崩れ落ちた上司になんて興味なさそうに、透果さんはスマホをいじっている。
「あの、透果さん」
私が声をかけると透果さんは顔をあげた。
「ありがとうございました」
「別に。私は上田さんのためにしたわけではありません。許せなかったんです。こんな綺麗な爪を侮辱したこいつのことが」
「…私も許せませんでした。でも何も言い返せなくて」
「そうですね。もっと言うべきです。こんなやつには特に。言わないとわかりませんから」
透果さんは上司を指差しながら言う。
「…はい」
「でも見ていて、面白かったですよ」
透果さんは上品に笑った。
それは、褒め言葉なのだろうか。
「じゃあ、私はこれで」
颯爽と出ていこうとする透果さんを引き止める。
「あの、私に何か用があって来たんじゃないんですか?」
「そうでした」
透果さんは私の元へと戻ってくるとスマホの画面を見せた。
「上田さんの連絡先、教えて下さい」
「連絡先ですか?」
「はい。うちは基本予約制なんです。それを伝えるのを忘れていました」
ピコンと音がして、ネイルサロン『ALTER』の連絡先が追加される。
「あの、一つきいてもいいですか?」
「はい」
「あの時、ネイルを剥がせなかったのはなんででしょうか?」
上司に剥がせと言われたとき、私は確実に条件を満たせていたはずなのに。
「二つ目の条件をあなたは完全に満たせていませんでした。”心の底から剥がしたいと思うこと”。だけどあの時のあなたは心の底から剥がしたいとは思っていませんでしたよね?」
告げられてハッとする。
「今、気づいたんですか?あなたの上司だって気づいてましたよ」
透果さんと上司の会話を思い出す。
『ふふっ。あんた意外に頭はまわるのね。じゃあ、考えてみてよ。どうして上田さんが剥がせないのか』
『そんなの、剥がしたくないからに決まってる』
『よくわかってるじゃない。上田さんは剥がしたくないと思ってる』
確かにあのとき、二人はそんな会話をしていた。
「でも、私はあのとき本当に剥がれてって思いましたよ?」
透果さんは私の手を優しく包んだ。
「上田さん。そういうことではありません。そんな気持ちでは、この爪は新しくなれませんから」
私が首を傾げると、透果さんはふふっと笑う。
「この色もいいですが、せっかくなら次は明るいカラーにしてみてもいいかもですね」
「…はい!」
透果さんは静かに微笑むとそっと私の手を離した。
そのときにチラッと見えた透果さんの右手の親指の爪。
私がそれを見ていることに気づいたのか、透果さんは自身の右手を私に見せてきた。
「私もやっと、これを剥がせます」
そう言うと、透果さんはペリッと親指のネイルをその場で剥がした。
「やっとってどういうことですか?」
透果さんは剥がしたネイルを近くにあったゴミ箱に捨てながら話す。
「たまにあるんですよ。傷ついてる爪を見ると、この子たちが反応しちゃうことが」
「反応しちゃうって。つまり、あのとき透果さんの爪が取れたのは…」
「ふふっ。考えすぎですよ。でももう終わったので私はやっと新しいネイルができます」
「…終わった?」
透果さんは、私の爪に目を向けると優しく微笑んだ。
「はい。あなたの爪、笑顔になりましたから」
私は自分の爪を見る。キラキラと輝いていた。
「それでは私はこれで。またのご来店お待ちしております」
透果さんは深々と頭を下げた後、ヒールを鳴らしながら去っていった。
*
「こんにちは、透果さん」
二週間ぶりに訪れた店内は、相変わらず綺麗に整っている。
「お待ちしておりました。上田さん」
「このネイルも好きだったんですけど、違うのにしてみたいなと思って」
私は透果さんに自分の爪を見せる。
「ふふっ。じゃあやっと剥がせますね」
透果さんの言葉に頷く。
「ではどうぞ。剥がしてみてください」
透果さんに促されるまま、私は自分の爪に手をかける。
…本当に、剥がせるよね?
ドキドキする胸を落ち着かせる。
透果さんは何も言わずにじっとこちらを見ていた。
私は意を決して、ネイルを取った。
ぺりっと綺麗に剥がれたネイル。
その下から現れた自爪は、久しぶりに見たけど最初の頃よりもボロボロじゃない。
「…なんで」
ポツリと呟いた声は、透果さんに届いていた。
「その爪は嬉しかったんですよ。やっと上田さんに愛してもらえて」
私は爪をきゅっと手で包んだ。
「…ありがとう」
「ふふっ。さぁ、今日はどんなネイルにしますか?」
「そうですね。じゃあ、明るめのカラーでお願いします」


