放課後、チューニング不安定な俺たち

 どうやって電車に乗ったのか全く記憶がない俺は、家に辿り着いて自室のベッドにそのままダイブした。

「……っっっ!!!」

 声にならない悲鳴を上げて、枕に顔を押し付ける。ドクン、ドクン、ドクン。心臓が、肋骨を突き破りそうなほどの勢いで暴れている。

(両思い。両思い……! あの、佐野くんと!?)

 暗闇での密室。至近距離での視線。そして、『好きだという意味で』という、あの低くて甘い声。全部が夢だったんじゃないかと疑いたくなるけれど、俺の体をすっぽりと包んでいるこの大きすぎる指定カーディガンと、そこから漂う微かなシトラスの香りが、すべて現実だったと証明している。てか、着たまんま帰ってきちゃった。やべ。

 たまらずスマートフォンを取り出し、震える指でフリック入力をした。送り先はもちろん、佐久間萌生。

『たすけて。俺、今日で寿命尽きるかもしれない』

 送信した、たった五秒後。画面が切り替わり、けたたましい着信音が鳴り響いた。

「はいっ!」

『あんた、また何やらかしたの!? 佐野くんに今度は何を送り付けたの!?』

 電話に出るなり、呆れたような、でも少し心配そうな声が飛んでくる。

「ちがっ……。あのね……俺……佐野くんと、両思い、だった……」

 電話の向こうで、ガタンッ! とたぶん参考書か何かが落ちる音がした。

『……はぁっ!? 告ったの!?』

「うん……成り行きで……」

 俺はベッドの上で丸まりながら、今日あったことを事細かに説明した。雨の旧体育館。閉じ込められた倉庫。真っ暗闇の中での問い詰め。そして、お互いの気持ちの答え合わせ。

『……いやいやいや、ちょっと待って。ハルのくせにシチュエーションが神がかりすぎじゃない? 少女漫画のヒロインかよ!』

「俺だってそう思うよ! 心臓爆発するかと思った!」

『やるじゃんハル! エアドロ誤爆からの大逆転。佐野くん、めっちゃいい男じゃん顔いいし』

 電話の向こう側から、ケラケラとした笑い声が返って来る。

「でしょ……。でも俺、明日からどういう顔して部活行けばいいの? 恥ずかしくて絶対目とか合わせられない……っ」

『何言ってんの。あんた記録係でしょ。堂々と彼氏の顔面ドアップ撮りに行きなさいよ』
 
「彼氏!? か、かれっ……まだ付き合うとかそういう言葉は出てないし!」

 俺が慌てて否定すると、萌生は『はいはい』と面倒くさそうに息を吐いた。

『まあ、時間の問題でしょ。……ていうかさ、ハル』

「なに?」

『あんた、佐野くんのカーディガン、今も着てるわけ?』

 ギクッとして、自分の袖口を見る。長すぎる袖の先から、ちょこんと自分の指先だけが出ている状態だ。

「だって、雨降ってたし、返すタイミング逃して……」

『あんたねえ、本当に鈍感ね』

「えっ?」

『佐野くんみたいなタイプが、自分の服を好きな相手にそのまま着せて帰す意味、分かってないでしょ』

 萌生の声が、急にニヤニヤとしたものに変わる。

「い、意味って……ただ俺がシャツ一枚で寒そうだったから……」

『あのねえ。それ、完全に俺のものっていうマーキングだからね』

「マ、マーキングぅ!?」

『学祭の時、私に対して殺気飛ばしてきた佐野くんだよ? アレはめちゃくちゃ独占欲強いし、愛情激重なタイプに決まってんじゃん。ハルが他から声かけられないように、自分の服着せて牽制してんのよ』

(ど、独占欲……激重……!?)

 俺の顔が一気に沸騰する。慌ててカーディガンを脱ごうとしたが、シトラスの香りがふわりと舞い上がると、どうしても脱ぐことができなかった。

『まあ、ハルみたいなうっかり小動物には、それくらい首輪キツめにする彼氏の方が合ってるかもね。せいぜい大事にされなさいな』

「首輪って言うな!」

『はいはい。じゃ、夜ご飯食べてくるから。お幸せにー』

 ツーツー、と通話が切れる音。俺はスマートフォンを放り出し、再び枕に顔を埋めた。

(マーキング。俺のもの……)

 飛んでもない言葉が脳内をグルグルと回り続ける。カーディガンを顔の半分まで引き上げると、佐野の匂いがすぐ近くでした。不良っぽくて、クールで、近寄りがたいと思っていた彼が、俺にだけ見せる不器用で、ちょっと強引な優しさ。

「……好きだなぁ、もう」

 誰に聞かれるわけでもない自室で、俺はポツリと呟いた。明日、このカーディガンを返しに行く口実で、堂々と話せる。カメラのファインダー越しじゃなくて、真っ直ぐに彼を見つめられる明日が、今はただ、たまらなく待ち遠しかった。


