春待つ乙女のしあわせな縁切り


 夕食が終わると、伊里(いり)はカルガモの子よろしく英治(えいじ)の後ろにくっついて(くりや)へと行ってしまった。まだ腹が空いていると呟いていたので、軽食でも摘むつもりなのだろう。八時には志塚(しづか)から迎えの車が来るらしく、慌ただしそうにしていた。

 桜子は食器を下げることのみ手伝わせてもらい、居間の縁側へ出てぼんやりと空を眺める。何度目か分からないため息が落ちる。
 伊里は賑やかで素直で、とてもいい子だ。これからは桜子のため、学校終わりに時折二條(にじょう)邸へ顔を出してくれるという。そんな子に対して嘘をつくことへの罪悪感とこれからの不安が胸の内で混じり合う。
 見上げた寒空の奥で、星が頼りなさそうに瞬いていた。と、背後で戸がそっと引き開けられた。

「なにしとるん。風邪引くで」

 (たつみ)が顔を覗かせる。食後は一度自室に戻っていた彼だが、また居間へと戻ってきたらしい。「寒い寒い」と言いながらも、縁側へと出てきてくれる。

「あの、巽さん」
「ん?」

 今しか聞く機会はないかもしれない。
 面倒臭い奴だと思われるかもしれないと震えながらも、桜子は胸の内を吐き出す。

「私って、その、どういう立場の人間なのでしょうか」
「どういうて?」
「巽さんは、本当に私と婚約するおつもりなのでしょうか。もしそうであるならば、本家の方々や伊里さんに黙っているのはあまり良くないですし、その、私も道枝(みちえだ)と折り合いをつけないといけないなと、思って……」

 婚約に愛は必要なくとも、最低限の誠意はいると思うのだ。桜子がたどたどしく告げれば、巽が神妙な顔をする。

「黙っとるんが不安?」
「…………不安、です」

 正直話せば、横からため息が聞こえた。困らせてしまっただろうか。ただの取引で引っかけただけの女から口出しされれば、鬱陶しくも思うだろう。

「あの、ごめんなさい」
「なんですぐ謝るん。桜子さんが言うとることが正しいやろ」

 巽は桜子の横に腰掛けると、空を仰いだ。

「どうせ言うたら揉めるやろな思て、まだ伝えとらんのよな」
「揉める?」
「桜子さん、天家がどうやって縁組みするか知っとる?」 

 天眼を持っていない者として扱われてきた桜子にとって、天家の仕組みなど門外漢だ。首を横に振ると、巽は前屈みになり膝の上で手を組んだ。

「普通の見合いやったら、家格や家同士の付き合いが優先なんやろうけどな、天家の場合はちゃうねん」

 桜子がこてんと首を傾けると、巽が苦笑する。

「互いに天眼持ち同士なんは大前提として、片っ端から色んな人と会ってな、仲人が縁を視て、一番良縁やった相手と縁組みすんねん」
「一番、良縁だった人」
「そう。()()()()()みたいやろ。家の繁栄のためにはそれが一番手っ取り早いんやて」

 最も良い縁同士で結婚すれば、順風満帆にいくのは道理。合理的で、天眼を持つ家らしいやり方だ。
 話を聞いて、ふと桜子は隣の男の横顔を盗み見る。巽はこれまでどうだったのだろう。

「……巽さんって、おいくつなんですか」
「僕? 二十五やけど。なんで?」

 年上の彼は、今まさに結婚適齢期というやつだ。桜子は着物の(あわせ)を落ち着きなく指先で引っ掻く。

「えっと、巽さんは、その、今まで縁談ってなかったのかなと」
「ああそういう……無茶苦茶あったわ。どれもこれも相性ダメらしくて、まとまったことは一度もないけどな」
「そ、うですか」

 なぜわざわざ聞いたのか自分でも分からないが、少しだけホッとした。

「私と巽さんの縁が悪かった場合、二條のご当主さまがお怒りになるってことですよね」
「せやなあ」

 うんざりしたように巽が両足を沓脱石(くつぬぎいし)に投げ出した。

「けど、神眼を持っとるてだけで反対を押し切れるだけの説得力はある。普通の天眼なんぞ分家連中含めゴロゴロ転がっとるけど、神眼はそうそうおらんからな」
「そんなに、ですか」
「せやで。昔から帝の傍に侍れるんは神眼だけ。夫婦ともに神眼を持っとるんは国主の後ろ盾が得られるんも同義。価値としては破格やな」

