春待つ乙女のしあわせな縁切り


 頭上には清々しい青天――なのに、桜子は玄関先を掃き清め終えると、もう何度目か分からないため息を落とした。

 二條(にじょう)当主、静香(しずか)の来訪は明日。英治(えいじ)は朝から支度に追われ、(たつみ)は相変わらず姿を見せない。桜子も手伝えることがあればと思い、掃除を請け負ったのだが。何をしていても、結局は気もそぞろである。

「……巽さん、何をされているんだろう」

 夕食は遅くに自室で食べたと英治から聞いたが、その後はどうしたのだろう。桜子は英治から話を聞いた後はひとり鬱々と自室にいたため、昨日から巽とは顔を合わせていない。

 少しでいいから、話ができたらいいのに。
 桜子が箒に額を当てて考え込んでいると、背後の屋敷で戸が開く音がした。

「何してんの? 掃除?」

 ずっと切望していた人の声に、桜子は慌てて振り向く。

「た、巽さん……! おはようございます!」

 妙に勢いよく挨拶をしてしまった。巽は靴に踵を押し込みながら一瞬驚いたように目を丸くしたが、すぐにへらりと笑う。

「おはようさん」

 白シャツに黒ズボンという気を遣わない服装からして、今日も仕事は入れていなさそうだ。巽は桜子の隣に来て、掃きためた落ち葉を見下ろしている。

「英治のこと手伝うてくれてるんか。手間かけさせてごめんな」
「私がやりたくてやっていることですから……それより、巽さんは今から外出ですか?」
「いや、英治に日ぃ浴びんと()びるぞ言われて。仕方なしに外出てきた」

 もしかして、英治に気を回されたのだろうか。桜子は朝からしょげていたところ、彼から外に出た方がいいですよと何度か言われていたのだ。だから外掃除から手をつけてみたのだが。

「もう緑の葉っぱが落ちる季節になったんやなあ」

 巽が横でしゃがみ、落ち葉の山に手を伸ばした。桜子もどうしたものかと悩み、同じようにしゃがんでみた。

「冬ももう終わりですね」
「早うぬくい季節になってほしいわ。寒いと外出るんも億劫で」
「ふふ、そうですね」

 色褪せた枯れ葉の中に混じる瑞々しい色の葉を手に取り、巽がくるくると弄んでいる。その横顔は、昨日外出した時と何も変わらない。
 穏やかな彼の様子に勇気をもらい、桜子は意を決して口を開く。

「今回みたいに、いつもご当主は急にご訪問されるのですか?」

 巽の葉を持つ手が僅かに止まり、また動く。

「いや? あん人がうちに来はるんは初めてやわ。せやから英治があんなに慌ててもうて」
「そう、なんですね。でしたら、巽さんは久しぶりにお母さまにお会いできるのですね」

