、「まあ!」と伊里が飛び上がる。

「やっぱりそうなんですねっ! 何だか雰囲気が違うような気がしたんですよう! わたしがいない間に、どんなことがあったのですか?」
「あの、えっと」
「女の子同士なのですから、気にせず話してくださっていいんですよ?」

 年相応の恋への憧れを滲ませて、伊里が距離を詰めてくる。そんなに食いつかれる程の内容ではないのだけれど――桜子がたじたじとしていると、廊下から巽と英治(えいじ)が顔を覗かせた。 

「伊里、あんま桜子さんを困らせんなや」
「えー、おにいさまと桜子さんのお話をしてましたのに!」

 ふくれっ面で伊里が離れていく。今日の巽は吊りズボンにシャツと、随分気取らない服装をしている。けれど、それが余計にすらりとした長身を際立たせていて、とても格好がいい。桜子はそわそわと視線を彷徨(さまよ)わせる。

「外に買い物に出てくるわ。英治も連れてくから、伊里と留守番頼むわ」

 英治に鞄を持たせた巽が、桜子のそばに来る。 

「分かりました。お戻りは」
「そんな掛からへん。夕飯前には戻る」

 なら夕食は一緒に食べられそうだ。微笑んで頷いてみせると、巽がポンと桜子の頭を撫でた。

「ほな。また後で」
「い、いってらっしゃいませ」

 巽のこちらを見る目が前よりずっと優しい、と思う。桜子は頭にそっと触れる。あの日からずっと心がふわふわしている。まるで夢を見ているようだ。

 そういえば先程から伊里が静かだ。ハッとして振り返ると、彼女は口許(くちもと)を押さえて悶絶していた。

「わ、私は伊里さんの楽しいお話も聞きたいです」

 巽らの自動車が出ていくのを窓越しに見送った後、桜子は伊里に話を振る。これ以上、こちらの話をしないための予防線のつもりだが、純粋に伊里のことが気になったというのもある。

「わたしですか? うーん、ないですねぇ。お見合い話はたくさん頂いているんですけれど、どれも現実味がないと言いますか」

 伊里は手近な椅子に腰掛けると頬を掻く。桜子は巽とともに外出した使用人を思い浮かべる。

「身近な方で、そういった方は」
「……そう、ですねぇ」

 伊里からいつもの勢いが薄れていく。

「一緒にいて素敵だなと思っても、身分とか色々あるじゃあないですか。わたしは細かいことを気にしない人間ですけど、流石にこればっかりは」

 以前巽も言っていた。天家はやはり天眼を持つ者同士で結ばれるのが当たり前だと。
 けれど、伊里の本心など聞き出さずとも分かる。彼女の物憂げな表情に、桜子は切なくなる。

「私にはおふたりを繋ぐ糸がとても素敵な縁に視えていますよ」

 無責任なことは言いたくないが、彼女の気持ちは理解していると言いたい。あえて天眼を絡めて伝えると、伊里は目を丸くしてからへにゃりと笑った。

「嬉しいです……へへ、そうなんだ……」

 伊里と英治の気持ちが納得のいく形におさまりますように――桜子が心の中で祈っていると、屋敷の表の方からエンジン音がした。

「巽さんでしょうか」

 帰ってくるには早過ぎるような気もする。

「えぇ、もうですか? あ、忘れ物したのかもしれませんね。もう、浮足立ってるからって……」

 伊里がひょいと椅子から立ち上がり、廊下へ顔を出し――そして固まった。

「……伊里さん?」

 伊里がすぐさま頭を引っ込める。こちらを振り返った顔は引きつっていた。

「桜子さん、し、知らない人が……っ」
「え?」

 理解が追いつく前に、伊里の背後から手が伸びてきた。桜子が声を上げる間もなく、伊里が後ろ手に引き倒される。悲鳴を上げて伊里が床に転がるのと同時に、体格のいい男たちが複数人、室内へ踏み入ってきた。

「伊里さん……っ!」

 伊里に駆け寄ろうとするも行く手を阻まれ、眼前に刃物を突きつけられる。

「お前が道枝桜子か?」

 男の背後で、伊里にも同様に刃物が向けられていた。伊里は目を見開いたまま、恐怖で顔を身体を強張らせている。

 彼らの目的は、まさか自分? このままでは伊里が傷つけられてしまう――桜子は自分の身の安全も忘れ、必死に前へ出る。

「桜子は私です」

 男たちの目が一斉にこちらを向く。足が竦みそうになるのを堪え、桜子は更に一歩踏み出す。

「貴方たちは誰なのですか」
「おい、こっちの女を縛れ」

 男たちは桜子の言葉を無視し、伊里の手を締め上げていく。伊里から悲鳴が上がり、桜子は青褪(あおざ)める。

「乱暴はやめてください!」
「静かにしろ。コイツには布を噛ませろ。叫ばれちゃ面倒だ」

 今度は標的が桜子に変わる。

「い、嫌……」

 じりじりと近づいてくる彼らから逃げようと後ずさるも、足がもつれて派手に転んでしまう。そのときに腕が何かにぶつかった気配があった。派手な音を立てて、布が桜子の頭上から降ってくる。
 衣紋掛けに当たってしまったのか。
 桜子は着物を引きずり、壁際まで這い逃げる。

 彼らの目的は桜子ただひとりのようだ。その証拠に伊里には目もくれない。
 背中が壁に当たる。もう逃げ場がない。

「大人しくしていろ。抵抗しないなら、あの娘は逃がしてやる」

 桜子が床に潰れたまま振り返れば、声もなく伊里が泣いていた。

「伊里、さん……」

 こちらの手足を取り押さえてくる手の乱雑さに、身体が竦み上がる。桜子は混乱する頭を必死に振り絞る。
 どうしたら――桜子は震えながら身体に絡まる着物の端を握り締め、はたと気づく。

 これなら巽が気づいてくれるかもしれない。桜子は掌に力を込め、目を閉じる。
 動きを止めたことで諦めたように見えたのか、口に猿轡(さるわぐつ)を噛まされる。身体を縛られ、そのまま肩に担ぎ上げられてしまう。その勢いで身体からバサリと着物が滑り落ちた。目を開けて、うまくいったことを確認し胸を撫で下ろす。

 そこに、ようやく我に返った伊里の悲痛な声が割り込んだ。

「桜子さん、桜子さん!!」

 ――大丈夫。

 桜子が着物に視線を送ると、伊里が目を見開いた。もう一度頷いてみせると、彼女も唇を噛みながら何度も頷いてくれた。
 こちらの様子には気づいていない男らが、桜子を担いだまま扉へと向かう。

「よし、男が戻ってくる前にずらかるぞ」

 部屋を出る直前、乱雑な手つきで鼻を布で覆われた。と、同時にツンとした香りが鼻腔を刺し、急激に瞼が重くなる。

 ――巽、さん。
 暗幕を下ろされるように、桜子の意識は真っ暗闇に沈んでいく。最後に見たのは、淡く光る白い着物だった。