今日の夕食は桜子ひとり。向かいに座るはずの巽は、まだ部屋にこもりきりで姿を見せていない。
遅くなるから先にとのことらしいが――桜子には箸が食器に当たる音がやけに大きく響いて聞こえた。
「それで……桜子さんは何をお知りになりたいのでしょう」
食後の茶を運んできた英治が、玄関での話の続きを始める。
「二條のご当主が静香さまでいらっしゃることや、坊っちゃんのお父上が志塚の勇さまなのはご存知でしたよね」
英治は食卓を挟んで桜子の向かいに座る。
「……巽さんと、本家の関係を知りたいのです」
おそるおそる切り出すと、英治の眉が寄せられる。
「誰かから、何か聞いたのですか?」
「いいえ。ただ、あの方の雰囲気や言い方から、あまりご関係がよろしくないのかなと思っていて」
帝大卒業後、本家のある大阪に戻らず帝都で事務所を開いたことや、伊里の口ごもり方。時折見せる本家と距離をはかるような態度。どれもずっと引っ掛かっていた。そう英治に伝えると、彼は小さく目を見張る。
「坊っちゃんから桜子さんにちゃんとお話していなかったとしても、態度には出されていたんですね。珍しいことです」
「え……?」
「昔から演技の上手な、隙のない方でしたから。そうですか……桜子さんの前では肩の力を抜いていらっしゃったんですね」
英治がしみじみと呟く。
どういう意味だろう。桜子が目を瞬かせると、英治が痛ましそうに笑った。
「なら、私からもできる限りお話しましょう。桜子さんのためにも、巽坊っちゃんのためにも」
英治は食卓で手を組み合わせた。しばし考えている風であったが、息をつくとゆっくりと口を開いた。
「坊っちゃんは二條家の次男でいらっしゃいますが……ご長男とは父親が違うのです」
思わぬ方向からの始まり方に、桜子は戸惑う。
「違う? では、ご長男の方のお父上はどなたで?」
「巽坊っちゃんがお生まれになる前に、病で亡くなられてしまったのです。私もまだ二條家にお仕えし始める前のことでしたので、直接見聞きしたことではないのですけれど」
英治は語る。
二條の女当主、静香のもとに最初に婿養子に入った秋人という男の間に生まれたのが、長男の和泉であった。
けれど秋人は身体が弱く、和泉が七歳の時に病で他界。後添いとして、志塚から勇が婿養子に入ったのだという。
「つまり、巽さんと和泉さまは異父兄弟なのですね」
「はい。和泉さまは、巽坊っちゃんとは九つ歳が離れていらっしゃいます。年齢差もありますし、幼い頃は巽坊っちゃんも和泉さまをとても慕っておられたのですが……」
英治が顔を曇らせていく。
「年齢が上がるにつれ、坊っちゃんは自然と和泉さまと距離を取られるようになっていきました」
桜子も無意識に膝の上の手を握っていた。
「何か巽さんと和泉さまとの間に問題があったということですか?」
「いいえ、何も。おふたりはただ仲のいいご兄弟でした。ただ……周りが」
英治は言葉を切ると、ため息を落とした。
「和泉さまの周囲の人間が、坊っちゃんのことをよく思っておりませんでした」
異父兄弟――どこか身に覚えのある言葉に、桜子も息を詰めた。
自分自身も、翠とは異母姉妹だ。
「亡くなられた秋人さまは、素晴らしい人格者であったと聞いています。生家の家柄もよく、お生まれになった息子の和泉さまも、神眼をお持ちで優秀な御方。後から家に入ってこられた勇さまと巽坊っちゃんに、周囲がどのような目を向けるか……桜子さまなら、少しお分かりになるのではないでしょうか」
英治の含みのある言い方に、桜子はじっと彼を見つめる。彼は言いづらそうに口端を下げた。
「申し訳ありません、道枝家と桜子さんのことは裏で調べさせてもらってたんです。なので、桜子さんの置かれていた状況は、私もある程度把握させていただいていると言いますか……」
「巽さんも以前、調べたとおっしゃっていましたから。英治さんが謝ることはありません」
英治が「ご存知でしたか」と気まずそうに視線を落とした。
桜子はあらためて巽の置かれていた状況に想いを馳せる。
優秀な長男と、人格者だった亡き異父。
