次の日の朝。私はいつもよりも浮かれていた。
ご飯を食べるときもメイクをするときも見えるそれ。
いつもの日常に花が添えられたような感覚だった。
でも、その花はすぐに枯れてしまうことになる。
「上田さん、ネイルしてるの?」
「…はい」
すぐに上司に見つかった。何を言われるんだろう。私は思わず下を向く。
「へぇー今のはこんなのもあるんだ」
「…そうなんです!」
上司はまじまじと私の手を見つめながら言った。
「君みたいな人がネイルしてるなんて笑えるね。なんか変だよ、そのネイル」
その言葉が、胸にグサッと刺さった。
…このネイルが、変?
透果さんの顔が思い浮かぶ。
一生懸命、綺麗にしてくれた。
それが変なわけない。
沸々と怒りがこみ上げてくる。
私はぎゅっと拳を握り、上司を睨んだ。
「お言葉ですが、このネイルは変じゃありません。とても綺麗です」
私が言い返した途端、時が止まった。周りの視線が私たちに集まる。
上司もそれに気づいたのかすぐに口を開いた。
「はいはい、わかったから。そんなこという暇があったら仕事の一つでも覚えようね。このくらい小学生でもできるよ」
上司が宥めるようなジェスチャーをすると、周りからはクスクスと笑い声が聞こえる。
だけど、私は許せなかった。
「…訂正してください。この爪を変って言ったこと、訂正してください」
私は上司をきつく睨む。
そんな私を見て、上司の態度が変わった。
「あのさ、誰に向かって言ってるの?僕課長だよ。立場考えろよ」
ひゅっと喉が鳴る。
「僕はずっと優しく注意してるんだ。それなのに君は、仕事ができないのにネイルに時間を使って。そんな暇があるんなら仕事したらっていう話をしてるの。わかる?変とか変じゃないとかそんな話はどうでもいい!」
私の視界は徐々に滲んでいく。
「もう、泣くのとかやめてよね。みっともない。」
「…っ」
「そんな風になるなら、そのネイル剥がしたら?」
…嫌だ。絶対に剥がしたくない。
「…嫌です」
私は必死に首を振る。
「何その態度。あぁーこれは社長に報告しなきゃかな」
「…」
「君がそのネイルを剥がすなら、目を瞑ってあげてもいいけど。もうめんどくさいから、僕が剥がしてあげようか」
上司が、私に一歩近づく。
私は後に下がってパッと手を隠した。
「…自分で、剥がしますから」
私は震える指で自分の爪に手をかける。
そのままゆっくり剥がそうとした。
なのに、全然剥がれない。
何で?剥がしたいって思ってるのに、何で剥がれないの…。
「どうした?剥がすんじゃないのか?」
「…なんで」
上司はネイルを剥がさない私を見て、腕を組みながらトントン足を鳴らしている。
徐々に大きくなるその音のせいで、手が思ったように動かない。
何で、剥がれないの…!ネイルはびくともしなかった。
「ネイルなんてしてくるなよ…」
誰かがボソッと呟いた。その声は鮮明に私の耳へと届いた。
周りの視線も突き刺さる。
お願いだから、剥がれてよ…!
