◇
室内には重苦しい空気が流れている。巽は腕を組んだまま、黙してソファに身を沈めていた。
待つだけの時間ほど性質の悪いものはない。桜子と当主が姿を消してからまだそれほど時間が経っていないというのに、巽は幾度となく掛け時計を確認していた。
巽の前には道枝当主と桜子の妹。こちらも落ち着きなく室内を見渡している。
――二條当主を盾にして彼女を早々と連れ戻す算段やったろうに、ご苦労なことやな。
やはり取引を道枝に伏せていたことは正解だったと、巽は内心ほくそ笑む。
「……この度は」
沈黙に耐えきれなくなったのか、道枝当主が口火を切る。
「娘がご迷惑をお掛けいたしました」
「苦労も何も、そんなものありませんので」
巽がすげなく返すと、男は苦虫を噛み潰したような顔をする。
「桜子は、女学校にも行っておりません。巽さまのお相手には到底なり得ません」
「そうですわ。お姉さまはお台所に立ったこともありませんのよ。まともに家を取り仕切れるとは思いませんわ」
隣の妹までもが、当然のような顔をして桜子を悪しざまに言う。巽はうんざりであった。
「せやから、何? おたくらが他から神眼の娘を連れてきてくれはるんですか」
「いや、そういうわけでは……」
「それともなんです。自分みたいな娘なら、二條にちょうどええて言いたいんで?」
安い挑発を投げれば、妹の顔がさっと赤くなる。
「そのようなことは申しません! ただわたくしは、不出来な姉が迷惑をかけないか心配で!」
「心配、ねぇ」
「ただでさえ疫病神で道枝を苦しめてきたのですもの、二條家のような立派な家に入っては、きっと巽さまがご苦労なさいますわ」
彼女は余程桜子を下に見ている。いや、下に見ていいと思っているが正しいか。
彼らの背後に浮かぶ糸を見つめる。別室にいる桜子と繋がる糸は、お世辞にもいいものとは言えない。
糸は状況により多少は変化する。良縁が悪縁に、悪縁が良縁に変化することはほぼないが、良い縁がより良いものになるようなことは、まま起こる。
今回の場合は――巽は組んでいた腕の中で、苛立ちまぎれに指を叩く。悪かったものが、この二月でさらに悪しく変化している。
巽はため息を堪え、顎先を持ち上げた。
「天眼の欠点は、自分自身の糸が見えへんことやと思いません?」
巽があえて穏やかに口を開けば、道枝当主が怖気たように視線を彷徨わせる。
「おたくらが今、どんな糸で桜子さんと繋がってはるんか……流石に気づいてるんと違いますの」
「仮に悪縁なのだとしたら、巽さまは私たちとお姉さまの縁をお切りになるのですか」
ゆっくりと巽の口角が下がっていく。
「翠、やめなさい」
窘める父親の横で、翠の態度は強気そのもの。そういえば妹は翠という名前だったか。
余程向こう見ずな阿呆か、はたまたただの自暴自棄か。巽は当主ではなく、妹に低く吐き捨てる。
「さあ? どうですやろ。桜子さんがどう思うか……僕としては、今ここで全部切って終わらせてしまいたいんですけど」
巽の一言に、父親の顔色が明らかに変わる。
「子どもとの縁を他人が切るなど、いくら二條家の方とは言えど干渉が過ぎるのではありませんか!?」
――なんや。やっぱりそこが目的なんか。
桜子が道枝と縁を切れば、一葉や二條から受けられるであろう恩恵がなくなる。道枝の憂慮は目下それに尽きるらしい。桜子の心配を口にしながら、結局は己が利のことしか頭にないわけだ。巽は冷めた目で名ばかりの親を一瞥する。
一瞬落ちた静寂に、足音が混じる。
ようやく戻ってきた――三者三様に息を詰めたところで扉が開いた。けれど、英治を伴って室内に入ってきたのは、静香ただひとり。巽は腰を浮かす。
「桜子さんは」
「まだ中におる。今外に出ても色々障りがあるやろな思て、残してきた」
「障りて……」
こちらを制し、静香が道枝の前へ出る。それまで頑なであった翠も流石に当主の前ではしおらしい顔になる。
「道枝ご当主。今日はこのままお引き取り願いましょか」
ここへ来る時は味方であったろう静香の心変わりに、道枝当主が狼狽える。巽ですら、愕然と彼女を見つめてしまう。
「な、なぜ……」
「あの子は、こちらがきちんと面倒見させてもらいますよって。ご心配なく」
「そんな……せめて話を」
食い下がる道枝に、静香は淡々と告げる。
「一葉の茶会には来はるんでしょう。なら一段落着いた頃にお話したらよろしいわ」
それはつまり、二條家が桜子の身元を保証するという宣言に他ならない。
一体静香と桜子で何を話したのか。巽は眉を寄せる。
「当主」
「巽も今はそれでええやろ」
深く語る気はないらしく、静香はもう帰り支度を始めている。癪ではあるが、この場を収めたのは紛れもなく彼女。巽は深々と頭を下げる。
「……ありがとうございました」
まさかこの女性に礼を言う日が来ようとは。以前の自分では考えられなかった。
「見送りもええから。……大事にしぃや」
何をと問うのは野暮だ。今更どういうつもりなのか――少しの反発心と、普段向けられることのない関心への戸惑いから、巽は複雑な心境を抱く。
けれどそれ以上に今はあの子に会いたい。
巽は答えることなく礼のみ返し、静香らに背を向け急ぎ廊下に出た。