異父を偲ぶ声や、長男と比較する声もあったことだろう。身内から謗られ、冷たい視線を送られることがどれほど心を削るのか。桜子は痛いほど理解している。
幼い巽が、慕う兄のそばに寄れなくなっていく心境を想像すると、胸が張り裂けそうで。
「ご当主の静香さまはどうなされていたのですか……? 和泉さまと巽さんのお母さまでいらっしゃいますよね?」
「静香さまは……何もできませんでした」
英治は複雑な感情を浮かべる。
「静香さまは、親である以前に二條のご当主としての責務がございましたから。今は少しずつ和泉さまに職務を分けていらっしゃいますが、当時は帝都と大阪を行き来され、月の大半が不在でいらっしゃいました」
仕事に追われる時期に生まれた幼い巽と関わる時間はとても少なく、幼少期は英治や乳母が、巽の兄弟や親代わりであったという。
母親はいないも同然。
巽は、ひたすらに勉学や天眼の力を磨くことに力を入れ、めきめきと頭角を現していった。けれど――英治は大きなため息を落とす。
「見ての通り、坊っちゃんは素晴らしい実力をお持ちです。けれど、二條という狭い箱庭がよくありませんでした」
古くから存在する天家は、しきたりや血筋を重んじる。長男が尊ばれ、次男以下はその補欠。いくら巽が神眼を持っていようと、いくら優秀であろうとも、長男の和泉には敵わない。
なれば、周囲の目や評価は、巽がどう足掻いても長男を支持し続ける。
「それは……」
努力が認められないことは、どんなに辛く苦しいことだろう。桜子は、ようやく巽が本家を離れて帝都に居を構えた理由を理解した。
「巽さんは……家を離れたかったのですね」
「坊っちゃんはずっと、息苦しかったのだと思います」
伴として英治をひとりだけ連れ、逃げるように帝都へ飛び出してきた。大学卒業後、家に戻るよう声が掛かるも突っぱね続け――やがて、桜子と出会った。
「……私、巽さんのことを、本当に……何も知りませんでした」
桜子は、雪景色の中でひとり立つ巽の姿を思い出し――こみ上げてくるものを押し込め、ただ俯く。彼は、どんな思いで桜子に手を差し出してくれたのだろう。
『僕が箔付けるにはこれが一番手っ取り早い。お前かて分かっとるやろ』
桜子との取引で英治に説明していた時の巽の暗い声が脳裏に蘇る。
――便利な道具でもいい。自分がもっと彼の役に立てればいいのに。
桜子はこれまでの無知な自分をただただ恥じた。
「桜子さん。そう悲しい顔をなさらないでください」
「……英治さん」
顔を上げると、英治が食卓から身を乗り出していた。
「最近の坊っちゃんは、桜子さんといらっしゃる時が一番楽しそうですよ」
「そんな、ことは」
「あの人は本来、人間関係もあまり固執されない方なんですよ。来るもの拒まず去るもの追わずと言いますか、うまく受け流していることが多くて」
桜子は、パーラーで名前を思い出せないまま適当に話を合わせていた巽の姿を思い出す。それに、自身の客間の女物の着物の数――桜子の知る巽とは違う、彼の別の面が時折、見え隠れしていた。
「どこかでずっと何かを諦めていた坊っちゃんが、今は桜子さんとの関係を大切にされている。それはきっと、意味のあることなんだと、私は思います」
自分がそんな大層な人間だなんて到底思えない。桜子は首を振る。
「私は、天家の皆さまのような知識も教養も、何もありません。巽さんのお気持ちを軽くすることができるなんて、とても」
「何ができるできないではなく、あなたが『桜子さんである』ということが大事なんですよ」
英治の言葉に、桜子は顔を上げた。
「……私で、あること?」
「はい。私だって、あなたが桜子さんだから、今のお話をしているんですよ」
自分が自分であること――無条件に存在を認めて、肯定してくれる。それが桜子にとって、どんなに嬉しいことか。道枝では誰もそんな言葉を掛けてくれなかった。
人を想い、寄り添うとはこういうのなのか。桜子は英治の言葉を噛み締め、「ありがとうございます」と頭を下げた。
巽の助けになりたい。桜子はただそう強く思った。
