春待つ乙女のしあわせな縁切り


 (くりや)で料理をともに作って以来、伊里(いり)は週に数度、邸へ顔を出すようになった。最初はぎこちなかった会話も、瞬く間に年頃の娘らしい会話に変わっていた。

「桜子さん、こんにちはっ!」

 今日も今日とて、伊里の自転車が軽快な音を立てて玄関口へ滑り込む。桜子は庭で椿の花を摘んでいた手を止め、顔を上げた。

「こんにちは。……あれ、いつもと少し服装が違いますね?」

 今日の伊里はいつもの海老茶式部ではなく、丈が短い(くく)(ばかま)に、お下げ髪。同じ女学生でもいつもきっちりと着飾っていた(みどり)とは対照的で、桜子の目には新鮮に映った。

「体操の授業があったので、着替えずに来ちゃいました」
「なんだか楽しそうですねえ」

 桜子が感心すれば、伊里は「それなりですよう」とはにかむ。

「あ、おにいさまと英治(えいじ)さんはどちらに?」
「依頼人の方が来られていて、応対中です。今日は応接間に近づくなと言われてしまって」

 桜子はしょんぼりと肩を落とす。
 ここ数日くらいから英治とともにお茶出し程度は同席できるようになっていたのだが、今日に限っては(たつみ)に「外におって」と締め出されてしまったのだ。

「だから桜子さんたら、お外にいらっしゃったんですね。おにいさまったら変なの」

 伊里は不思議そうに首を傾けていたが、すぐに「そうだ!」と顔を明るくする。

「今日学校でお友達からお菓子を分けてもらったんです。ただ待つのも勿体ないですし、わたしと桜子さんで食べてしまいません?」

 伊里が鞄とは別に、小さな紙袋をちらつかせてきた。桜子が首を傾けると、伊里が「チョコレイトですって」と言うではないか。

「チ、チョコレイト!?」

 桜子はぱっと口を覆う。いつかは食べてみたいと思っていた、巷で噂の高級品! 思わず前のめりになる。

「へへ、桜子さんは甘い物がお好きですもんねえ。本当にちょっとしかないので、こっそり食べてしまいましょ」

 伊里に手を引かれ、居間へと入る。途中応接間の横を通ると、扉の隙間からソファに座る巽の後ろ姿が見えた。向かいに座るのは、男性だろうか。
 どのような依頼なのだろう。巽は何を話しているのか。気にはなるが、先をゆく伊里についていくため無理やりに視線を引きはがす。
 
「伊里さん、やっぱり巽さんたちがお仕事中の裏でお菓子を食べるのは、私なんだか……」
「えぇ、いいじゃないですか。桜子さんだってこれからわたしと縁を扱う練習するんですから。お仕事みたいなものですよう」

 まごつく桜子とは対照的に、伊里はあっけらかんとしている。彼女の無邪気さに背を押され、伊里とふたり食卓につく。

「桜子さん、わたしと会ってからだいぶしっかりと糸が視えるようになってきましたものね。短い間に凄い成長です!」
「は、はい。伊里さんと巽さんがたくさん手伝ってくださったお陰です。あ、私お茶入れましょうか」

 伊里は『ぐっとお腹に力をいれて』やら『目をキッとして光がビュンと』となど、巽の端的な指導とは真逆のなかなかに個性的な指導を繰り広げていたが、感覚を掴むという意味では桜子の糧となった気がする。
 桜子が急須に茶葉を入れていると、伊里が首を反らして空中を見上げる。

「それにしても桜子さんの糸の塊、本当に全然変わらないんですねえ。ずうっと絡んだままです」
「変な糸が増えていないなら、今はそれでいいらしいです」

 桜子もつられて見上げるが、何も視えない。代わりに、伊里の糸が空中にゆらゆらと揺れていた。自分の糸が視えないというのは、なんとももどかしいものだ。

「なら順調ってことですね。最初にここでお茶をした時、いきなり急須が割れたのはびっくりしちゃいましたよ」

 桜子の手元を見て思い出したのか、伊里が笑いをこぼす。

「驚かせてしまってごめんなさい」
「でも最近はめっきりなくなったじゃないですか。成長ですね!」
「……ふふ、嬉しいです」

 伊里の言う通り、桜子の身の回りは目に見える形で変化している。お陰で桜子にも自信がつき始めていた。

「桜子さんはそろそろ結びの練習もしていかないとですよね。一葉(ひとつば)のお茶会までのんびりもしてられないですよね」

 伊里は桜子の過去に無理に触れてこない。この程よい距離感が桜子には居心地がよく、有り難くもあった。

「そうですね。巽さんにも相談してみます」
「わたしも力になれればいいんですけど。生憎、わたしはおにいさまや桜子さんみたいに神眼ではなくって」

 へへと笑う伊里の前に、湯気の立つ番茶の湯飲みを置く。桜子は茶請け用の小皿を二つ出し、席に戻る。

「私には伊里さんもとても立派に見えます。生まれた時から、ちゃんと天眼を扱ってらっしゃって、本当に凄いです」
「そんなあ。桜子さんたらお上手なんですから」

 照れたように伊里が頬を緩ませる。そういえば、巽が伊里は十五だと言っていた。翠は既に天眼の巫師として働いているが、伊里はどうなのだろう。聞いてみると、伊里はきょとんとした顔をする。