室内には重苦しい空気が流れている。巽は腕を組んだまま、黙してソファに身を沈めていた。
待つだけの時間ほど性質の悪いものはない。桜子と当主が姿を消してからまだそれほど時間が経っていないというのに、巽は幾度となく掛け時計を確認していた。
巽の前には道枝当主と桜子の妹。こちらも落ち着きなく室内を見渡している。
――二條当主を盾にして彼女を早々と連れ戻す算段やったろうに、ご苦労なことやな。
やはり取引を道枝に伏せていたことは正解だったと、巽は内心ほくそ笑む。
「……この度は」
沈黙に耐えきれなくなったのか、道枝当主が口火を切る。
「娘がご迷惑をお掛けいたしました」
「苦労も何も、そんなものありませんので」
巽がすげなく返すと、男は苦虫を噛み潰したような顔をする。
「桜子は、女学校にも行っておりません。巽さまのお相手には到底なり得ません」
「そうですわ。お姉さまはお台所に立ったこともありませんのよ。まともに家を取り仕切れるとは思いませんわ」
隣の妹までもが、当然のような顔をして桜子を悪しざまに言う。巽はうんざりであった。
「せやから、何? おたくらが他から神眼の娘を連れてきてくれはるんですか」
「いや、そういうわけでは……」
「それともなんです。自分みたいな娘なら、二條にちょうどええて言いたいんで?」
安い挑発を投げれば、妹の顔がさっと赤くなる。
「そのようなことは申しません! ただわたくしは、不出来な姉が迷惑をかけないか心配で!」
「心配、ねぇ」
「ただでさえ疫病神で道枝を苦しめてきたのですもの、二條家のような立派な家に入っては、きっと巽さまがご苦労なさいますわ」
彼女は余程桜子を下に見ている。いや、下に見ていいと思っているが正しいか。
彼らの背後に浮かぶ糸を見つめる。別室にいる桜子と繋がる糸は、お世辞にもいいものとは言えない。
糸は状況により多少は変化する。良縁が悪縁に、悪縁が良縁に変化することはほぼないが、良い縁がより良いものになるようなことは、まま起こる。
今回の場合は――巽は組んでいた腕の中で、苛立ちまぎれに指を叩く。悪かったものが、この二月でさらに悪しく変化している。
巽はため息を堪え、顎先を持ち上げた。
「天眼の欠点は、自分自身の糸が見えへんことやと思いません?」
巽があえて穏やかに口を開けば、道枝当主が怖気たように視線を彷徨わせる。
「おたくらが今、どんな糸で桜子さんと繋がってはるんか……流石に気づいてるんと違いますの」
「仮に悪縁なのだとしたら、巽さまは私たちとお姉さまの縁をお切りになるのですか」
ゆっくりと巽の口角が下がっていく。
「翠、やめなさい」
窘める父親の横で、翠の態度は強気そのもの。そういえば妹は翠という名前だったか。
余程向こう見ずな阿呆か、はたまたただの自暴自棄か。巽は当主ではなく、妹に低く吐き捨てる。
「さあ? どうですやろ。桜子さんがどう思うか……僕としては、今ここで全部切って終わらせてしまいたいんですけど」
巽の一言に、父親の顔色が明らかに変わる。
「子どもとの縁を他人が切るなど、いくら二條家の方とは言えど干渉が過ぎるのではありませんか!?」
――なんや。やっぱりそこが目的なんか。
桜子が道枝と縁を切れば、一葉や二條から受けられるであろう恩恵がなくなる。道枝の憂慮は目下それに尽きるらしい。桜子の心配を口にしながら、結局は己が利のことしか頭にないわけだ。巽は冷めた目で名ばかりの親を一瞥する。
一瞬落ちた静寂に、足音が混じる。
ようやく戻ってきた――三者三様に息を詰めたところで扉が開いた。けれど、英治を伴って室内に入ってきたのは、静香ただひとり。巽は腰を浮かす。
「桜子さんは」
「まだ中におる。今外に出ても色々障りがあるやろな思て、残してきた」
「障りて……」
こちらを制し、静香が道枝の前へ出る。それまで頑なであった翠も流石に当主の前ではしおらしい顔になる。
「道枝ご当主。今日はこのままお引き取り願いましょか」
ここへ来る時は味方であったろう静香の心変わりに、道枝当主が狼狽える。巽ですら、愕然と彼女を見つめてしまう。
「な、なぜ……」
「あの子は、こちらがきちんと面倒見させてもらいますよって。ご心配なく」
「そんな……せめて話を」
食い下がる道枝に、静香は淡々と告げる。
「一葉の茶会には来はるんでしょう。なら一段落着いた頃にお話したらよろしいわ」
それはつまり、二條家が桜子の身元を保証するという宣言に他ならない。
一体静香と桜子で何を話したのか。巽は眉を寄せる。
「当主」
「巽も今はそれでええやろ」
深く語る気はないらしく、静香はもう帰り支度を始めている。癪ではあるが、この場を収めたのは紛れもなく彼女。巽は深々と頭を下げる。
「……ありがとうございました」
まさかこの女性に礼を言う日が来ようとは。以前の自分では考えられなかった。
「見送りもええから。……大事にしぃや」
何をと問うのは野暮だ。今更どういうつもりなのか――少しの反発心と、普段向けられることのない関心への戸惑いから、巽は複雑な心境を抱く。
けれどそれ以上に今はあの子に会いたい。
巽は答えることなく礼のみ返し、静香らに背を向け急ぎ廊下に出た。
