春待つ乙女のしあわせな縁切り


 英治に案内されたのは、桜子が使っている部屋とは別の客間であった。張り替えたばかりの畳が瑞々しい、八畳ほどの和室である。英治(えいじ)が退出すると、静香(しずか)が卓の前に腰を下ろした。

「気ぃ楽にして座り」

 静香が向かいに座るよう勧めてくる。桜子は言われるまま、日が当たり温くなった畳に着座する。

「桜子さんやったか。(たつみ)は……色々と難しい子やったやろ」

 静香が口を開く。先程よりも距離が近い分、瞳の動きひとつまでもがよく見える。

「今日まであの子に付き()うて、苦労ばっかやったんと違う?」
「そんなことはありません。いつだってとても優しくしていただきました。巽さんには感謝の気持ちしかありません」
「そう……」

 正直に答えると、静香がすっと目を細めた。

「先に言うとくけど、あの子が二條(にじょう)を継ぐんは長男の和泉(いずみ)に何かあった時だけ」
「……え?」
「巽に二條の恩恵を期待して近づきはったんやとしたら、見当違いやで」

 『恩恵』という直接的な表現に頭の芯が冷える――つまり家柄目的ではないかと言いたいのだ。桜子は食い気味に口を開く。

「わ、私は断じて巽さんが二條家のご子息だから婚約者を受け入れたのではありません!」
「じゃあ、助けてくれる人なら誰でもよかった? 巽でなくともアンタは取引したんと違うか」

 彼女の舌鋒が、桜子の弱い部分を的確に暴いていく。咄嗟に言葉が出ず、口ごもる。
 どう答えるべきか――けれど、嘘をついてもいいことなどない。桜子は覚悟を決めて唾を呑む。

「……最初はそうでした。私を助けてくださるなら、巽さんでなくても誰でもいいと思っていました。あの時の私は、環境を変えられるのであればどんな扱いも受け入れる覚悟でした」

 ひたすら、助けてくれた巽に報いるためと思ってきた。けれど、気持ちは少しずつ形を変えていった。
 桜子は静香としっかりと目を合わせる。

「でも、今は違います。あの人が巽さんだから……私は全て受け入れてここにいます」
「その気持ちに嘘はないと言い切れる?」
「はい。誓って」

 桜子が頷けば、静香がそっと目を伏せた。彼女の長い睫毛が頬に影を落とす。伏し目になると巽とよく似ている気がする。ぼんやりとそう思った。
 静香が顔を上げる。その瞳が、まっすぐ桜子を見つめた。

「巽のこと、ちゃんと好いてるんやな」

 まるで水面に石が落とされたように、心に波紋が広がっていく。動揺はない。ただ、ゆっくりとその意味を噛み締める。

「はい、お慕いしております」

 口に出すと、言葉が一層腹の底に落ちていくようだった。迷いなくはっきりと言い切れることに、桜子は喜びを覚えた。自然と頬がほころぶ。そんな桜子とは対照的に、静香は淡々と表情を変えない。

「もし巽が桜子さんのことをただ利用しようとしてるだけやったら、どないするん」
「どうもしないと思います」
「都合ええように扱われても、構へんと」
「それでも構いません。私があの方を慕う気持ちに変わりはありません。それに……」
「それに?」

 静香が訝しそうに眉を寄せる。
 桜子は出会ってからの巽を思い起こす。人をよく見て、口が上手く、けれど決して他者を傷つけるような真似はしない優しい彼を。

「それに、巽さんはそのような非道(ひど)いことを平気でなさるような方ではないはずです。あるのだとすれば、その時は必ず理由があるのだと思います」

 静香から返答はない。彼女はしばし桜子を見つめ、そしてひとつ息を吐き出した。

「……巽が帝都に出てきた一番の成果は、桜子さんと出会えたことかもしれへんな」

 今の言葉は――静香に浮かぶぎこちない笑みに、桜子は目を瞬かせる。

「二條さま……」
「まあ、あの子が無茶苦茶したことについては今も腹立てとるんやけど、それをここで桜子さんに言うたところで仕方ないわ。桜子さんは、今の状況に納得しとるんやな?」
「はい」
「なら、わたくしから口出せるんはここまでやわ」

 巽と話していた時の印象と、目の前にいる静香から受ける印象が違う。正直もっと苛烈な女性だと思っていた。

「意外や言いたげな顔しとる。なんや言いたいことでもあるん」
「そ、そのようなことは」

 彼女とこうして顔を合わせて話す機会など滅多とないはずだ。それに先程の言葉。桜子は失礼を承知で一歩踏み込む。

「その、二條さまは巽さんとの関係を、どのように……」

 巽を完全に突き放している訳でもなく、かといって手を差し伸べるでもない。静香の在り方は、言いようのない距離感がある。

「……難しい質問やわ。わたくしもうまく言葉にできへんね」

 続きを察してか、静香が皮肉げに口端を歪めた。 

「あの子にとって、わたくしは親やないんよ。二條の当主でしかない。一番そばにいてあげなあかん時に、わたくしはあの子より家を選んだんやから、当然やわな」
「二條さま……」
「わたくしも今更母親の顔をする気はない。けど、当主として、天家を束ねる一角としてあの子を見守る権利はある」

 静香が卓の上でやんわりと細い指同士を組み合わせた。

「せやから……せめて桜子さんはあの子のそばにおってやって。わたくしやと、二條の存在がどうしても邪魔する」

 今まで一番温度のある声音で、静香が告げる。 

「それは、つまり……」
「あの子なりに足掻いとるんなら、今は黙って見守らせてもらう。道枝の家にはこちらから話しして筋通させてもらうわ」


 桜子は胸にじわじわと安堵が広がるのを感じた。よかった、巽がこれ以上苦しまずに済む。話は終わったとばかりに静香は立ち上がりかけ、はたと動きを止めた。

「あと、お節介かもしれへんけど」
「は、はい」
「あんた、道枝(みちえだ)とあんまり折り合い良くないやろ。縁見たら分かる」

 再び身体が緊張で強張る。冷淡にこちらを見下ろす静香に、桜子は動けなくなる。

「そ、れは」
「あちらさんから電話あった時から、なんや裏あるなとは思っとったんよ。これ、早いこと切ったほうがええよ」

 静香が桜子の背後あたりに視線を巡らす。おそらく糸を視ているのだろう。桜子には自身の糸が視えないため、家族とどのような形で繋がっているのかは分からない。さりげなくこちらを(おもんばか)る静香に、巽の姿が重なった。

「巽さんと、同じことをおっしゃってくださるのですね」 
「ああ……そうなん?」

 静香が小さく笑う。苦笑いのような、でもどこか嬉しそうな笑みだ。言葉の端々に滲む巽への感情は、決して無関心には見えない。

 この人も、形の違いはあれど巽のことを気に掛けている。桜子は複雑な立場にある静香に対し、言いようのない感情を抱いた。

「お気遣いは大変有り難いのですが、今はまだ縁を切りたくありません。あの人たちともきちんと話をしてから考えたいのです」
「あらそう? よう頑張るね」

 母親ではないと言い切っていたが、紛れもなくこの人は母親だと思った。静香の顔は、話し始めの頃より温度があるように見えて。もし桜子の実母が生きていれば、こんな風に話をすることもあったのだろうか。そう思うと、なぜだかじわりと涙が滲んできた。

「泣かんでええのに。……巽のこと、よろしゅう頼んます」

 静香が優しく二度桜子の肩を叩いた。外に控えている英治に声を掛ける後ろ姿に、桜子はそっと頭を下げた。