「ダメですよ上田さん。あなたは条件を満たせてませんから、その爪は剥がせません」
扉の方から、凛とした声が聞こえて振り返る。
私は目を見開いた。
「…透果さん?何でここに」
上司も足を止めた。
「あなたは、誰ですか」
透果さんは上司の言葉を無視して、私たちの元へヒールを鳴らしながら歩いてくる。
その表情はいつにもまして冷たさを感じた。
透果さんは上司に近づくと、聞いたことないくらい低い声を出す。
「お前、私のネイル侮辱したな?」
「初対面なのにその態度ですか。まったく。部外者は立ち入り禁止ですよ」
「私、お客様以外に敬語を使う気はないので。それに私は部外者じゃない。ここにいる上田さんに用があって来たの」
上司に噛みつく透果さんを慌てて止める。
「ちょっと、透果さん!落ち着いてください」
「ご心配なく。私は至って冷静ですよ」
透果さんはニコリと私に笑みを向けた。だけど、その目は全く笑っていない。
「この人、上田の友達か?会社に呼ぶとはどういうことだ。何も聞いてないぞ」
「言っておくが、私と上田さんは友達じゃない」
透果さんの言葉をきいて、上司は一瞬止まった後ははっと笑い声をあげた。
「君、面白いね。たとえそう思ってなくても、そんなこと本人の前で言ったら可哀想だよ」
笑う上司に私は何も言い返せない。
「何がおかしい?上田さんは大事なお客様だから」
「お客様?」
「そうよ。あんたが侮辱したネイルを施したのは私」
上司は私の爪を横目で見る。
「このネイル、君がしたのか。まったく。頑丈につけすぎじゃないか?彼女そのネイル剥がせないみたいなんだ。とっとと剥がしてやってくれ」
透果さんは私の方へと近づくと、そっと手をとった。
「どうして剥がさないといけないの?こんなに綺麗なのに」
「そんなの、仕事には必要ないからだ」
「そう。でも残念。この爪は上田さんにしか剥がせない」
透果さんは爪を見た後、そっと手を離した。
「そんなこと、あるわけないよね。本当は剥がせるのにまさか上田、君わざと剥がしてないだけなんじゃないか?」
「ふふっ。あんた意外に頭はまわるのね。じゃあ、考えてみてよ。どうして上田さんがこのネイル剥がせないのか」
「そんなの、剥がしたくないからに決まってる」
「よくわかってるじゃない。上田さんは剥がしたくないと思ってる。でもあんたは剥がせと強要した。それもしつこくね。それにあんたのさっきの発言も含めると、これってパワハラじゃない?」
上司は少し動揺したような表情を浮かべる。
「そんなことでパワハラになるわけないだろ。若いやつはすぐにそう言って逃げるんだ。僕は注意してやってるだけなのに」
「変なネイルって言ったのも注意に入るのかしら?誰がどんなネイルしようとそれを否定する権利はあんたにないはずよね」
「…」
上司は、ポケットからハンカチを取り出すと、額の汗を拭う。
「まぁ、その発言は訂正してやってもいい…」
「あら?」
上司の発言に被せるように透果さんが呟く。
「あの、聞いてたかな?訂正してもいいって…」
透果さんは上司に近づくと、ハンカチを持っている手を掴んだ。
「な、何ですか?」
透果さんはじっと見たあと、ハッキリと言った。
「汚い爪」
その顔は相当嫌なのかひきつっている。
「人の爪には目を向けるのに、自分の爪には目を向けないのね」
「そんなの、僕の勝手でしょ」
「ふーん、なるほどね」
じっと上司の爪を見ると、透果さんは初めてあったときと同じ表情になる。
「…そろそろ、離してください」
「あんたタバコ吸ってるわね」
透果さんの言葉に上司はふっと笑う。
「何を言うかと思えばそんなことですか。社長は大のタバコ嫌いなんです。それを知っている僕が吸うはずないでしょ」
「人差し指と中指が黄ばんでる」
上司はパッと透果さんの手を振り払った。
「いい加減にしてください」
透果さんは肩にかけていた小さいバッグから除菌スプレーを出して、自分の手をすぐに拭く。
「縦筋。それに汚れ。極めつけはその変な色」
「別にあなたには関係ないでしょ」
透果さんはその言葉をきいてふふっと笑い出す。
「自分は散々言っておいて、言われたら関係ないってとんだお子様発言ね」
「静かにしてください。爪なんかどうでもいい」
上司が言いきった途端、透果さんの空気が変わった。
「はぁ?」
