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外から声がする。
桜子は未だ止まらぬ涙を袖口で拭うと、窓へと顔を向ける。静香は中にいた方がいいと言っていたが、本当に出て行かなくていいのだろうか。
おそらくこちらに配慮してくれたのだと思う。桜子は父と翠から向けられる、こちらを嘲る冷たい目を思い出す。あの目で見られるだけで、自分がまだ疫病神と呼ばれて屋敷に閉じ込められているのではないかと錯覚してしまう。
桜子は言い聞かせるように自身の腕を抱く。
――大丈夫、もうあの頃の自分ではない。それに、今は隣に巽がいてくれるではないか。
ほんの少し離れただけなのに、もう巽のことが気になって仕方がない。今、彼は何をしているのだろう。静香とどんな言葉を交わしたのだろう。
桜子が鼻をすすったところで、勢いよく扉が開いた。
「桜子さん! 当主と一体何の話、を――」
ようやく会いたかった顔が見られて、桜子はほっと息をつく。はじめ巽もどこか安堵の表情を浮かべていたが、桜子に近づくにつれ、表情を険しくさせていく。
「……あん人に何言われた」
「巽さん?」
「何で泣いとるん。クソ……あの女、のうのうと帰すんやなかった」
悪態をつく巽に、桜子はハッとして自身の目許を拭う。何か勘違いをさせてしまっている。
「ご、ごめんなさい。ちょっと思い出すことがあって涙が出ただけです。二條さまは関係ありません」
「ホンマに? 酷いこと言われたりしたんと違うん」
「いいえ。二條さまは本当に、とてもお優しくしてくださいましたもの」
巽はまだ納得しきれない様子ではあったが、座る桜子の前に膝をついて目線を合わせてくる。
「ごめんな、ややこしい家の問題に巻き込んでもうて。不安やったやろ」
「私は平気ですよ」
桜子が微笑んでみせると、巽はさらに顔を曇らせる。
「けど……」
「だって、私が望んでここにいるのですから。巻き込んだなんて言い方、なさらないでください」
心からの言葉だった。巽は何か言いかけたが、音になることはなかった。
しばらく無音の時間が続く。
カチ、カチと振り子時計の秒針の音が、やけに大きく室内に響く。巽は逡巡しているようであった。桜子は黙って彼の続きを待つ。
「……これは、僕なりの反発やってん」
伏せられていた巽の目が、ようやくこちらを向く。
これというのが、巽と桜子の取引を差していることはすぐに理解できた。
「和泉と血ぃ繋がっとらんてだけで、あれこれ言う周りにうんざりやった」
「……はい」
英治から内容は聞いていたが、本人の口から聞くと重みが違う。安い共感などできない。桜子は頷くことしかできなかった。
「面倒が嫌で……気ぃついたら周りの顔色ばっか見て、ええ顔しぃな自分が当たり前になってもうて。ふと、僕何してんねやろ、馬鹿みたいやなて思たら……全部嫌になってん」
だから二條家を出た、と巽は自嘲する。
家に居場所がなく、疎まれ、顔色ばかり気にする自分が嫌い――そうか、自分たちは似ているのか。
桜子はまるで我が事のような気分になっていた。
「最初はな、正直桜子さんをうまく利用したろうと思っとった。けど一緒に過ごすうちに……なんやろ、しこりみたいなんが、ずっと胸ん中に残るようになった」
外はすっかり静まり返っている。静香や父らはもう帰路についたのだろう。
「ホンマは僕のことを最初から全部話しておくべきやったんやって、今なら分かる。けど、言えへんかった。桜子さんに……」
「私に……?」
言い淀む巽にそっと聞き返せば、彼らしからぬ弱々しい笑みが返ってきた。
「桜子さんには……桜子さんにだけは、なんやこんなちっぽけな人間やったんかって思われたくなかってん」
桜子は目を丸くする。いつだって桜子より大人で、飄々と振る舞っていた巽の口からそんな言葉が出てくるとは思わなかったのだ。
「しょうもない見栄やわ。笑ろてくれてええで」
「わ、笑いません。絶対笑いません!」
自分に対して見栄を張るだなんて、どうしてそんなことを――桜子は前のめりに、巽との距離を詰める。
「私のことはどうぞ、思うようにお使いください。それで巽さんが救われるものがあるのなら、私は喜んで巽さんの婚約者になります」
巽は立ち上がると、苦しげに顔をしかめた。
「桜子さん、自己犠牲も程々に――」
「違います! そんな気持ちで言っているのではありません!」
おさまっていたはずの涙が、何かに急き立てられるように込み上げてくる。
「巽さんが私を助けてくださったように、私も巽さんを、助けたいのです。私が、巽さんのそばにいたいのです」
「桜子、さん」
どう思われるだろうとか、迷惑ではないかとか。これまで色々と考えていたはずなのに、全てが溢れる感情に押し流されていく。
「どんな巽さんであろうと、私は絶対そばにいます。だから……だからどうか、私を近くに置いてくださいませんか」
最後は喉から絞り出すような声になってしまった。涙は零すまいと、桜子は息を詰める。巽はそんな桜子をじっと見つめると、膝の上で固く握り締めていた手に触れてきた。
「桜子さんの方が、僕なんかよりずっと肝が据わっとるやん」
「巽、さん」
「離せへんようになるで」
強張っていた指に、巽の長い指が絡む。
「これ以上踏み込んでもうたら、僕が……僕の気持ちが、君を離せんようになる。それでもええか」
「気、持ち……?」
掌から伝わる熱が、肌を焼くようで。桜子が呆けて聞き返せば、巽の目が泣きそうに歪んだ。
「君が好きや」
世界がぐらりと揺れた気がした。
ずっと早鐘を打っていた心臓が、ひたりと止まったような感覚。気づけば手を引かれ、巽の腕の中にいた。
「色々順番ぐちゃぐちゃになってもうて、ごめん。一葉の茶会が成功したら……取引や関係なく、ちゃんと僕の婚約者になってほしい」
巽の声が震えている。桜子が息を吐き出すと、止まっていた心臓が大きく脈打ちだした気がした。目の奥が熱い。巽の胸元に頭を預けると、涙が頬を伝って落ちていった。
「はい……はい……っ」
この人は、なんてあたたかいのだろう。桜子が彼の背にそっと手を回すと、彼の腕がひくりと跳ねた。
「私も、巽さんのことをお慕いしております」
腕に力を込めると、同じだけの力で応えてくれる。
たったそれだけのことが、桜子にはとても、とても嬉しかった。
