桜子にとあてがわれた客間も、長く過ごせばすっかり自分の部屋といった馴染み具合である。
いつものように朝の身支度を整えながら、壁に掛かる七曜表へと目をやる。三月十日――もうこの屋敷に来てから、今日でちょうど二月だ。
あっという間のような、ずっといるような。あたたかくて、夢のような日々が続いている。桜子は七曜表をパラパラとめくる。春――四月の末に一葉の茶会があると聞いている。今日から数えて、あと何日あるのか。幸せな気持ちの中に、一抹の不安がよぎる。
もう糸は視ることができる。結びも少しずつ形をなしてきている。
縁結びが可能になったことで、ようやく先日、巽《たつみ》にばっさりと悪縁を落としてもらった。当然糸が暴走することもなく、桜子に絡んだ糸はなくなった。
疫病神からの完全な解放だ。
不安な要素はなくなってきているはずなのに、何故だか落ち着かない。桜子は初めて巽の前で結びを披露した時の彼の様子を思い出す。
――あまり、嬉しそうではなかったな。
褒められるためにやっている訳では決してないのだが、もっと喜んでくれるかと思っていた。桜子は壁に背を預ける。あの時の彼のぎこちない反応は、なんだか肩透かしを食らったようで。自分の指針を失ってしまったような気がした。
それに、宗介へ向けていた巽の眼差し。
これまで多くのことを気に掛けてくれた巽だからこそ、不安に思うことがあったのだと思うが。それでも出会った頃の――取引を持ちかけてきた頃の彼とは、何かが違っている気がする。
巽が変わっている。そして、桜子自身も。
それは桜子にとって未知の感情で、自分で自分の気持ちを形にできない。巽には大切にしてもらっている。感謝しかない、はずなのに。
「感謝……だけじゃないのかな」
口に出してみても、この渦巻く感情は整理できない。彼なら、何か分かるのだろうか。
役に立ちたい。けれど喜んでももらいたいし、笑ってもほしいのだ。笑ってくれれば、きっと自分はどこまでも頑張れるから。
桜子は壁を伝ってズルズルと座り込んだ。
自分が何がしたいのか、分からなくなってきていた。
「買い物、行かへん?」
ちょうど桜子が朝食を食べ終わった頃合いに、巽が居間へとやってきた。珍しく寝間着ではなく、もう外着に着替えている。
「買い出しでしょうか。何か入り用のものでもあるのですか?」
普段ならば彼は今頃起きるくらいであるというのに。急ぎの用かと思い立ち上がったのだが、巽は桜子の着ている着物を悠長に指差している。
「そろそろ茶会に着ていける着物を新調せんとあかんな思て」
巽も茶会について考え始めていたということか。桜子はゆるゆると首を振る。
「私にお着物なんて、勿体ないです。それに客間の棚の中には、茶会にも着ていけそうな立派な訪問着がいくつかあったように思うのですけれど」
「いや、それ、桜子さんの為に誂えたものやないやん」
巽が言いづらそうに口ごもる。
「まあ、今着てもろてる服も全部そうっちゃそうなんやけど」
今日の桜子の装いは、小花の小袖。どこのどなたの持ち物かは分からないが、棚から派手すぎない柄を選んでお借りするのが日課になっていた。
「そんなこと私は気にしませんから。お借りできているだけでとても有り難いですもの」
「あー……や、そうなるんか」
随分と歯切れが悪い。何か他に言いたいことがありそうな――桜子は更に首を傾けかけ、はっと気づく。
「あっ、ずっとお着物をお借りしたままだなんて、いけませんよね。ごめんなさい、頭が回らなくて」
「いや、なんでそういう解釈になるん」
「あ……違ったのですか?」
巽が複雑そうな顔をして頭の後ろを掻いている。これは困っている時によくする彼の仕草だと、桜子はこの二月で学んでいた。ふたりして見合っていると、特大のため息が真横を通過していった。
「あーあーじれったいですねえ。桜子さんに似合う着物を贈りたいって、はっきり言えばいいじゃないですか」
英治が手際よく桜子の食器を下げ、退出していく。桜子は英治の後ろ姿を目で追いながら、ゆっくりと頭の中でその意味を咀嚼する。
ようやく理解した時には、指先がジンジンと痺れるように熱を持っていた。
「……アカン?」
どこかバツの悪そうな巽の様子が、桜子に伝染する。
「いえ、あの……嬉しい、です」
まともに目が見れなくて、彼の頭のあたりを視線が泳ぐ。いつも頭頂部でふわふわしているはずの巽の寝癖は、今朝はすっかりなくなっていた。
以前日本橋に出た際は自動車であったが、今日の移動は帝電。朝の賑わう時間帯を過ぎたとはいえ、車内はぎっちりと人が詰まっていた。
これはどこに立つのが正解なのだろう。桜子は迷い、巽の横に並んで吊り革に掴まろうと手を伸ばすも、彼に阻まれてしまう。
「そこ危ないから。こっち来ぃや」
背を押されて、壁際へと立たされた。桜子は慣れた様子で車掌に運賃を渡す巽に、目を丸くする。
「巽さんは帝電にも乗られるのですね」
「そりゃあ便利やしな。学生の頃はいちいち英治に自動車出させるんも面倒やったから、帝電ばっか使うとやったわ」
桜子は、帝大生だった頃の巽を想像してしまう。この端麗な見目だ、さぞ制帽が似合ったに違いない。
「学生時代でしたら巽さんは――」
二條本家のこと――ふっと、伊里が口を濁していた事が頭をよぎる。五年前に本家を離れたまま、戻っていないこと。
桜子は言いかけた口を閉じる。
「どないしたん?」
理由は聞きたいが、今ではない。折角の外出なのだから、彼が話していて楽しい話の方がいいに決まっている。桜子は「なんでもありません」と首を振った。
「呉服屋さんだなんて、私、初めてです」
代わりに今日の事を口にする。道枝の家にも季節の変わり目に仕立て屋が出入りしていたが、桜子にはいつも無関係の世界で。反物を選ぶのも、店に行くのも、どれも初めての経験だ。
不思議そうにしていた巽も、桜子の様子に微笑む。
「僕も店に出向くんは久々やわ。気に入ったもんがあるとええな」
「はい……わわっ」
と、車内が揺れて桜子の身体がよろめいた。転ぶまいと、咄嗟に横の巽の袖を掴んでしまう。
「ご、ごめんなさい」
「ええよ、そのまま掴んどき」
どうしよう。
揺れて転ぶのも怖いし、離すのも勿体ないような気がして。
桜子は巽の言葉に甘えて降りるまで袖を握っていた。