さっきよりももっと低くて、圧のある声が響く。私は思わず身震いした。
上司も少し驚いたように、透果さんを見る。
「爪なんか?今、爪なんかって言った?」
「ええ。言いましたよ」
透果さんは近くにあった机にドンッと手をつく。
「あんた、爪をバカにしてると痛い目見るわよ」
「ははっ。そんなわけないでしょ。痛い目見れるもんなら見てみたいですね」
大笑いする上司を見て、透果さんの口角が上がった。
「あんた最近、タバコ吸う頻度多くなってるでしょ?今も吸いたくて仕方ないんじゃない?」
「そんなわけないでしょ。社内は禁煙なんです」
「だったら、いつもどこで吸ってるの?」
「だから僕は吸ってないって言ってるだろ」
「最近咳き込むこと増えたんじゃない?あんたの爪相当悲鳴あげてるけど」
「咳なんて誰でもするだろ」
「そうね」
透果さんは止まった。じーっと上司の爪を見ている。
上司はその隙に、再びハンカチで汗を拭った後、右のポケットにハンカチを仕舞った。
そして左手もポケットに突っ込んで偉そうに話し出す。
「ふーん…」
透果さんがポツリと呟いた。
「そういうことね」
「もう、話は済みましたよね。仕事中なので出ていってもらえますか?」
「ふふっ。やっぱり爪は可愛いわ。どんなに汚れていてもね」
「何言ってるんだ」
「まだ、話は終わってない」
透果さんは上司に近づくと、導かれるように左手の手首を掴んでポケットから出す。
「この爪は正直だね。もっと大切にしなよ」
そう言ってその手をパッと離した。
「ポケットの中、見せて」
「嫌です」
「どうして?何か見られたら困るものでも入ってるのかしら?」
「…っ」
「入ってないなら、見せれるわよね」
透果さんはそのまま左のポケットに手をいれて何かを取り出した。
「これは、タバコよね」
「返せ!」
上司は慌てて取り返した。
「社長が大のタバコ嫌いだから吸わないんじゃなかった?」
動揺する上司に、透果さんは楽しそうに続ける。
「これ、社長にバレたらまずいんじゃない?ましてや、社内で吸ってることもバレたら…。ただじゃ済まないわね」
「これは僕のじゃない」
「じゃあ誰のよ」
「知らない。…誰かが僕のポケットに入れたんだ」
「そんなわけないでしょ。ポケットに入れられたんだったら、その入れた人の名前言ってみてよ」
「…」
「言えないってことは自分のね」
上司は悔しそうに唇を噛む。
「あぁ。これは僕のだよ。でも、僕は外で吸ってる。社内では吸っていない」
「もう諦めたら。あんたは確実に社内で吸ってる」
「証拠はあるのかよ」
「だから、私はさっきから言ってるでしょ?あんたの爪だよ」
上司は再び自分の爪を見る。
「まだわからない?吸った人特有の臭いと跡が残ってる」
上司は自分の爪を鼻に近づけた。
「ハンカチで汗は拭えるのに、爪は手入れしないんだもんね。気づくわけないか」
上司はパッと手を後ろに隠す。
「うるさい」
「社内で吸ってるって社長が知ったら、あんたどうなるんだろうね」
「僕は社内で吸ってない。外の非常階段で吸ってるんだ!」
シーンとその場が静まり返る。
上司はパッと手で口を塞いだ。
「それはバレたらもっとまずいやつね。良いこと聞いたわ」
透果さんは妖艶な笑みを浮かべる。
「まぁ証言も取れたし、楽しみね。あんたがどうなるか」
「なぁ、社長には言わないでくれ。頼む!」
上司は透果さんの肩を掴んで、懇願した。
「汚い手で触らないで」
透果さんは上司の手を振り払うと、触られた部分をはたいた。
「あんたがどうなるかなんて、私には関係ない」
「そんな…」
上司は膝まずく。
「私の爪を侮辱したんだ。わかってるよな」
透果さんは仁王立ちで上司を見下ろした。
「悪かった。この通りだ」
「ふんっ。私、謝られても許す気ないから」
透果さんはぷいっと顔を背けた。
「どうか社長にだけは…」
「はぁ、またそれ…」
透果さんは呆れたように、首を横に振る。
「あんた、言う相手間違えてない?私はあんたのことなんて微塵も興味ないの。ていうか、この会社にもね」
透果さんは部署内を見渡す。パチッと目が合うと、透果さんはニコッと笑った。
「上田さん。こいつのことどうするかは、あなたに任せます。あとは好きにしてください」
その言葉を聞くと上司は私の方をゆっくりと見た。
「上田は、言わないよなぁ」
