春待つ乙女のしあわせな縁切り


 ✣✣✣

 翌朝。
 桜子は鏡の前で何度も帯の位置を直していた。今日は二條(にじょう)の当主、静香(しずか)が来る。(たつみ)の母であり、一葉(ひとつば)とともに天家の両翼を担う人物。
 緊張で手が震える。いや、緊張だけではない。昨日から巽とは顔を合わせていない。夕食時になっても、彼は姿を現さなかった。

 あの人は今、どんな顔をしているのだろう。
 意を決して部屋を出ると、廊下の向こうから巽が歩いてくるのが見えた。濃茶の三つ揃えを着込み、髪も丁寧に整えられている。彼も桜子に気づき、一瞬動きが止まる。 

「お、おはようございます」
「おはようさん」

 短い挨拶を交わす。昨日よりもぎこちない気がするのは、桜子の心持ちのせいだろうか。
 厨より英治が顔を覗かせる。こちらも普段の和装ではなく、全身洋装を着込んでいた。

「坊っちゃん、おはようございます。本当に朝ご飯は召し上がらなくていいんですか?」
「腹減っとらん。済んだら適当に食うから気にせんで」

 横目で巽を盗み見ると、ちょうど欠伸を噛み殺しているところだった。よく見れば、目元が重たい。昨晩はあまり寝ていないのかもしれない。英治は「ちゃんと食べてくださいよ」とだけ言い残して、中へ引っ込んだ。
 と、巽の視線がこちらに向いた。ばっちりと目が合う。

「き、昨日はごめんなさい」

 桜子の口から衝動的に謝罪が飛び出すと、固かった巽の表情が僅かに和らぐ。

「すぐ謝る。悪いんはどう考えても僕やろ」 
「でも、巽さんのお気持ちを考えもせず、無遠慮に訊いたのがとても申し訳なくて」

 自嘲気味に巽が笑う。

「……なんやそれ。もっと責めてくれてええのに」
「そんなことは絶対にしません!」

 人には話したくないことのひとつやふたつ、あるだろう。桜子が何度も首を横に振ると、巽がきょとんとした。そして、ふっと頬を緩めた。

「さよか」

 ああ、やっと笑ってくれた。
 こんなちっぽけなことで、自分の気持ちが上向いていくだなんて。桜子はやっと息が吸えたような心地であった。
 巽が桜子の口許に目を留めた。

「顔合わせた時から思てたけど、今日は紅引いてるんやな。よう似合ってる」

 確かに普段より気を遣って化粧もしている。気づいていてくれたのか――桜子は思わず自身の唇に触れ、「ありがとうございます」と礼を言う。桜子は巽のネクタイあたりに視線を落とす。

「……た、巽さんも」
「ん?」
「お、お召し物、とても似合っています」

 いつも優しい言葉をくれる彼に、こちらも気持ちを返したい。精一杯の褒め言葉を口にすると、人から褒められ慣れているであろう彼はただ目を瞬かせる。

「珍しいこと言うやん。今日の服、そないに好みやった?」
「服も勿論、素敵なのですけど……」

 桜子はもごもごと続ける。

「それを着ている巽さんが素敵だなと……あ、あとちゃんと、いつも格好いいって思ってます」

 ちゃんとって、なんだろう。自分で言っておきながら段々と照れが勝ってくる。しどろもどろの桜子の様子が伝染(うつ)ったのか、巽が耳のあたりを掻きながら顔をそらす。

「……そら、おーきに。桜子さんに言われるんは、なんや照れるな……」

 ふたりして黙ってしまう。と――静寂を裂くように、屋敷の門の方からエンジン音がした。ふたりして玄関口へと顔を向ける。

「……行こか」

 一瞬にして外の顔になる巽の後に続き、桜子も緩んでいた頬をはたいて気を引き締める。

 開け放った戸の向こう、出迎えのため先に外へ出ていた英治の背中が見える。
 彼が深々と頭を下げる先にいたのは、ひとりの長身の女性――二条静香《しずか》。歳は五十に届くほどだと聞いていた。
 鋭さを感じさせる目許に、引き結ばれた唇。深藍に白花が大胆にあしらわれた着物を着こなす姿には、目を惹く覇気があった。
 そして、彼女の後ろには――。

「大奥様、ようこそいらっしゃいました」 

 英治の声が遠くに聞こえる。桜子は玄関の手前で立ち尽くしてしまう。

「ど、うして」

 思わず漏れた声は、情けなくも震えていた。
 静香の後ろには、道枝の父と翠がいたのだ。最後に見た時と変わらず、皺一つない和装をまとう父と、華やかな装いの翠。どちらもじっと桜子のことを見つめていて。

 巽は彼らを目に留めるとすぐに、桜子を自身の陰に押しやった。

「当主、お久しぶりです。まさか御自らご足労いただけるとは思いませんでしたわ」

 巽の他人行儀な挨拶に、静香がゆっくりと息を吐き出す。

「久しぶりなんはそっちやわ、巽。本家に寄り付きもせぇへんで、帝都に引きこもりよって」

 女性にしては低い、落ち着いた声音だ。桜子は巽の背中に押しやられたまま、彼らの会話を聞く。 

「僕かて、ええ大人ですから。どこで何をするんかはそろそろ自分で決めてもええでしょう。それより」

 巽が顎を持ち上げる。

「今日は貴女ひとりが()はるて聞いとったはずなんですけど。後ろの方々はどこから湧いてきはったんです」
「巽」

 静香の硬い声が飛ぶが、巽に気にする素振りはない。

「電話口で頑なに用向きを話したがらんかったんは、こういう理由やったんですか。随分と小狡いやり方しはるんですね」
「思い当たる節があるんなら、話は早いわ。手短に済ませよか」

 静香とともに、父と翠が応接間に上がる。英治がこちらの顔色を伺いながら給仕に当たっていた。

「お初にお目に掛かります、二條さま。私は道枝桜子と申します」

 入室早々、桜子が静香へ挨拶をするも、彼女は顔色を変えずじっとこちらを見つめるばかり。その視線の冷たさに、桜子は指先が冷えていくのを感じた。応接間の空気が、静香の一挙手で支配される。誰もが彼女の出方を伺っていた。