春待つ乙女のしあわせな縁切り


 ✣✣✣

「あのう、桜子さん。坊っちゃんから桜子さんに料理を教えてやってほしいって言われたのですが」

 あの夜から数日経った、とある昼過ぎ。英治(えいじ)が桜子の自室を訪れた。今まさに調理中だったのか、割烹着まで着ている。

「もしよろしければ、今から時間が取れそうなのですがどうでしょうか?」
「はいっ、お願いします!」

 桜子は慌てて読んでいた本を閉じる。
 まさか、(たつみ)があんな取り留めのない世間話を覚えていてくれたなんて。桜子は彼の気遣いにじんわりと嬉しくなる。

「ひとつお伺いしますが、包丁を持ったご経験くらいはおありですよね」

 ――ない、のですが。
 すぐに返答できず、桜子が意味ありげに目をそらすと、英治が察したように深く頷いた。

「……分かりました。念の為、救急箱を持っていきましょう」
「ご迷惑をお掛けします……」

 申し訳ない気持ちでいっぱいである。桜子が割烹着を着て厨の調理台の前で英治を待っていると、入り口からひょっこりと伊里(いり)が顔を出した。

「あれ、桜子さん。英治さんはどちらに?」
「伊里さん! こんにちは、学校はどうされたんですか」
「もう終わりましたよう。桜子さんのオトモダチとして顔を出すように言われてますし、今日も遊びに来ました」

 伊里は桜子と調理台に並ぶ食材を見比べ、中へと入ってくる。

「もしかして、今からお夕食の準備ですか? わたしもお手伝いしますよ」
「私は準備と言いますか、足手まといと言いますか……」
「足? ご飯を作るのではないのですか?」

 そこに英治が戻ってきた。さらりと伊里に状況を説明してくれる。すると、彼女も参加したいと言い出す。

「わたしも英治さんからお料理を習いたいですー!」
「構いませんけど……多分私が教えるより女学校の授業の方がずっと為になると思いますよ」

 英治の隣で目を輝かせる伊里の様子を、桜子は微笑ましく見守る。桜子としては、彼女もいてくれた方が見て学べることが多いので有り難い。

「じゃあ、まず野菜を切ってもらいましょうか」

 英治から包丁とまな板が渡される。伊里が横でスルスルと馬鈴薯(じゃがいも)の皮剥きを始める。桜子も見よう見まねでなんとか手を動かすが、どうにもうまくいかない。野菜がどんどん小さくなっていくのだ。
 見かねた英治が手を伸ばしてくる。

「私が補助しましょうか」

 けれど伊里の手前、彼に頼むのはなんとなく気が引ける。

「伊里さんにお願いしてもいいでしょうか」

 桜子がいそいそと伊里の側に寄ると、彼女が嬉しそうに頬を緩める。

「えへへ、わたしが師匠になって桜子さんにお教えますよ!」
「女性同士の方が気が楽ですよね。私は向こうで別の下準備していますから、困り事がありましたらお声がけくださいね」

 英治が離れていく。桜子は伊里の指示のもと、あらためて馬鈴薯に向き直る。手を切らないよう慎重に包丁を動かしていく、のだが。

「うまく、できません」

 自分の不器用さに泣きそうだ。

「大丈夫ですよ。最初はみんなできないものですもの」

 伊里が慰めてくれるが、桜子の手の中の馬鈴薯は皮を剥く前の半分ほどの大きさになっている。なんだか可哀想なことをしてしまった。伊里のまな板の上では、大根が軽快な音を立てて銀杏切りにされているというのに。

