ネイルを剥がしたら

空はどんよりと曇っていた。

今にもまた雨が降りそう。

首からかけていた会員証を雑にしまって傘を手に取る。

こんな日に限ってヒールなんて。まぁ、毎日ヒールなんだけど、本当に最悪だ。

私のヒールはなかなか前には進まず、後ろから来るサラリーマンや学生にどんどん抜かされていく。

そんな中、後ろからコツコツコツと軽快なヒールの音が響いてきた。

私なんて今にも滑りそうなのに、よくそのスピードで歩けるな。なんて思っているとあっという間に抜かされた。

ふわっと一瞬、いい匂いがして綺麗な長い黒髪が靡く。

私は思わず目を奪われた。

「…綺麗」

暗い空の下のはずなのに、彼女だけ眩しく見えた。

前を歩く背中をぼんやりと見つめていると、雨が本格的に降ってくる。

彼女が傘を開こうとしているのが見えて、私もつられるように持っていた自分の傘に手をかける。

その瞬間、何かが前の方から飛んできて私の近くに落ちた。

「…なにこれ」

水溜まりの上に浮かんだキラキラ光る物を私は拾い上げる。

「…ネイルチップ?」

パッと前を向くと、お姉さんがこちらを見ていた。傘を持つ手元はキラキラと輝いている。

このネイルと同じだ。

話しかけるか迷っていると、彼女はすぐに前を向いて歩き出した。

「ちょっと、待ってください…!」

私は急いで、その背中を追いかける。

ピンヒールなのにどうしてあんなに速く歩けるんだろう。

私なんて足がもつれて転けそうになるし、水溜まりの中にバシャッと浸かってしまった。

だけどそんなの気にならないくらい追いかけるのに必死だった。

信号が赤に変わる。

…やっと止まった。

「あの!…っすみません!これ、落としましたよね?」

呼吸を整えながら、振り返ったお姉さんにネイルチップを差し出す。

彼女は私が差し出したネイルチップを見て、顔を歪めた。

「これ、あなたのですよね?」

「…」

彼女は何も言わないどころか受け取ろうともしない。

「あのー」

「いらないです」

「えっ?」

その声は酷く冷めていた。

「それ、処分しといてください」

「でも、そんな。これこんなに綺麗ですよ。…捨てるなんて勿体ない」

私の手の中で光るネイルチップは、汚れた水に一度浸かったはずなのに、綺麗なままだった。

「はぁ…」

お姉さんは、目の前で大きなため息をつく。

「だったら、それあげますよ」

「いや、でも…」

「私は他人が触った物はつけたくないんです。ましてや、一度落ちたものなんて。あなた、よくそれ拾えましたね」

「…」

私は手に持っていたネイルチップを軽く握る。何にも言い返せなかった。

黙り込んでいると、お姉さんが急に私の右手首を掴む。

その勢いで、手のひらの上にあったネイルチップがポロっと落ちた。

「…あっ」

落ちたネイルチップには見向きもせず、彼女は私の手を見ている。

「ふーん、なるほど。…やっぱりね」

そして、怪しげに口角をあげた。

「な、なんですか?」

「あなたネイルができないんですね」

お姉さんの目線の先をたどると、映る私のボロボロの爪。

「…っ。離してください!」

咄嗟に手を引っ込めようと抵抗する。

だが、お姉さんは私の手を離そうとしなかった。

「噛み癖、特に親指。あとは慢性的なストレス、睡眠不足ってところですね」

「えっ…」

「原因は主に職場」

「なんで、わかるんですか?」

ふっとお姉さんは笑った。

「私、ネイリストなんです。だから爪を見たらだいたいわかります」

…ネイリストって、爪を見ただけで普通そこまでわかるだろうか。

お姉さんは私の爪をまじまじと見ている。

「あなたの爪、泣いてますよ」

「爪が泣くって、そんなことあるわけないですよ」

「いいえ、あなたの爪は泣いています。普段ケアもろくにしてないですよね」

図星だった。

私は何も言えずに、下を向く。

「私なら、この爪綺麗にできます」

「えっ…」

「ついてきてください」

タイミング良く信号が青に変わる。

お姉さんは私の手を離すと、背を向けて歩き出した。

「…ちょっと!どこに行くんですか?」

「ついてくればわかります」

お姉さんは黒い傘を軽く回しながらどんどん進んでいく。




嘘だ。本当にこの爪が綺麗になるの?

ガタガタでささくれもあって、本当に汚い。







『この爪、泣いてますよ』






爪が泣くなんてそんなわけないのに。

この爪を見たら本当に泣いてるんじゃないかと思ってしまう。


「ちょっと、待ってください…!」


気づいたら私はまた、お姉さんの背中を追いかけていた。