「働くなんて、わたしはまだまだですよう。学生ですもん」

 桜子はそれ以上聞けなくなってしまう。道枝(みちえだ)は裕福な家ではあるが、一葉や二條(にじょう)、そして志塚(しづか)ほどではない。
 翠は今どうしているのだろう――ふと異母妹のことが頭をかすめたが、すぐに伊里の声に引き戻される。

「さあさ、桜子さん。おにいさまたちが来る前に食べてしまいましょうよっ」

 伊里が袋から茶色い塊をいくつか取り出し、桜子に渡してきた。指先で摘むと、ベタベタと体温で溶けていく。
 ゆっくりと口に含んでみると、舌が痺れるほどに甘く、鼻腔に苦味が抜ける。

「わ、わわわ!」
「美味しいですか?」

 自然と頬が緩んでいく。桜子が両頬を手で包んで何度も頷けば、伊里の顔にも満面の笑みが浮かんだ。

「よかったあ。わたし、桜子さんの笑顔が見たかったんですっ」
「私は伊里さんの優しさだけでも十分嬉しいです」
「えへへ。桜子さんみたいな可愛い人がそばにいるなんて、おにいさまも幸せですねえ」

 彼女の思いやりに感激していると、彼女が思いも寄らないことを言い出す。

「と、突然にどうされたんですか」

 口からチョコがこぼれ落ちそうになり、慌てて口許《くちもと》を押さえる。

「おにいさまと最近どうなのです? 仲良くされていますか?」

 どうと言われても。興味津々といった様子で身を乗り出す伊里に、桜子は口ごもる。

「ええと、お食事は一緒で、仕事の合間にこちらの練習に付き合っていただいて……あ、近頃は電話の応対を時折任せていただけるようになりました」
「そういうお話が聞きたかったのではないのですけど」

 伊里がふふふと意味ありげに口端を持ち上げる。

「おにいさま、昔はよくカフェーなんかで女給さんに声を掛けられていたんですよ」
「え……そうなのですか?」
「最近はめっきりみたいですけど。夜にふらっと外出されなくなったのも、桜子さんが来られてからだと思いますよ?」

 確かに、巽が夜間に屋敷をあけるなどこれまで見たことがない。

「昔は夜にお仕事が多かったのでしょうか」
「ううん、そうきましたか。夜に外出だなんてって、ちょっとは嫉妬してくださるかなと思ったんですけど。桜子さんは真面目すぎるから……」

 どういう意味だろう。伊里はやれやれと肩をすくめていた。なんだか彼女の方が年上のような顔をされてしまう。
 桜子はふと、気になっていたことを思い出す。

「伊里さん。巽さんっていつから帝都にいらっしゃるのですか? お生まれは本家のある大阪、ですよね?」
「そうですよ! 帝大に進学された時に上京して、そのまま今の事務所を開かれたので……帝都に来たのは五年くらい前じゃないですかね」
「て、帝大」

 依頼人との会話の様子から博識だとは思っていたが、やはり。ろくに進学もままならなかった桜子とは違い、雲の上の人なのだなと実感させられる。

「では、どこかでご実家に戻られるんでしょうね」

 いくら次男とはいえ、長く本家を離れていいものでもあるまい。桜子が思ったままに口にすれば、伊里の視線が明らかに泳いだ。

「あ……どうなんでしょうねえ。いつかは戻るかも、しれないですけど」

 彼女は思ったことがすぐ顔に出る。桜子は伊里の顔をそっと覗き込む。

「……伊里さん?」
「ええと、桜子さんはおにいさまから何か本家のお話ってお聞きになりましたか」
「ほんの少しだけ。詳しくは、まだ」

 婚約云々が当主に叱られるかもしれないという話程度しか聞いていない。桜子が曖昧に濁すと、伊里がぎこちなく笑んだ。

「なら、おにいさまがどこかでお話になるかもしれないですね。わたしが知っていることも、たいした内容じゃないですしね!」

 嘘だ――桜子は伊里の手が落ち着きなく湯飲みを撫でる様子をじっと見つめる。話したがらないような事があるのだ。

 もうちょっとだけ彼らに踏み込むことが許されれば嬉しいのに、なんて。贅沢な事を考えてしまった。