立ち上がると上司は気味が悪い笑顔を浮かべながら近づいてくる。
…気持ち悪い。鳥肌が立つ。
「おい、ちょっと待て。さっきから思っていたが、私の大事なお客様に向かって何だその態度」
私が口を開く前に、透果さんが割って入った。
「何だって言われても。僕は上司として適切な対応をしているだけだよ」
「あんた、今の自分の立場わかってないの?」
「そんなの、僕の方が偉いに決まってるだろ」
「今は、あんたより上田さんの方が立場が強いに決まってるでしょ。さっきの言動もパワハラも当事者である上田さんが声をあげたらあんたは終わり」
「ははっ。社長が僕よりもこいつの意見を信じるとでも?」
「ふふっ。周り見てみなよ」
上司は周りを見渡す。
部署中の視線が上司に突き刺さっていた。
「上田さんだけじゃない。ここにいる全員が証言者なんだよ」
上司はその事実に気づいたのかみるみる顔が青ざめていく。
「上田、申し訳なかった。この通りだ。爪でもなんでも好きにしてくれていいから、社長にだけは言わないでくれ」
上司は深々と頭を下げた。
この場にいる全員が私に注目している。
私は深く息を吸って、上司を見た。
「謝れば済むと思ってませんか?私、許しませんから」
ニコッと精一杯の笑顔を浮かべる。
「社長に報告させてもらいます」
「そんな…」
上司はガクッと膝から崩れ落ちた。
ご飯を食べるときもメイクをするときも見えるそれ。
いつもの日常に花が添えられたような感覚だった。
でも、その花はすぐに枯れてしまうことになる。
「上田さん、ネイルしてるの?」
「…はい」
すぐに上司に見つかった。何を言われるんだろう。私は思わず下を向く。
「へぇー今のはこんなのもあるんだ」
「…そうなんです!」
上司はまじまじと私の手を見つめながら言った。
「君みたいな人がネイルしてるなんて笑えるね。なんか変だよ、そのネイル」
その言葉が、胸にグサッと刺さった。
…このネイルが、変?
透果さんの顔が思い浮かぶ。
一生懸命、綺麗にしてくれた。
それが変なわけない。
沸々と怒りがこみ上げてくる。
私はぎゅっと拳を握り、上司を睨んだ。
「お言葉ですが、このネイルは変じゃありません。とても綺麗です」
私が言い返した途端、時が止まった。周りの視線が私たちに集まる。
上司もそれに気づいたのかすぐに口を開いた。
「はいはい、わかったから。そんなこという暇があったら仕事の一つでも覚えようね。このくらい小学生でもできるよ」
上司が宥めるようなジェスチャーをすると、周りからはクスクスと笑い声が聞こえる。
だけど、私は許せなかった。
「…訂正してください。この爪を変って言ったこと、訂正してください」
私は上司をきつく睨む。
そんな私を見て、上司の態度が変わった。
「あのさ、誰に向かって言ってるの?僕課長だよ。立場考えろよ」
ひゅっと喉が鳴る。
「僕はずっと優しく注意してるんだ。それなのに君は、仕事ができないのにネイルに時間を使って。そんな暇があるんなら仕事したらっていう話をしてるの。わかる?変とか変じゃないとかそんな話はどうでもいい!」
私の視界は徐々に滲んでいく。
「もう、泣くのとかやめてよね。みっともない。」
「…っ」
「そんな風になるなら、そのネイル剥がしたら?」
…嫌だ。絶対に剥がしたくない。
「…嫌です」
私は必死に首を振る。
「何その態度。あぁーこれは社長に報告しなきゃかな」
「…」
「君がそのネイルを剥がすなら、目を瞑ってあげてもいいけど。もうめんどくさいから、僕が剥がしてあげようか」
上司が、私に一歩近づく。
私は後に下がってパッと手を隠した。
「…自分で、剥がしますから」
私は震える指で自分の爪に手をかける。
そのままゆっくり剥がそうとした。
なのに、全然剥がれない。
何で?剥がしたいって思ってるのに、何で剥がれないの…。
「どうした?剥がすんじゃないのか?」
「…なんで」
上司はネイルを剥がさない私を見て、腕を組みながらトントン足を鳴らしている。
徐々に大きくなるその音のせいで、手が思ったように動かない。
何で、剥がれないの…!ネイルはびくともしなかった。
「ネイルなんてしてくるなよ…」
誰かがボソッと呟いた。その声は鮮明に私の耳へと届いた。
周りの視線も突き刺さる。
お願いだから、剥がれてよ…!