 
 四時間目の終了を告げるチャイムが鳴った直後、俺の教室の入り口が妙にざわついた。

「瀬戸いる?」

 ひっ、と変な声が出た。入り口の引き戸に寄りかかっていたのは、昨日から俺の脳内を占拠して離れない張本人――佐野だった。他クラスの、しかも目立つ彼がわざわざ教室まで迎えに来たことで、クラスメイトたちの視線が俺に一斉に突き刺さる。

「さ、佐野くん!? ど、どうしたの……」

「一緒に昼飯、食おうぜ。屋上、行くか」

「……え、屋上って立入禁止じゃないの?」

「鍵、借りてきた。次のライブの準備で、屋上に資材仮置きするかもしれないから確認したいって言ったら、意外とあっさり貸してくれたよ」

「あんなところに置かないじゃん」

「今日は、空がきれいだから。それだけで十分だろ」

 佐野が、口角を少しだけ上げて悪戯っぽく笑う。その強引でスマートな誘い方に、俺は赤くなる顔を隠すように小さく笑って頷いた。手には、彼に返すために紙袋に入れてきたカーディガンを持っている。

 昨日の土砂降りが嘘のように、梅雨の晴れ間の空は高く、雨上がりの空気は驚くほど透明だった。眼下にはお昼休みの喧騒に包まれた校庭が広がり、遠くには街を囲む山々の稜線がくっきりと見える。風が少しだけ冷たい。俺が紙袋からカーディガンを取り出して「これ、洗ってないけど……返すね」と差し出すと、佐野はそれを受け取らずに、俺の肩にバサッと被せた。

「……風、強いから着とけ」

「えっ、でも」

「俺はいいの。お前が着てるのが見たいから」

(こ、これが、萌生が言ってた激重マーキング!!)

 内心パニックになりながらも、シトラスの香りに包まれる安心感に抗えず、俺は大人しく大きすぎる袖に腕を通した。コンクリートの段差に並んで座り、お弁当を開く。肩と肩が触れそうな距離。俺の卵焼きと、佐野の唐揚げを無言で交換する。佐野が俺の箸から直接卵焼きをパクリと食べた時は、危なく心臓が口から飛び出るかと思った。

「……空、きれい」

「カメラ、出せよ」

「うん」

 食後、俺はカメラを構えた。流れる雲、どこまでも続く青、眼下の校舎。そして――。

「佐野くん、あっち向いて」

「どっちだよ」

「フェンスの方。遠くを見て」

 佐野がフェンスに歩み寄り、遠くの景色を眺める。俺はファインダーを覗いた。逆光気味の強い光が彼の輪郭を白く縁取り、黒い髪が透けるように輝いている。頭一つ分背が高い彼の、そのすらりとした背中越しに広がる青空。カシャリ、と。光の粒子まで写り込むような、奇跡みたいな一枚が撮れた。

「……後で見せろよ」

「うん、現像してからね」

「デジタルなのに現像って言うんだな、お前」

「RAWデータを、一番いい色に調整することを現像って言うんだよ。光の加減とか、佐野くんが一番かっこよく見えるようにしたいから」

「へえ」

 佐野がフェンスに背をもたれ、こちらを振り返った。抜けるような青空を背景に、静かな瞳がまっすぐに俺を射抜く。

「よし、今度は、俺がお前を撮る」

「えっ?」
 
「お互いで撮り合うのが公平だろ」

 佐野がポケットからスマートフォンを取り出した。
 俺は少し戸惑いながらも、カメラを下ろした。

「……分かった。じゃあ、撮っていいよ」

「笑え」

「えっ、急に言われても……笑い方、分かんないよ」

「ん、そのまま。泣きそうな顔もいいな」

 佐野がスマートフォンのカメラを向けた。俺は少し困ったように眉を下げ、カメラのレンズを上目遣いに見つめた。カシャッ、と軽いシャッター音が鳴る。

「……送ったぞ」

 佐野の指先が画面を操作している。俺のスマートフォンがポケットの中で短く震えた。

『佐野のiPhoneから写真が届いています』

 あの日、一方的に送り付けた通知。胸が甘く締め付けられる。俺が「受け入れる」をタップして画面を開くと、そこには青空を背景に、少しだけ困ったように、けれど隠しきれないくらい幸せそうに微笑んでいる自分自身が映っていた。

「すごく困った顔してる」

「可愛いだろ」

「……へ」

 不意に投げられた言葉に、俺の思考が数秒間、完全にフリーズした。

「……今、なんて言ったの?」

「聞こえてただろ」

「聞こえたけど……」

「んじゃあ、いちいち聞き返すな」

 佐野がふいっと視線を逸らした。でも、その耳の端が少し赤くなっているのを見て、俺はスマートフォンを胸にぎゅっと押し当てた。

(……可愛い。カッコいい。ずるい)

「俺も、送る……」

 照れ隠しにスマホを構える。光を背に俺を覗き込むような視線。ふわっと風に煽られて額の髪が少し乱れた瞬間を切り取る。そのまま佐野に送り付けた。画面をじっと見つたまま佐野は沈黙した。