 自分の身にそれほどの価値があるとは到底信じられない。桜子はまるで他人の話を聞いている気分だった。
 巽は「もし」と続ける。

「縁の良し悪しが心配なんやったら、どんなふうに僕らが視えてるんか、伊里にでも聞いたらええ」

 巽も桜子も自分の縁は視えない。真実どうであるのかは、第三者に縁を視てもらうしかない――のだが。

「……止めておきます」

 見て知ってしまったら、何かが変わってしまうような気がして。
 もし結果が良かったら? 悪かったら?
 それで彼との関係が左右されるのは嫌だと思った。

「そ? ま、桜子さんの好きにしたらええよ」

 巽も桜子の縁に興味はなさそうであった。その様子にホッとしたような、残念なような――桜子は空に視線を戻す。

「二條には茶会が近づいてきたら僕から言うから。一葉の養子にまでこぎつけられたら、向こうも突っぱねることはできんようになると思う」
「はい、分かりました」

 巽の婚約者という立場を得られれば、桜子にも盤石の居場所が見つかる。十分にありがたいことだ。あとは道枝との関係だが――。

「伊里さん、そろそろ帰り支度をなさった方がいいですよ」

 そこに英治が前掛けを腕から下げて伊里とともに居間へ戻ってきた。

「大丈夫です! 教科書は学校に置いていますから、荷物なんてほとんどありません」
「そ、それって大丈夫なのですか?」

 桜子はふたりが並んでいる姿を見て、ふと彼らの間に何か輝くものがあることに気づく。目を凝らすと、一際目を引く明るい糸が視えた。

「巽さん、あれって」

 隣の巽の袖を引くと、彼も居間を振り返る。桜子が彼らの間の(くう)を指さすと、「ああ」と声を漏らす。 

「桜子さんにも視えとるわな。なかなかにええ縁やと思うねんけどな」

 伊里と英治の間に――身近にこんなに素敵なことが。桜子はつい声を上げそうになり、慌てて口を押さえる。あらためて見ると、桜子の目にはふたりの糸が眩しく映る。伊里が二條邸に来てから英治の後ろにくっついてよく話しかけているのは、彼と話したいが為だったのか。
 英治も満更でもなさそうなのが、見ていて微笑ましい。

「まあ、伊里も今年で十五。結婚云々の話も出とるやろな」

 巽はじっと彼らを見つめている。

「英治は天眼もない一般人やしなあ。色々と難しいやろな」

 彼の横顔に静かな諦念を見た気がして、桜子は胸の中で膨らんでいた嬉しさがしぼんでいくのを感じた。
 地位も権力もあり人々から崇められる天家だが、代わりに失っているものもある気がする。

「……天家の皆さまは」
「ん?」

 桜子がぽつりと零せば、巽の顔がこちらを向く。

「天家の皆さまは、気持ちではなく、目で恋をなさるんですね」
「目?」
「縁が全てを縛っているから。理に適っているし幸せになる一番の近道だなと思うのですけど、でもなんだか、とても……」

 人との関係も、なにもかも。気持ちよりもこのちっぽけな糸が全てを決めてしまっている。そのことが当たり前と言い切れる巽が不思議だった。

「そう感じるんは、桜子さんがずっと天眼の外におったからやろなあ」
「おかしいですよね、こんな考え方。私も天眼を持っているのに」
「別にええやん。僕にはない、桜子さんらしい考え方やと思うよ」
「そう、でしょうか」

 これからの未来、力を扱いこなせるようになったとしても、桜子は縁が全てだと思うようにはなりたくなかった。糸は確かに大きな影響力を持つ。桜子が疫病神となったように。けれど、人と人との間に紡がれるものはそれだけではないはずなのだ。
 寒風が吹き抜け、桜子の白い息が空気に溶けていく。

「……気持ちで恋する、か。ええ響きやな」

 横の巽が身じろぎする。トン、と桜子と肩が触れ合った。

「僕もしてみたいわ、そういうん」

 横に顔を向ければ、ひたとこちらを見つめる巽と視線が絡む。居間から漏れる光に照らされた彼の瞳は、初めて会った時よりもあたたかな温度を宿していて。桜子の心臓がひとつ、音を立てて跳ねた。

 今日はずっと彼に振り回されている。気持ちが風に飛ばされた羽根のように、ふわふわと一喜一憂して。
 今自分がどんな顔をしているのか、巽に知られたくなかった。

「私も、そう思います」

 ここが縁側でよかった。
 桜子は顔を伏せる。薄暗いお陰で、こちらの表情を悟られずにすむ。上擦った声は、隠しようがなかったけれど。

「ほな、僕らおんなじやなあ」

 巽は可笑しそうに肩を揺らし、ゆっくりと立ち上がる。桜子の目の前に、巽の手が差し出される。

「中入ろ。冷えるで」

 桜子は恐る恐るその手に自身の手を重ねる。縁の練習で平然と握っていたはずの手なのに、今日は少しだけ、緊張した。