計画少女は着火剤

「いつか、見つけにきて」
当時小学2年生の私たちは、夜中に家を抜け出し近所の小さな公園で最後の会話をした。その言葉に私は「必ず会いに行く」と返した気がする。当時彼女は、自分がこれから住むことになる地域の名前を知らなかったのだと思う。私に彼女の行く先を知る余地はなく、私のその言葉には何の根拠もなかった。
 しばらくの会話を終えると、彼女は公園を去っていく。その背中を私は必死に追いかけて華奢な腕を掴むが、掴んだ腕は私の手からするりと抜けていく。公園入口の街灯の下で1人取り残された私はその場に立ち尽くし、彼女に返した言葉通りの決意をした。
 この一連を経験すると、私はこの顛末が反芻思考のような夢であると、いつも気づく。

 手から滑り落ちてスカートの上に着地したスマホのバイブが、新青森の到着30分前を知らせた。寝ぼけた目で車窓から外に目をやると、今朝と相変わらず目まぐるしい速度で景色が流れていた。少しずつ暗くなる空と、車内照明を反射する雨粒が視界を悪くしていて、窓ガラスは外の景色よりも崩れたボブの頭を映したがっていた。ワイシャツには少し汗が滲んでいて、冷房の風が当たると少し肌寒く、ブレザーを広げて羽織った。
 私が座ったのは自由席車両の通路側で、隣には知らないサラリーマンらしき男性が寝ている。見回すと概ね席は埋まっていて、ほとんどの乗客はスマホを眺めているか寝ているかのどちらかだった。時折、駅弁を食べている人もいて、見ていると腹の音が鳴りそうになる。昼にコンビニのパンを食べて以来何も食べていなかった。背筋を伸ばして息を吸い、腹に力を入れてこらえる。収まると、膝の上のスクールバッグからゼリー飲料を取り出し、空腹を抑え込んだ。
 半分ほど飲み終えたところで、前方のデッキエリアに続く扉が開いた。そこから、座席の高さと同じくらいの少年が、俯きながらゆっくりと歩いてくる。細身で、背中には大きな黒いリュックを背負っていた。少年は何かを探すように辺りに視線をやりながら歩いていた。少年を見ていると、私と視線が重なった。しかし、少年は1秒も経たずに視線を他へ移し、後方へ通り過ぎて行った。
 残りのゼリー飲料を鞄へ戻すと、再びスマホのバイブが伝わった。開くと、通知バーにLINEの表示があった。
『今日学校行ってないの?』
『今どこにいるの?』
母からだった。既読がつかないよう通知を横へスライドし、設定からLINEの通知をオフにした。設定画面からマルチタスク画面に切り替えると、開いていたネット記事が映し出された。記事には見出しの下に写真が貼られていて、そこには壇上でフルートと賞状を持ったブレザーの女性が佇んでいた。

 目的地までは、まだ数回電車を乗り継いでいく必要があり、新青森に着いても3時間ほどはかかりそうだった。新幹線の発着駅のトイレは混雑しているし、あまり綺麗な印象がない。駅に到着後、いつ在りつけるか分からないので、今済ませておくことにした。背もたれの車両内地図でトイレの場所を確認し、鞄を肩にかけて席を立った。
 予想はしていたが、女性用トイレは使用中だった。順番待ちをしているだろう人が2人、壁に身を預けてスマホ眺めていた。このためにアラームを30分前に設定していたのだ。東京駅に着く前にも同じことをしたし、入れないことはないだろう。
 ふと昇降扉の方を見ると、黒いリュックを背負った少年が膝を抱えて座り込んでいた。先ほどの少年だ。しばらく様子を窺っていたが、一行に動く気配はない。この場に他の男性の姿はなく、恐らくトイレは空いていた。私は男性用トイレの反対側の壁まで移動し、窓から人が入っていないのを横目で確認した。少年の近くへ戻り、しゃがんで小さく声をかけた。
「トイレ、空いてますよ」
少年は黙ったまま首を縦に振った。空いていることは知っていたらしい。しかし、動く気配はなかった。腹痛で男女共用の洋式トイレが空くのを待っているのかとも考えたが、腹を押さえたりはしていない。きっと自分の席の位置を忘れ、変えれなくなったのだろう。迷子の子供に会うことは想定していなかった。見て見ぬふりをする訳にもいかず助けようと思ったが、この場で「迷子ですか」と口にするのは彼の自尊心を傷つけてしまうだけだろう。確認することはしなかった。巡回する警備員に声をかけるのもやめておいた方が良いだろう。
 しかし、迷子なことに言及せずに親探しを始めることなどできるのか、とも思った。少々考えたが良い方法は思い浮かばなかった。考えても答えが出そうになかったので、今できそうなことを声に出した。
「君、お姉さんと一緒に前の車両行かへん?」
周囲がやけに静かに感じた。歳の差は10歳くらいあるだろう。この発言はまずかったかもしれない。あと少し返事がなかったら、拒否されたということで離れよう。そう思った時、少年は膝に手をついてゆっくりと立ち上がった。嘘やん。
 私たちは、前方の車両へ歩くことにした。それで見つからなければ後ろへ戻って探そう。扉の前に立ち、前方車両に入っていく。

