春待つ乙女のしあわせな縁切り


 桜子が呆けて間近の翠《みどり》を見つめれば、彼女は手の甲を撫でてきた。

「もう御歳は六十を越えてるって話ですのよ。欲しかったのは、若い奥様じゃなくて看護役じゃないかしら?」

 怖気が走る。翠が言わんとしていることを、理解してしまう。

「嘘、よね?」
「縁談だと当日まで相手のお顔を見ることが出来ないのが当たり前だもの。お姉様が今日までご存じなかったとしても、無理もないわ」

 聞いてもいないのに、翠は心底愉快そうに話してくれる。

「よかったですねえ。屋敷に閉じこもって一生を終えるより、疫病神のお姉様でも誰かに必要とされるんですから」

 目の前が真っ暗になる。伊藤がどんな事情の娘でもいいと言うわけだ。その歳まで独り身であったなら、嫁ぐという女を捕まえるだけでも一苦労だ。

「お、お父さまもご存知なの? 結婚話だって、みんなして騙していたってこと……?」 

 怒りか絶望か、声が震えた。人に対し感情も露わに話すのはいつぶりか。

「騙すだなんて人聞きの悪い。縁談を取りまとめたのはお父さまとお母さまだから、私に聞かないでちょうだい」

 翠の指先に力が込められる。逃げようともがくも、彼女の細い指が逃すまいと桜子に絡みつく。  

天眼(てんがん)も持たない無能なお姉さまがいなくなれば、道枝《みちえだ》家は幸せ。伊藤さまも若い娘が手に入って幸せ。お姉さまだって、自分を必要としてくれる方ができて幸せでしょう?」
「そんなわけ――」
「これが皆が幸せになれる道なのよ」

 幸せ――しあわせって一体なに? 桜子は全てが凍てたように何も言えなくなってしまった。
 こんなもの、ただ誰かの幸せにかこつけた贄ではないか。

「あのう……お話中のところ申し訳ありません」

 視線を上げると、厨から緊張した面持ちの年若い女中が洋燈(ランプ)を持ってこちらを見つめていた。翠が何でもないような顔をして桜子から離れる。

「あら何か?」
「念の為、桜子お嬢様に灯りを渡してきなさいと奥様に言われまして」

 彼女は桜子が日暮れまでに向こう宅へ着かないかもしれないと踏んでいるのだ。なのに、見送りもなしに送り出そうとしている。
 いや、締め出そうとしているの方が正しいのか。

 桜子は、こちらと十分に距離を取った上で突き出される女中の腕を見つめる。その先に揺れる洋燈が、なんだかとても滑稽に見えた。

「わざわざありがとう。よかったわね、お姉さま」

 翠が手を伸ばしかけて――明かりに引き寄せられたのか、ふらふらと一匹の羽虫が洋燈に飛び込んできた。虫が燈火に包まれ、勢いよく炎が膨らんだ。

「きゃあ!」

 炎からバチンと大きな音がした。
 驚いた翠が洋燈を地面に取り落とすと、ガチャンと耳に突き刺さる音とともに、硝子片があたりに散らばった。

「翠お嬢さま、どうかなさいましたか!?」

 翠の悲鳴を聞きつけ、廊下の向こうから幾人もの女中が顔を出した。その中には仕事中であろう父の姿もあった。翠の無事を確認すると、桜子と割れた硝子とを見比べて。
 みるみるうちに表情を険しくさせる。

 ――また疫病神のせいで。

 誰かが呟く声が聞こえた。もう、無理だ。振り積もった感傷が、桜子の心に爪を立てていく。早く立ち去れと言わんばかりの周囲の目に耐え切れず、桜子は外へ向けて駆け出した。

 幼くして生母を亡くし、人に疎まれ続ける冬籠りのような人生。
 ずっと、ずっと耐えてきた。結婚という光に手を伸ばしかけて、なのに蟻を踏むかのような容易さで、その指先を無惨に踏み折られて。
 夢見た幸せは、もう来ない。
 心が、もう限界だった。