「ダメですよ上田さん。あなたは条件を満たせてませんから、その爪は剥がせません」
扉の方から、凛とした声が聞こえて振り返る。
私は目を見開いた。
「…透果さん?何でここに」
上司も足を止めた。
「あなたは、誰ですか」
透果さんは上司の言葉を無視して、私たちの元へヒールを鳴らしながら歩いてくる。
その表情はいつにもまして冷たさを感じた。
透果さんは上司に近づくと、聞いたことないくらい低い声を出す。
「お前、私のネイル侮辱したな?」
「初対面なのにその態度ですか。まったく。部外者は立ち入り禁止ですよ」
「私、お客様以外に敬語を使う気はないので。それに私は部外者じゃない。ここにいる上田さんに用があって来たの」
上司に噛みつく透果さんを慌てて止める。
「ちょっと、透果さん!落ち着いてください」
「ご心配なく。私は至って冷静ですよ」
透果さんはニコリと私に笑みを向けた。だけど、その目は全く笑っていない。
「この人、上田の友達か?会社に呼ぶとはどういうことだ。何も聞いてないぞ」
「言っておくが、私と上田さんは友達じゃない」
透果さんの言葉をきいて、上司は一瞬止まった後ははっと笑い声をあげた。
「君、面白いね。たとえそう思ってなくても、そんなこと本人の前で言ったら可哀想だよ」
笑う上司に私は何も言い返せない。
「何がおかしい?上田さんは大事なお客様だから」
「お客様?」
「そうよ。あんたが侮辱したネイルを施したのは私」
上司は私の爪を横目で見る。
「このネイル、君がしたのか。まったく。頑丈につけすぎじゃないか?彼女そのネイル剥がせないみたいなんだ。とっとと剥がしてやってくれ」
透果さんは私の方へと近づくと、そっと手をとった。
「どうして剥がさないといけないの?こんなに綺麗なのに」
「そんなの、仕事には必要ないからだ」
「そう。でも残念。この爪は上田さんにしか剥がせない」
透果さんは爪を見た後、そっと手を離した。
「そんなこと、あるわけないよね。本当は剥がせるのにまさか上田、君わざと剥がしてないだけなんじゃないか?」
「ふふっ。あんた意外に頭はまわるのね。じゃあ、考えてみてよ。どうして上田さんがこのネイル剥がせないのか」
「そんなの、剥がしたくないからに決まってる」
「よくわかってるじゃない。上田さんは剥がしたくないと思ってる。でもあんたは剥がせと強要した。それもしつこくね。それにあんたのさっきの発言も含めると、これってパワハラじゃない?」
上司は少し動揺したような表情を浮かべる。
「そんなことでパワハラになるわけないだろ。若いやつはすぐにそう言って逃げるんだ。僕は注意してやってるだけなのに」
「変なネイルって言ったのも注意に入るのかしら?誰がどんなネイルしようとそれを否定する権利はあんたにないはずよね」
「…」
上司は、ポケットからハンカチを取り出すと、額の汗を拭う。
「まぁ、その発言は訂正してやってもいい…」
「あら?」
上司の発言に被せるように透果さんが呟く。
「あの、聞いてたかな?訂正してもいいって…」
透果さんは上司に近づくと、ハンカチを持っている手を掴んだ。
「な、何ですか?」
透果さんはじっと見たあと、ハッキリと言った。
「汚い爪」
その顔は相当嫌なのかひきつっている。
「人の爪には目を向けるのに、自分の爪には目を向けないのね」