 今ここで、二條のことを聞いたとはっきり巽に伝えたら、どんな顔をされるだろう。そもそも英治から何か聞いていないのだろうか。

 思考が喉元につかえて、会話の邪魔をする。桜子がそのまま黙っていると、巽がこちらの手を取った。

「……大丈夫。桜子さんは何も心配せんでええから」

 視線を上げると、困ったような、苦しいような顔をした巽がじっと桜子を見つめていた。

「取引を持ちかけて巻き込んだんは僕や。桜子さんはなんも悪いことしとらん」

 静かな、慈愛に満ちた声だった。

「巽、さん?」 
「せやから、そう辛そうな顔せんとって」

 すり、と彼の親指が桜子の手の甲を撫でる。
 辛そうな顔――桜子ははたと気づく。もしや、二條家に名指しで呼ばれていることを気に揉んでいると思われているのか。

 そうではないのに。こんな時にも彼はこちらの心配をしてくれる。その優しさが、今はとても辛い。

 桜子はくしゃりと顔を歪めると、必死に巽の手を握り返す。

「そ、うじゃないんです。私はただ、巽さんのことを考えていて……」

 巽が訝しそうに眉を寄せる。

「僕?」
「昨日二條家のお話を、英治さんからお聞きしたんです。それから私、ずっと……」

 巽の眉間の皺が、ゆっくりとほどけていく。
 瞳が揺れ、そして諦念にも似た色を浮かべる。

「あー……なんや、聞いたんやな」

 巽の仮面が、はらりと地面に落ちた気がした。虚勢も明るさも、全てが枯れ葉の山に埋もれていく。

 まるで居場所を失くしてしまった迷子のような顔で、彼は目を伏せた。
 責めたかった訳じゃない。桜子は握る手に力を込める。

「巽さん、私は――」
「坊っちゃーん! お電話でーす!」

 言いかけた桜子の言葉の先を、英治の大声が攫っていった。ぱっと持ち上がった巽の顔は、普段見慣れた彼に戻っていた。

「おおー、今行く!」

 彼は声を張ると、腰を伸ばしながら立ち上がる。

「ま、掃除もほどほどにして中入りや」
「あっ、待っ……」

 巽はぽんと桜子の頭に手を置くと、足早に中へと入っていってしまう。こちらが手を伸ばすも、彼が気づく様子もなく。言いたいことを言えないまま、桜子は虚しく伸ばした手を下げる。

「私の馬鹿……っ」

 (うずくま)ったまま、桜子は膝を抱える。顔を着物に押しつけると、じわりと涙が滲んできた。

 なんて不甲斐ない――己の不出来が悔しかった。もっと言い方を考えればよかった。彼の心情を慮るなら、今問わずともよかったのではないか。

 後悔が後から後から湧いてきて、桜子は嗚咽を上げる。ふと、遠くで戸の軋む音がした。

「……桜子さん?」

 名前を呼ばれた気がした。
 と、砂利を踏む足音が駆けてきたかと思うと、唐突に肩口を掴まれた。勢いのまま、顔を上げさせられる。

「どうしたんすか。具合でも悪いんです?」
「あ……宗介(そうすけ)、さん?」

 瞬きをすると、歪んでいた視界がはっきりとしてきた。目の前には、慌てた顔をした宗介が膝をついてこちらを覗き込んでいた。

「え、泣いて、たんすか」

 はじめ、ぎょっとした宗介であったが――すぐに我に返ると自身の懐を漁り、どこかで見た覚えのある手拭いを差し出してくる。

「すんません、拭けるもんがこれくらいしかねぇや。今日はこれ返しに来たつもりだったんすけど、色々と格好つかねぇな……」

 ぐいぐいと遠慮なしに顔を拭われると、零れた涙が顎を伝って着物に落ちていく。桜子はいそいそと手拭いを受け取り、「ありがとうございます」と呟く。

 当たり前のように手を差し出されたので、有り難く掴まらせてもらう。巽とは全く違う、タコの多い掌が桜子を掴み、立たせた。

「なんで泣いてたとか、聞いたらダメなやつっすか?」
「ええと、あんまり、うまく答えられる気がしないので」

 宗介のてらいのない物言いに、肩の力が抜けていく。桜子はこちらの様子をうかがう宗介を誤魔化すように、笑みを浮かべる。

「それより、何かこちらに御用だったのではないですか?」
「いや、別用でこの辺来ただけなんで。ついでに手拭い返せるかと思って、寄ってみたんすけど……」

 まさか泣いているとは思わなかった――そう言葉が続きそうな宗介の顔に、桜子は居心地悪く身じろぎする。誰かに泣いているところを見られるだなんて、とてつもなく恥ずかしい。

「……あの人、今日はいねぇんすか」

 しばし間をあけて、宗介がぽつりと口を開く。

「あの人?」
「二條さん」

 その名に、桜子の肩がぎくりと跳ねる。

「い、いらっしゃいますけど、今はお電話中かと」
「ふうん……? あの人が原因なんだ」

 宗介が面白くなさそうに目を細める。彼の真っ直ぐな目が、なんだか心の中まで見透かしてきそうで。桜子は手拭いを握りしめると、近くに立てかけてあった箒を手に取った。

「わ、私そろそろ戻らないと。手拭い、わざわざありがとうございました」
「いや、借りたモンは返すのが普通でしょ」

 宗介がまだ何か言いたそうにしていたが、桜子は深々と頭を下げると、「それではまた」と中へ引き上げた。戸を閉める直前まで、背中には宗介の視線が突き刺さっているのを感じていた。