「……俺、こんな顔してんのか」

 佐野がゆっくりとスマートフォンを下ろし、目の前に立つ俺を見下ろす。一歩、距離が縮まる。シトラスの香りが濃くなる。

「なあ……名前で、呼んでもいい?」

「え……あ、うん。いいよ」

「ハル」

「……は、い」

「返事が小さい」

「はいっ」

「佐野くん、じゃなくて。由良って呼べよ。これから」

「ゆら、くん」

「くん、はいらないだろ」

「……由良」

 佐野が、これまでに見たことがないほど優しく、穏やかに笑った。その笑い方は、俺の胸をギューッと締め付けるほど、どうしようもなく愛おしい。そう思った瞬間、視界がぐらりと揺れる。さっきまでの穏やかな余韻を吹き飛ばすような強さで、佐野にガシッと手首を掴まれる。そのまま背後のフェンスに押し付けられたかと思うと、影が降ってきた。あごを強い力で捕らえられ、正面に固定される。指先が髪に食い込み、有無を言わせない力でぐいっと顔を上向かされた。

「逃げるなよ、ハル」

「ゆ──」

 呼ぼうとした名前は、重なった唇にそのまま閉じ込められる。

「ん……っ、んむ、」

 降参を認めるように俺が微かに漏らした吐息を、佐野は容赦なく全て吸い上げていく。何度も角度を変えて深く唇を割って。あまりの熱量に膝の力が抜けそうになり、俺は佐野の肩にしがみついた。優しく笑っていたはずの男の、あまりに強引で、執着に満ちたキスに、俺の頭は一瞬で真っ白になった。

 こうして俺たちは誰もいない屋上で、二人だけの秘密を共有した。



 夏休みが終わり、二学期が始まると軽音部の音楽室に、また活気が戻ってきた。秋の定期演奏会に向けての練習が本格的に始まり、放課後の校舎には少し涼しい風が吹き込んでいる。俺は相変わらず記録係で、カメラを構えて部員たちの練習風景を撮っている。そのファインダーの先には、いつも佐野がいる。

 少しだけ変わったことは、俺がもう遠慮なく佐野の方へカメラを向けられるようになったことだ。以前は「さすがに撮りすぎているかもしれない」と自制していたけれどね。秋の写真コンテストのモデルの件もあっさり了承して貰えて、色々今は二人で試し撮りをしているところ。

「……今日はこの角度、ちょっと影が強かったかも」

「次はどこで撮る?」

「ステージ側から右を向くイメージで。そしたら窓の光が入っていい感じになると思う」

「やってみよう」

 こういう会話をごく自然にする。周りから見たらただの熱心な記録係と被写体だけど、実は付き合っているなんて、誰も知らない優越感と背徳感でちょっとドキドキする。部員たちの間では、俺たちが「急激に仲良くなった」という認識があるらしく、村田には「なんかお前ら、結局めっちゃ仲良いじゃん」と言われた。俺は「まあね」とだけ返して誤魔化して笑うことにしている。

 秋のライブの三週間前。練習後、俺は軽音部向けの手作り写真集を制作した。ぶっちゃけ、学生写真コンテストに向けて、舞台の片隅でもいいから、上がるための権利?として賄賂の意味合いもある。過去半年分の写真を選び、印刷して簡単な冊子に仕上げたものだ。ライブの記念に、部員全員に配るために作ったのだ。

「結構、本格的じゃん。やっぱりすげーなハル」

 受け取った佐野が、静かにページをめくる。

「そうだよ。俺たちが一年の春からの分」

 新入生歓迎ライブ、日々の練習風景、文化祭の本番、打ち上げの写真。

「つうか……俺多いな」

「……そ、そうかな。平等にしたつもりだけど」

 佐野が冊子を持ったまま、意地悪く笑って俺を見た。

「好きなんだろ?」

「……うん、好き」

(カメラマンとしても、か、彼氏としても)

 気恥ずかしくて視線を落としていると、俺のスマートフォンに、ふいに通知が届いた。

佐野由良(・・・・)のiPhoneから写真が届いています』

 画面に表示されたのは、出来上がった写真集を眺めている俺自身の写真だった。窓からの夕日の中、ページをめくっている顔。表情は少し真剣で、でも口元が微かに上がっている。俺が気づかないうちに、佐野がこっそり撮っていたらしい。

「写真集の中にハルがいないから」

(……由良も、こういう目で俺を見てるってこと)

 いつも俺がファインダー越しに彼を見つめていたように、彼もまた、愛おしむような静かな視線で俺を切り取ってくれていた。

「お、俺は撮る専門!」

「それだと、俺がハルを撮ったやつが増えるだけじゃん」

「それでいいよ」

「じゃあ増やしまくるわ」

 俺と佐野は、顔を見合わせた後、たまらず吹き出した。

 俺たちの記録は、これからも続く。どちらかが一方的にファインダー越しに見つめるのではなく、お互いがお互いだけに許す瞬間を残していく。それは、最悪のエアドロ事故から始まった、不格好で、少し遠回りで、でも確かに眩しかった関係の――本当の意味でのスタートラインだった。カメラロールに、少しずつ、写真が増えていく未来に向かって。