「昔、わたしも英治さんにお料理を教えてもらったことがあるんですよ。その時はもっと悲惨で、英治さん呆れていましたもの」
「本当ですか? 今はこんなにお上手なのに」

 桜子が目を丸くすると、伊里が苦笑いを浮かべる。

「あの時は笑われないよう必死でしたよう。きっと桜子さんもすぐに上手になります!」

 英治の前で背伸びをして頑張る伊里を想像して、悪いと思いながらもほっこりとした気持ちになった。

「上手になったら、是非おにいさまにも食べてもらいましょうね!」

 思わぬ不意打ちに、桜子は手を止める。そうか、食べてもらえる機会があるかもしれないのだ。
 想像すると、不思議ともっと頑張らねばという気になってくる。

「師匠……私、頑張ります」
「はい! 頑張りましょう!」

 野菜を切り、(かまど)に火を起こして鍋をかける。英治から調味料の加減を教えてもらい、慣れない手つきで鍋に入れていく。ここまででたっぷり一時間。料理とはなんて重労働なのだ。自然と日々の食事を用意してくれている英治へ感謝の念がわいてくる。

「あ、もうやっとるんや」

 やっと鍋が煮立ち始めたかという頃合いになって、巽が入り口の暖簾から顔を出した。と、素早く英治が反応し、鋭い声を飛ばす。

「坊っちゃんは火の元から離れていてくださいよ!」
「そんな警戒せぇへんでも大丈夫やって」

 巽はぼやきながら竈から離れて、桜子の横に来た。縁側での会話以来、ふたりきりになるのは初めてかもしれない。勝手に緊張してしまいそうで、桜子は何でもない顔を取り繕う。

「僕、昔な、厨でボヤ騒ぎ起こしてしもてん」

 手持ち無沙汰なのか、巽が桜子に話しかけてくる。

「そ、そんなことが?」

 英治のあれは、主人に怪我はさせられないという配慮なのかと思ったのだが。思わぬ不意打ちに、桜子は緊張も忘れて素っ頓狂な声を上げてしまう。

「言うても、こんなちっこい頃の事やけど」

 巽が自身の腰辺りを示す。 

「興味本位で手伝いしとったら、鍋を焦がしてもうて。あーっという間に厨が煙でいっぱいになってな。英治が叫びながら水桶抱えて飛んできよった」

 その様子がありありと想像できてしまう。ふたりはそんなに小さい頃からの付き合いなのか。桜子は「お怪我がなくてよかったです」と苦笑する。

「それ以来、僕は火の元に近づくん禁止言われとって。ずっと戦力外やねん」

 巽は不貞腐れた様子で口を尖らせている。励まそうと、桜子は拳を握ってみせる。

「同じく、私も実質戦力外みたいなものですよ」
「桜子さんはまだまだこれからやん。僕は厨から追放された身やから」

 これは追放なのか。巽は伊里と英治が楽しそうに鍋をかき混ぜている姿を羨ましそうに眺めている。もしかすると仲間外れにされている気分なのかもしれない。そう思うと、歳上であるはずの彼が少し可愛らしく思えた。

「桜子さんに自信ついてきたら、僕にもなんか作って」
「……へ」

 一拍遅れて、頭が内容を理解する。ぽかんと男を見上げれば。

「桜子さんは未来の婚約者サマ、なんやろ?」

 涼しげな顔をして言ってのける巽がいた。桜子はぐうと言葉に詰まる。やっぱりこの人は歳上の男の人だ。動揺を悟られないよう、そっぽを向く。

「なんだか巽さんは……とても(ずる)い人です」

 咄嗟に口をついた文句に、桜子自身も驚く。狡いって、なんだろう。けれど巽は意味ありげに口端を持ち上げるだけで。

「桜子さんこそ、いけずやなぁ。僕としては揶揄(からか)うつもりやなかったんやけど?」

 「悲しいなぁ」などと返されては、桜子も言葉に詰まってしまう。確かに、事実ではある。けれどそれを巽の口から改めて言われると、言いようのない気恥ずかしさが込み上げてくるのだ。

「そ……れはそう、なんですけど」

 桜子は割烹着の裾を握る。巽がそんな桜子の様子を見て、つと視線をそらした。

「ま、楽しみにしてんで。桜子さん」

 巽の声が揺れている、気がした。
 これは取引の関係。互いに気持ちなどないはずで。
 けれど、縁側での会話は桜子の心にずっと残っている。それは巽も同じなのでは――桜子はムズムズとする胸に手を当てる。

 この感情は一体なんと言えばいいのか。
 巽に他意はないはずだと言い聞かせないと、まともに会話ができそうになかった。