「そんなの、僕の勝手でしょ」
「ふーん、なるほどね」
じっと上司の爪を見ると、透果さんは初めてあったときと同じ表情になる。
「…そろそろ、離してください」
「あんたタバコ吸ってるわね」
透果さんの言葉に上司はふっと笑う。
「何を言うかと思えばそんなことですか。社長は大のタバコ嫌いなんです。それを知っている僕が吸うはずないでしょ」
「人差し指と中指が黄ばんでる」
上司はパッと透果さんの手を振り払った。
「いい加減にしてください」
透果さんは肩にかけていた小さいバッグから除菌スプレーを出して、自分の手をすぐに拭く。
「縦筋。それに汚れ。極めつけはその変な色」
「別にあなたには関係ないでしょ」
透果さんはその言葉をきいてふふっと笑い出す。
「自分は散々言っておいて、言われたら関係ないってとんだお子様発言ね」
「静かにしてください。爪なんかどうでもいい」
上司が言いきった途端、透果さんの空気が変わった。
「はぁ?」
さっきよりももっと低くて、圧のある声が響く。私は思わず身震いした。
上司も少し驚いたように、透果さんを見る。
「爪なんか?今、爪なんかって言った?」
「ええ。言いましたよ」
透果さんは近くにあった机にドンッと手をつく。
「あんた、爪をバカにしてると痛い目見るわよ」
「ははっ。そんなわけないでしょ。痛い目見れるもんなら見てみたいですね」
大笑いする上司を見て、透果さんの口角が上がった。
「あんた最近、タバコ吸う頻度多くなってるでしょ?今も吸いたくて仕方ないんじゃない?」
「そんなわけないでしょ。社内は禁煙なんです」
「だったら、いつもどこで吸ってるの?」
「だから僕は吸ってないって言ってるだろ」
「最近咳き込むこと増えたんじゃない?あんたの爪相当悲鳴あげてるけど」
「咳なんて誰でもするだろ」
「そうね」
透果さんは止まった。じーっと上司の爪を見ている。
上司はその隙に、再びハンカチで汗を拭った後、右のポケットにハンカチを仕舞った。
そして左手もポケットに突っ込んで偉そうに話し出す。
「ふーん…」
透果さんがポツリと呟いた。
「そういうことね」
「もう、話は済みましたよね。仕事中なので出ていってもらえますか?」
「ふふっ。やっぱり爪は可愛いわ。どんなに汚れていてもね」
「何言ってるんだ」
「まだ、話は終わってない」
透果さんは上司に近づくと、導かれるように左手の手首を掴んでポケットから出す。
「この爪は正直だね。もっと大切にしなよ」
そう言ってその手をパッと離した。
「ポケットの中、見せて」
「嫌です」
「どうして?何か見られたら困るものでも入ってるのかしら?」
「…っ」
「入ってないなら、見せれるわよね」
透果さんはそのまま左のポケットに手をいれて何かを取り出した。
「これは、タバコよね」
「返せ!」
上司は慌てて取り返した。
「社長が大のタバコ嫌いだから吸わないんじゃなかった?」
動揺する上司に、透果さんは楽しそうに続ける。
「これ、社長にバレたらまずいんじゃない?ましてや、社内で吸ってることもバレたら…。ただじゃ済まないわね」
「これは僕のじゃない」
「じゃあ誰のよ」
「知らない。…誰かが僕のポケットに入れたんだ」
「そんなわけないでしょ。ポケットに入れられたんだったら、その入れた人の名前言ってみてよ」
「…」
「言えないってことは自分のね」