 ✣✣✣

 ――逃げよう。
 桜子は息を切らして庭を駆ける。背後から翠の笑い声がしていた。色打掛が風に煽られ、桜子の脚を止めようと全身にまとわりつく。まるで周囲から結婚を迫られているようで、酷く気持ちが悪かった。

「なあ、そこのお嬢さん。その結婚、止めとった方がええよ」

 ふいに掛けられた声に、桜子は足を止めてしまう。見ると、屋敷の門の脇にひとりの男が立っていた。
 烏が人に化けたらこうなるだろうなと思うような出で立ちをしている。裾から覗く靴下から手袋までもが黒く、唯一の色といえば白皙《はくせき》の顔だけ。
 
「……どなたでしょうか。父ならば屋敷の中におりますが」

 身なりの良さから、父の仕事関係の人かと思ったのだが。男の反応はいまいちであった。

「お父上? まあ確かに僕は道枝の当主への挨拶でこの家に来てんけど……それはまぁ今は置いといて。なあ、お嬢さん」
「は、はい」

 大声でもないのに、男の声は不思議とよく通る。

「その結婚相手、誰の紹介なん? まさかご両親ちゃうよね?」

 桜子が返事をできずにいると、男はゆるりと首を傾けた。

「まともな人間やったら、そないな縁談、普通受けへんよ」

 まともな人間だったら――まるで自分が疫病神であることを見抜かれたような気分だった。桜子はこぼれそうになる涙を無理やり押し込める。
 
「そんなこと私が一番分かっています……分かってるけど……疫病神の私じゃあどうにもならないのです!」

 何故不運ばかりに見舞われるのか、分かればいいのに。人生は理不尽だと何度呪ったろう。
 男はきょとんとした顔で、更に首を傾ける。

「なんや気づいとったん。というか、疫病神てなんの話?」
「私は不幸を呼ぶと――」
「呼ぶ? なにそれ。結ぶやのうて?」

 微妙に、何かが噛み合っていないような。
 桜子のだんまりにじれた男はこちらへ近寄ってきた。彼の艶のある革靴の下で、新雪が音を立てる。

「不幸を呼ぶて、そんな酷い言葉、誰が言うてはるの」

 作り物めいた男の顔が、ぐいと鼻先に寄せられて。

「もしほんまに悪いことが起こるんやったら、悪いんはお嬢さんやない。全部()()が原因や」
「何をおっしゃって」  
「なんや、おもろいことになっとるもんなぁ……よっしゃ、僕が全部切ったろか?」

 外套に隠れて気づかなかったが、よく見ると男は腰に太刀を()いていた。漆塗りの鞘が裾から覗いている。
 この文明開化のご時世に刀を持つ人間がいるとすれば、それは――天眼始祖の家以外に、ありえないではないか。

 桜子が何か言葉を発する前に、気づけば男が目の前に迫っていた。鞘から引き抜かれた白刃が白く煌いてる。逃げる間もなく、男は何もない場所に向かって太刀を振り下ろした。
 すると、何にも触れていないはずの桜子の身体が前へつんのめった。まるで糸繰り人形(マリオネット)が全身の糸を引っ張られたよう。腕で支える暇もなく、無様に雪の中に突っ伏してしまう。

「わぶっ」
「おぉ、こりゃあすごい」

 何が起こったのか理解できない桜子に対し、男は感嘆の声を上げる。

「えげつない掘り出しもんや……使えそうやな」

 意味不明なことをブツブツと呟いている男を尻目に、桜子は身体を起こす。
 一体何なのだ。それに価値ってなんだ。
 いよいよ恐ろしくなり、逃げ出そうと腰を浮かしたところで玄関から焦ったような足音が近づいてきた。 

(たつみ)様! 何をされていらっしゃるのですか!」

 ――ああ捕まってしまった。
 父が間に割って入ってきた。