ネイルを剥がしたら

「そんなに疲れました?結構近かったと思うんですけど」

肩で息する私を、お姉さんは見下ろす。

「…いや、その…歩くの速くないですか?」

「私、移動時間が一番無駄だと思っているので。なるべく短縮したいんです」

カチャッと鍵が開く音がして、お姉さんが白い扉を開けた。

「さぁ、どうぞ」

「…お邪魔します」

恐る恐る中に入ると、目の前にはグレーの世界が広がった。

黒の家具に観葉植物が置いてある質素な部屋。

入り口の近くの壁には黒い文字でALTERと書いてある。

「ALTERって何ですか?」

「この店の名前です」

お姉さんは何も入ってなさそうな小さな鞄を置くと、店の奥へと消えていく。

きちんと整理された店内はホコリ一つない。すれ違ったときと同じ香りが店内に漂っていた。

「そんなところで何してるんですか?こちらへどうぞ」

いつの間にか白いマスクと黒いエプロンをつけて、下ろしていた髪を一つに結ったお姉さんが目の前に座るように私を呼んだ。

「…失礼します」

「荷物はそちらに置いてください。では、改めましてこの店のオーナーをしてます。ネイリストの西園寺 透果(さいおんじ とうか)です。気軽に透果とお呼びください」

お姉さんもとい透果さんは私に名刺を差し出した。

「…はい。あっ、私は…」

「知ってます。上田さん、ですよね?」

透果さんは目を細めた。

「な、なんで名前知ってるんですか?」

「さっきも言いましたけど、私爪見たらだいたいわかるんです」

「…え」

ぞわっと寒気がした。私は置いたばかりの鞄に手をかける。

ここにいたら危険だと直感的に思った。

「あの、やっぱり帰りま…」

私が席を立つのと同時に、透果さんがふふっと笑う。

「上田さん、面白いですね。…冗談ですよ。爪見ただけではさすがにわかりません」

「でも、名前…」

「それですよ」

透果さんは私の鞄を指差す。

「社員証がチラッと見えたんです」

あぁ、なるほど。会社を出たときのことを思い出す。

「でも、爪が泣いてるのは本当です。あなたの噛み癖は尋常じゃありません。相当ストレスを抱えていますね」

「…はい。上司に色々と言われていて。今日だって…」

透果さんは私が話をしだすと、ごそごそと何かを準備しだした。

「その話、長くなります?私早くネイルしたいんですけど」

準備万端の透果さんを差し置いて、会話を続ける勇気はなかった。

「…いえ、すみません」

「では、メニューどれにします?」

透果さんはネイルの見本を私に見せてきた。

「これとか、これとかおすすめですよ」

「…ちょっと待ってください。私、ネイルするなんて一言も言ってないです」

透果さんは顔をあげた。

「じゃあ、なんで来たんですか?」

「なんでって、それは…」

「言い当ててあげましょうか?」

透果さんの黒い瞳が、私を捉えた。ごくりと喉が鳴る。

「それは、あなたが本当はネイルをしたいと思っているからです」

「…」

「じゃないとついてきたりしませんよね?ネイルできないのに。さぁ、どれにしますか?」

透果さんはまたネイルの見本を私に見せた。

なかなか口を開かない私に、透果さんは言った。

「これ、私が作ってるんです。爪は死んだ細胞って言われるけど、私はそうは思いません。いくらだって形は変えられます。爪は本当に奥深いですよ」

私はじっとネイルの見本を見つめる。どれも見たことないくらい綺麗だった。

でも脳裏には、あの上司が思い浮かぶ。

「…やっぱりできないです」

「だったら、こちらはどうですか?」

透果さんは自身の右手の親指を見せてきた。

あれ?さっき私の手を掴んだときには右手の親指のネイルは取れていたはずなのに…。

「それ、いつの間に」

「上田さんが店内を見てまわってるときです。そんなことより、どうですか?」

見せてきたネイルはデザインも爪の長さも一つだけ違う。

普通は違和感があるはずなのに、なぜか馴染んでいた。

「…綺麗です」

「ふふっ、当然です。これはピールオフネイルと言って、簡単に剥がせるんですよ」

簡単に剥がせる…。これなら、私も。

「…やってみたいです」

「わかりました。ではどのデザインがいいですか?」

「…あの、このALTER EGOって何ですか?」

ネイルの見本の下に小さく書いてあったその文字。

「裏メニューです。普通の人は気づかないんですが、あなたはお目が高いですね」

「でも、デザインは普通のとさほど変わらない気がするんですが…」

「そうですね。ほぼ同じです。ただこれにはある特殊な仕掛けがしてあるんです。…気になります?」

私は小さく頷いた。

「ふふっ、じゃあ試してみましょうか。そんなに怯えなくても大丈夫ですよ。身体に害はありません」

透果さんはネイルの見本を閉じると、私の手を軽く掴んだ。

「このメニューは私の思いが詰まっています。だから、このネイルをしていただく方にはある条件があります」

「…条件?」

「そんなに難しいものではありませんよ。ALTER EGOになればいいんです」

「どういう意味ですか?」

「そのままの意味です」

透果さんは掴んだ私の手をじっと見ている。何を言われるんだろう。私は静かに透果さんを見つめた。

時計の針の音がやけに大きく聞こえる。



「あなたの今の生活、楽しいですか?」



透果さんは爪を見たまま、問いかけてきた。

私はすぐに答えることができなかった。認めたくなかった。


「…そんなすぐに人は、変われませんよ」

「ふふっ、あなたって本当に頑固なんですね。変われますよ、人は。良い方向にも、悪い方向にも」


「…」


「あなたは堕ちる覚悟ありますか?」


その言葉で部屋の空気が一気に変わった気がした。時計の音なんて聞こえないくらい、あたりは静寂に包まれた。



「…堕ちる覚悟?」

恐る恐るきくと透果さんは何も答えず、じっと私を見つめる。

私は透果さんに掴まれている手を軽く握り返した。

「…私は、変わりたいです」

「ふふっ。良い答えです。…今から楽しみですね」

「楽しみって、何がですか?」

「この爪がどんな風になるのか、ですよ」


どんな風になるのか、その言葉が妙に心に残った。

その視線は爪を向いているのに、私自身にその言葉は向けられている気がした。




「お願いします」

「はい。任せてください」

透果さんは私の手にまた視線を落として施術を始めた。



透果さんは無駄のない手つきで進めていく。

それはずっと見ていられるくらい美しかった。


「…あの。透果さんっておいくつなんですか?」

私が話しかけたからか、透果さんの手が止まった。

「二十歳です」

「えっ!」

「そんな驚きます?」

この人、私よりも年下だったんだ。

「いえ、随分大人っぽいなと思いまして…」

「ふふっ。良く言われます」

透果さんは私をじっと見る。

「上田さんは、よく学生と間違えられてそうですね」

図星すぎて何も言えなくなる。

透果さんはまた爪に目を移した。

「でも実際は、二十四歳くらいですかね」

「すごい…。当たってます」

「まぁ、このくらい誰でもわかりますよ」


この会話を最後に透果さんはまた施術を再開した。

話しかける隙がないくらい、透果さんはさっきよりも集中している。

黙っていても華がある透果さんが少しだけ羨ましかった。