春待つ乙女のしあわせな縁切り

桜子たちが帝電から降りると、そばを隅田川が流れていた。()いだ水面に青空が映り込んでいて、眺めるだけで桜子の心も穏やかに澄んでいく気がした。

 川からほどなく離れたところに、一際客の出入りが賑やかな大店があった。(たつみ)に続いて暖簾(のれん)をくぐると――途端、色の洪水に目を奪われた。

 朱、藍、浅葱(あさぎ)()の花。他にも桜子の知らない色が、所狭しと棚一面に並んでいた。
 これが全て誰かの着物になるなんて。巽が手際よく店の人間と話をしている横で、桜子は感嘆の息を漏らす。


「こちらなどいかがでしょうか。お嬢さまは肌のお色が白くていらっしゃいますから、淡いお色も映えそうです」

 店の女性が次々と反物を広げてくれるも、桜子は目移りしてしまう。

「どれも素敵です」
「桜子さんが好きなんを選びや」

 いくつか肩に当てられるが、これといった決め手に欠ける。迷う桜子を見てか、横で黙って棚を眺めていた巽が一つの反物を取った。

「これは?」

 差し出されたのは、朱華色(はねずいろ)に白花が散らされた絹布だった。店員も「お似合いですよ」と微笑んでくれる。桜子もとても可愛いと思ったのだが、その奥に置かれたものに、ふと目が吸い込まれてしまった。

 白練(しろねり)の地に裾へ向かって薄墨のぼかしが入り、春霞(はるがすみ)のような陰影が美しい反物。桜の花弁と流水文様が足元に散らされている。

 一目見て、心奪われた。
 けれど手元には巽が選んでくれたものがある。今更別のものを言い出すのも申し訳ない。
 桜子の様子に気づいた巽が、こちらの視線の先を追う。

「あれが気に入ったん?」
「……はい」

 正直に頷くと、巽が朱華を元の場所に戻し、白練のものを桜子の肩に当てる。

「ごめんなさい。折角選んでくださったのに」
「何で二人で来た思てるん。桜子さんが着たいもん選ぶためやん」

 巽は「よう似合てる」と目を細めた。桜子は巽の優しさに胸があたたかくなった。
 布地に合わせて帯も選び、採寸まで終わらせて店を出る。

「でも、あの色と柄を選ぶんはちょっと意外やった」

 巽とともに川沿いを歩く。戻りは英治が自動車を回して来てくれるらしく、約束の時間まで余裕があった。

「普段の着物の色味からして、もっと可愛らしいもんを選ぶんやろなと思っとった」
「私も普段なら多分選ばないと思います。でも、白と墨を見て、巽さんと初めて会った時のことを思い出して」

 桜子が道枝(みちえだ)の庭を駆けて逃げ出した、あの日。銀世界の中で、たったひとり巽の服だけに色があって。

「覚えていらっしゃいますか? あの時、巽さんは全身真っ黒のお召し物で」
「あー、せやったかもな。新年の挨拶周りで結構堅い服装しとったから」
「ふふ」

 土手から吹き上げてくる風が髪を乱す。桜子は横髪を押さえ、懐かしく思い出す。

「白雪みたいな地に、墨が流れるように差してあって……まるであの日の巽さんみたいだな、と。あなたに会えなかったら、今の私はここにいなかったから……お茶会に着るなら、絶対にあれがいいと思ったんです」

 桜の意匠が施されたあの反物は、まさしく春の訪れを告げる雪解け。桜子なんて春めいた名前をしているのに、ずっと氷に閉ざされたような人生を歩んでいた自分にとって、春告げの着物を纏えることは夢のようで。

 今も鮮やかに思い出すあの出会いがあったからこそ、これからがある。未来を考えられることが、桜子には何よりも幸せだった。

 ふと、横の巽の歩みが止まった。
 桜子が振り返ると、巽は弱ったように眉を下げていた。

「巽さん?」
「桜子さんは……」

 一度言葉を切ると、巽は迷うように視線を彷徨(さまよ)わせた。

「これからの事を、どう思てる」
「これから、ですか?」
「茶会やら、道枝の家やら……僕とのこともある。これからずっと取引に縛られて生きるんて、しんどないんかな思て」

 しんどい、辛い? あったとしても、そんなことは些末な問題なのに。桜子ははっきりと言い切る。

「私は、あの日したお約束を違えるつもりはありません。ここまで良くしていただいた御恩を、巽さんに返したいのです」
「恩て……ただ僕は、自分ばっかり……」

 言い募ろうとする巽を遮り、口を開く。

「私は巽さんが大丈夫だと言ってくださるなら大丈夫だと思っていますし、どんな辛い事でも平気です」

 本当は、その時になってみないと、分からないことだらけ。泣くことも、悲しいと思うこともたくさんあるのかもしれない。けれど、今の言葉は絶対に変わらない。
 桜子は心から笑みを浮かべる。

「だって、私は巽さんの事を信じていますから」

 巽の目がゆるゆると見開かれた。
 温もりを帯び始めた三月の陽光が、巽の色素の薄い瞳を照らしていて。やっぱり綺麗な人だなあと思った。 

「……かなわんなぁ」 

 巽が俯き、首筋を掻く。物言いたげな視線がこちらへ向けられるも、すぐにそらされる。
 いつもと、違う。 
 彼の様子に、桜子は自身の袷をぎゅうと握りしめた。困らせる事を言ってしまったのか。もしかして、重たいと思われてしまったのかもしれない。桜子がそろりと口を開きかけて。

「僕には勿体(もったい)ないわ」

 彼の口からぽつりとこぼれた言葉は、風に紛れてうまく拾うことができなかった。 

「あの、今なんと」

 こてんと首を傾げると、張りつめた巽の表情が和らぐ。 

 立ち止まっていた巽が桜子に近づき――当然のように桜子の左手を取ると、そのまま歩き出した。

「手、繋いでもええ?」

 訊ねるまでもなく、もう繋いでいるではないか。掌からじんわりと巽の熱が移ってくるのを感じ、桜子はいよいよ巽の顔を見ることができなくなった。

「だ、誰かに見られたら」

 婚姻前の男女が、こんな風に歩いていていい訳がない。巽に変な噂が立ちやしないかと、不安になる。
 桜子が僅かな抵抗で腕を引くも、びくともしない。

「こんな土手沿い、誰も見ぃひんやろ」
「そう、なのかもしれないですけど」
「ハハ、心配性やなぁ……桜子さん」
「は、はい」
「僕を信じてもろてもええですか」

 どうして――それを今言われてしまったら、手を離せなくなるではないか。桜子は唇を尖らせ、腕からゆっくり力を抜いていく。

「このやり方は、ちょっと、(ずる)くはないですか」

 抗議の意を込めて繋がれた手を握り返すと、隣からくぐもった笑い声が響く。

「せやな。僕は狡い男やわ」

 桜子は巽の穏やかな声音につられ、顔を上げる。口調とは裏腹に優しくて、けれどどこか切なさを孕んだ彼の眼差しがこちらを見下ろしていて。

 胸の芯を掴まれたように心臓が大きく跳ね、息が止まり――そして、気づいてしまった。

 ああ、自分はこの人を恋い慕っているのだな、と。