上司は悔しそうに唇を噛む。
「あぁ。これは僕のだよ。でも、僕は外で吸ってる。社内では吸っていない」
「もう諦めたら。あんたは確実に社内で吸ってる」
「証拠はあるのかよ」
「だから、私はさっきから言ってるでしょ?あんたの爪だよ」
上司は再び自分の爪を見る。
「まだわからない?吸った人特有の臭いと跡が残ってる」
上司は自分の爪を鼻に近づけた。
「ハンカチで汗は拭えるのに、爪は手入れしないんだもんね。気づくわけないか」
上司はパッと手を後ろに隠す。
「うるさい」
「社内で吸ってるって社長が知ったら、あんたどうなるんだろうね」
「僕は社内で吸ってない。外の非常階段で吸ってるんだ!」
シーンとその場が静まり返る。
上司はパッと手で口を塞いだ。
「それはバレたらもっとまずいやつね。良いこと聞いたわ」
透果さんは妖艶な笑みを浮かべる。
「まぁ証言も取れたし、楽しみね。あんたがどうなるか」
「なぁ、社長には言わないでくれ。頼む!」
上司は透果さんの肩を掴んで、懇願した。
「汚い手で触らないで」
透果さんは上司の手を振り払うと、触られた部分をはたいた。
「あんたがどうなるかなんて、私には関係ない」
「そんな…」
上司は膝まずく。
「私の爪を侮辱したんだ。わかってるよな」
透果さんは仁王立ちで上司を見下ろした。
「悪かった。この通りだ」
「ふんっ。私、謝られても許す気ないから」
透果さんはぷいっと顔を背けた。
「どうか社長にだけは…」
「はぁ、またそれ…」
透果さんは呆れたように、首を横に振る。
「あんた、言う相手間違えてない?私はあんたのことなんて微塵も興味ないの。ていうか、この会社にもね」
透果さんは部署内を見渡す。パチッと目が合うと、透果さんはニコッと笑った。
「上田さん。こいつのことどうするかは、あなたに任せます。あとは好きにしてください」
その言葉を聞くと上司は私の方をゆっくりと見た。
「上田は、言わないよなぁ」
立ち上がると上司は気味が悪い笑顔を浮かべながら近づいてくる。
…気持ち悪い。鳥肌が立つ。
「おい、ちょっと待て。さっきから思っていたが、私の大事なお客様に向かって何だその態度」
私が口を開く前に、透果さんが割って入った。
「何だって言われても。僕は上司として適切な対応をしているだけだよ」
「あんた、今の自分の立場わかってないの?」
「そんなの、僕の方が偉いに決まってるだろ」
「今は、あんたより上田さんの方が立場が強いに決まってるでしょ。さっきの言動もパワハラも当事者である上田さんが声をあげたらあんたは終わり」
「ははっ。社長が僕よりもこいつの意見を信じるとでも?」
「ふふっ。周り見てみなよ」
上司は周りを見渡す。
部署中の視線が上司に突き刺さっていた。
「上田さんだけじゃない。ここにいる全員が証言者なんだよ」
上司はその事実に気づいたのかみるみる顔が青ざめていく。
「上田、申し訳なかった。この通りだ。爪でもなんでも好きにしてくれていいから、社長にだけは言わないでくれ」
上司は深々と頭を下げた。
この場にいる全員が私に注目している。
私は深く息を吸って、上司を見た。
「謝れば済むと思ってませんか?私、許しませんから」
ニコッと精一杯の笑顔を浮かべる。
「社長に報告させてもらいます」
「そんな…」
上司はガクッと膝から崩れ落ちた。