 少年が前を歩き、私はそれについていく。ご両親の特徴を聞けていないので、私は実質ただの付添人だった。少年は左右の座席を確認しながら歩みを進める。学制服の女が新幹線にいるのはやはり不自然なのだろう、客室を行く中で私に視線を向ける人が時折いた。少年があらぬ注目を浴びてしまうことに申し訳なさを感じた。
 1車両を移動し終えてデッキエリアに入る。次の客室へ行こうとしたとき、少年は足を止めた。いきなり止まるので、後ろから軽くぶつかってしまった。
「こんなことしても意味ないよ」
少年は呟いた。次の駅で終点なので、少年は正しかった。しかし、冷静な言葉にしては声が細かった。私は少年の前へ回り込んで屈み、顔を覗き込む。すると少年は顔を逸らした。言葉と態度が一致していないことが妙に引っ掛かり、問いかける。
「どうしてそう思うの?」
少年は黙りこくった。しかし、違和感の理由が分かった気がした。
「もう会えないと思ってる?」
依然として無反応だったが、これは図星の無反応だろうと感じた。私はしゃがんで、顔を少し見上げながら話す。
「私ね、10年間友達を探してたの。私が君くらいの頃に転校していった友達を。あの子の行く先なんか分からへんかったし、スマホもガラケーもまだ持ってへんかったから、連絡も取れへんかった。ほんまに離れ離れやった。けど、探し続けた。『必ず会える』と思いながら」
少年は私から半歩下がった。自覚はあったが、態度に出されると少し心が痛む。
「諦めるんは、まだ早いんちゃう?」
学生にとっての10年はあまりにも長すぎた。会えたところで、彼女は彼女なりの新たな居場所を作っているだろう。私のことなど、もう覚えていないかもしれない。
「私がやっているから君もやれ、とは言わんよ。それに、もし君が今後もっと大きな失くしものをした時には、こんな根性論だけでは無理かもしれん。でもね...」
少年がこちらを向く。
「必ず会えるよ」
新幹線が少し揺れ、少年がよろけた。咄嗟に立ち上がって彼の肩を支えた。左手を差し出すと少年は、その手に右手をそっと重ね、握った。

 次の客室では左手で少年の手を握り、右手で座席の丸い取っ手を掴んで歩いた。少年の1歩は少し強くなり、歩くペースが少し早くなった気がした。その背中に佇まいにどこか懐かしさを感じた。
 3つ前の車両。偶然空いているトイレを見つけた。
「お姉さんちょっとトイレに行ってくるから、少し待ってて」
少年は扉の正面の壁に移動する。扉を右へ押して中に入り、台に鞄を置く。しばらくすると、扉の向こうから「タッタッタッ」と小走りすような音が聞こえた。得体のしれない胸騒ぎがした。手早くスパッツを上げ、手を洗い、鞄を掬い上げて外へ出る。扉の前にいるはずだった少年は、見知らぬ中年女性に代わっていた。左右へ視線を往復させるが姿は見えない。
 前方車両に向けて歩み始める。次のデッキエリアへ行くと、再び昇降扉の前にしゃがみ込んでいた。微かに目が合うと、私の腕を引き寄せ向かい合わせた。少年はブレザーの裾を力強く握りしめ、身を縮こませた。俯いていて表情は窺えない。顔を覗き込もうとすると、背後に気配を感じた。腕に鳥肌が立つのを感じ、視線を後ろにやると先程トイレの前にいた中年女性がこちらを向いていた。見るなり女性はこちらへ「こらっ!」と声を上げた。しかしその視線は私には向いていなかった。女性は私の前へ手を回すと、少年の腕を掴み引っ張った。
「嫌だ!」
耳が痛くなるような叫び声をあげたのは少年だった。少年は私のブレザーを掴み続け、連なるように引っ張られた私は少しよろける。突然の出来事に唖然としている間、2人の攻防はしばらく続いていたのだと思う。少年がこちらに視線を送ってきたが、何をすれば良いのか分からなかった。攻防の末、少年は私から手を離し、視線を地に落とした。中年女性はこちらを向くと、「本当にすみませんでした」と深々と頭を下げた。彼女は俯き黙りこくる少年を見やると、その頭を掴んでもう一度頭を下げた。2人が頭を上げると、彼女は会釈をして少年を引きずって歩き始めた。
「あかん...」
息が詰まりながら、私の口から小さく声が漏れた。鞄を放り落とし、慌てて少年の腕へ手を伸ばした。しかし、少年はこちらへ手を伸ばそうとはしなかった。それでも掴んだ腕は、私の手からするりと抜けていった。私だけが立ち尽くす空間に、親子が座席に戻っていく扉の閉まる音だけが鳴り響いた。全身の力が抜け、倒れるように壁に身を預けた。ブレザーの裾を握ると先ほどまでの感覚が蘇ってくる。
 彼の必死の逃避行に終止符を打ったのは、紛れもない私だった。

 しばらくして私は鞄を拾い、踵を返す。元居た車両まで戻ってきて座席の前まで着くと、そこにはアクセサリーをたくさん身にまとった金髪の若い男性がスマホを眺めていた。座る気にはならなかった。次の行動が思い浮かばず立ち尽くしていると、新青森に到着する数分前のアナウンスがなり始めた。私は1人で再び前方へ歩み始めた。昇降扉の窓ガラスは黒い鏡になっていた。映る人物の目は、私よりももっと遠くを強く見つめている気がした。どこにももたれることなく揺れる車体に耐えながら、扉が開くのを待った。
「必ず会いに行く」
小さく呟くと、開く扉から力を込めて1歩を踏み出した。