春待つ乙女のしあわせな縁切り

✣✣✣

 (たつみ)は、通信の切れた受話器を乱雑に戻す。ガチャンという金属音と、自分のため息が重なる。
 二條(にじょう)のことで手一杯であるのに、仕事は次から次へと舞い込んでくる。有り難い話ではあるのだが、今は(わずら)わしさの方が勝つ。
 苛苛(いらいら)と額の髪をかき上げ、自室へと足を向ける。

 今日明日の仕事は全て断っている。それほど実の母親がここへ足を運ぶということが巽にとって喫緊(きっきん)の問題であり、大きな負担でもある訳だが。巽は階段に足を乗せかけ、はたと桜子のことを思い出す。

 ――まだ外におるんやろか。

 もと来た廊下を戻り、自然と玄関口へと向かう。
 おそらく英治あたりが垂れ込んだのだろう、巽の湿っぽい昔話を。いつまでも彼女に隠し続けるのも無理だと分かってはいたが、彼女に聞かせたくなかったのも事実で。

 優しい彼女のこと、知ればこちらに協力しようとしてくれるに決まっている。けれど、巽は同情や憐憫で彼女の気を引くような真似はしたくなった。

 二條という立場を抜きにして、彼女とは話がしたかった。天家の常識に縛られていない彼女だからこそ、巽という己を色眼鏡なしで知ってほしかった、のだが。

「……ま、全部僕の身勝手でしかないわな」

 結果として、桜子に悲しい顔をさせてしまった。巽は再度ため息をつき、三和土(たたき)の履物を手に取りかけ――軒先に上背のある男が立っていることに気がついた。

 見たところ、あたりに桜子の姿はない。巽は外に出ることはやめ、玄関の戸を開け中から男に声を掛ける。

「ソースケくん。んなとこ突っ立って、なんやうちに用でもあるんか」

 以前見たときのまま、張りのある着物を端折った姿の宗介がのそりと振り返る。

「二條さん……すんません、お邪魔してます。さっきまでちょうど、桜子さんと話してました」
「へえ……手拭いやっけ? わざわざ律儀やなあ」

 巽がうっそりと笑えば、宗介は口を引き結ぶ。ここで躍起になって言い返してこないあたり、流石は厳しい縦社会で揉まれている若者といったところか。けれど、その律儀さの中に桜子に対するもっと別の感情が含まれていることなど、巽には手に取るように分かる。

 ――若くて、素直で、なんとも単純やな。

 けれど、それが羨ましくも、妬ましくもある。
 しばし沈黙が落ちた。彼女が掃除していた枯れ葉の山が、風に吹かれて崩れていく。
 おもむろに宗介が一歩こちらへ踏み出す。

「泣いてましたよ、桜子さん」 
「……あ?」

 意味を理解する前に、更に宗介が一歩前へ出てくる。

「泣いてたんすよ。多分、あんたのことで。顔、ぐしゃぐしゃにして」

 宗介の敵意に満ちた目が、巽を射抜く。
 桜子が泣いていた――玄関先で巽と別れた後、彼女はこの男の前で泣いていたのか。その事実は、少なからず巽の心に爪を立てる。
 何も言わない巽に、宗介が畳み掛ける。

「あの人のこと、解放してやったらどうですか」

 巽は眉を寄せる。

「……解放て、なんやねん」
「桜子さん、どう見てもあなたとは違う世界の人じゃないすか。普通で、優しくて。あんたらがお偉い天家だかなんだか知らねぇけど、泣かせてでも側に置くって、可哀想じゃねぇですか」

 この男に何が分かる――巽は冷ややかな眼差しを隠しもせず、口端を持ち上げる。

「君には普通に見えるんかもしれんけど、桜子さんかて天眼を持つ人間や。天家のことに口出さんといてもらえるか」

 彼女が()()()()()であることなど、百も承知だ。ただ神眼を持ち、力に苦しんでいただけで、芯の部分は純粋で素直などこにでもいる女性だ。
 そんな彼女を巻き込んでしまっていることも、こんな男に言われずとも、ずっと頭では理解している。
 理解は、しているのだ。
 巽が知らず拳を握ると、宗介が不審そうに目を細めた。

「桜子さんは、女中じゃねぇってことですか? あの人、俺が聞いた時に否定しなかったんすけど」

 そうなのか、と巽は冷淡に流してみせる。

「……あの子の今の立場はどうでもええやろ。君に口出す権利がないことは変わらへんのやから」

 どうせ宗介に聞かれ、困った桜子がその場でついた嘘なのだろうと思う。けれど彼女と自分を繋ぐものは所詮、無機質な取引でしかなく、そこに感情など挟まってはいないのだと突きつけられているようで。

「……やっぱり面白ないわ」
「はい? なんすか」
「や、なんでもない」

 巽は舌打ちしたい気持ちを堪え、戸に手を掛ける。

「用がないんなら、はよ帰り。道草食ってられるほど、そちらさんも暇やないやろ」

 会話を終わらせようとしているのを察してか、宗介が語気を強める。

「俺は難しいこととか分からねぇけど、桜子さん自身のことを考えないアンタこそ、偉そうなこと言う権利はねぇだろ」

 思わず手が止まる。遠慮のない言葉が、確実にこちらの迷いを狙い刺してくる。

 桜子は自分には勿体(もったい)ない――土手で彼女と話していた時に感じた苦さが、また込み上げてくる。

 (しゃく)ではあるが、宗介の言う通りだ。彼女を大切に想うならば手放してやるべきなのだ。神眼を持っていようと、力を使いこなせるようになった今の桜子なら普通の人間と変わらず暮らしていける。

 無垢なあの子を、天家というしがらみに関わらせるべきではない――頭では分かっているのに、繋いだ手のぬくもりが掌に染み付いて離れない。

「……ご忠告、感謝しますわ」

 巽は今度こそ戸を閉める。拒絶の意を込めて(かんぬき)を下ろすと、苛立ったため息とともに宗介が離れていく気配があった。

 桜子を手放せない理由――それは巽の心の中に明確な形を持ち始めている。

「あかんな、どないしよう」

 桜子を都合のいい道具として扱えれば、どんなに楽だったか。
 巽は額を手で覆うと、重い息を吐き出した。