放課後、チューニング不安定な俺たち

「瀬戸って来週の土曜、空いてる?」

 部活の帰り道、駅へ向かう途中で不意に佐野に声をかけられた。
 急すぎる誘いに、俺は目を瞬かせる。

(えっ、土曜!? 休みの日!? それってデート……いやいやいや、落ち着け俺。相手はあの佐野くんだぞ)

「……たぶん、空いてるけど」

「学園祭のパンフ用にさ、協賛してくれる店とかの紹介記事作りたいんだよ。そのための写真も撮ってほしい。俺一人だと回りきれないから、手伝ってほしくて」

「俺で、いいの?」

「本格的なカメラ持ってんの、お前だけだろ」

 それは確かにそうだった。
 俺は「分かった」と小さく頷いた。

「待ち合わせ、柳町の商店街の入り口で。朝の十時に」

 柳町。学校から電車で二駅ほど離れた、古いアーケードの商店街がある地域だ。

「……なんでそんな遠いところで?」

「練習場所の下見も兼ねてる。あのへんの公民館のスタジオ、高校生でも安く貸し出ししてるから」

 なるほど、と思いながらも、俺の胸の中にはどこかフワフワとした、落ち着かない気持ちが残った。

 土曜日の朝。萌生が見たら絶対『気合い入れすぎ』って笑うレベルに念入りに寝癖を直した俺は、指定された場所に向かった。柳町の商店街は、平日はシャッターが目立つ静かな場所だが、土曜の朝になると地元の人でそれなりに賑わっていた。アーケードの下は思ったより人が多く、八百屋の店先や豆腐屋の前に列ができている。

「遅ぇ」

 商店街の入り口の柱に背をもたれていた佐野が、腕を組んで立っていた。

(……っ!)

 濃紺のシンプルなパーカーに、色落ちしたデニム。
 いつも制服か部活のジャージ姿しか見ていなかった俺にとって、その見慣れない私服姿はひどく新鮮で――心臓が、やかましいくらいにトクンと跳ねた。不良っぽいのに清潔感があって、とにかくズルい。

「五分前だよ、俺」

「俺が早かっただけ」

 佐野は薄く笑うと柱から離れ、商店街の奥に向かって歩き始めた。足が長いから歩くのが早い。俺は少しだけ歩幅を広げ、慌ててその後ろ姿を追いかけた。公民館への道を歩きながら、佐野は時々、面白そうな顔をして、両側に立ち並ぶ店を覗き込む。

「あ」

 短い声とともに、彼が急に立ち止まった。

「どうしたの?」

「ここ、まだやってたんだ」

 立ち止まったのは、商店街のメイン通りから路地を少し入ったところにある小さな店の前だった。色褪せたトタンの看板に「駄菓子・おもちゃ」と書かれている。ガラスのショーケースの中に、ひもQ、うまい棒、ベビースターなどが所狭しと並んでいる。店先には、古ぼけた小さなガチャガチャが三台。佐野の表情が、どこか幼い形に崩れている。

「知ってる店?」

「……小学生の頃、よく来てた。中学に上がる頃には潰れたと思ってたから、なんか驚いた」

「地元なの? ここ」

「この辺に住んでた時期があるんだよ」

 佐野がガラガラと音を立てて引き戸を開けた。俺も続いて入る。店の中は外観の通りで、壁際の木製の棚に駄菓子がずらりと並んでいた。甘い砂糖と古い木の匂いが混ざり合っている。奥に小柄なおばあさんが一人座っていて、俺たちが入ってくると「いらっしゃい」とゆっくり顔を上げた。佐野は迷わずショーケースの前に立ち、宝探しでもするように眺め始めた。

「お前、好きなの取っていいよ」

「えっ、いや、大丈夫だよ」

「奢る。好きなの選べって」

「……じゃあ、これ」

 俺はひもQを手に取った。小学生の頃に食べたきりの、懐かしい味がしそうだった。佐野はベビースターとカルメ焼きを選んだ。奥のおばあさんに硬貨を渡して代金を払う姿が、なんとなくぎこちなかった。

「……ここ、小学生の時によく来てたんだ」

「うん。ガチャガチャ目当てで。三百円持ってくると一回回せる計算で、毎週土曜に来てた」

「かわいい」

「は?」

 佐野が鋭く振り返った。俺は慌てて両手を振る。

(やばい、心の声がそのまま口から出た!)

「あ、違う! かわいらしいというか、その、ちゃんと小学生らしいなと思って!」

「……言い直せてないからな、お前」

 佐野くんが呆れたように、短く笑った。それは本当に珍しいもので――俺はここ数週間、彼がこんな風に肩の力を抜いて笑うのを見ていなかった。少なくとも、俺の前では。

 店の隅の、少しガタつく木のベンチに並んで座り、駄菓子を食べる。公民館のスタジオの下見はその後でいい、という暗黙の了解が俺たちの間にあった。

「……駄菓子って、なんで美味いんだろうね」

「安いからだろ」

「それだけ?」

「たぶん、思い出補正もあるんじゃね?」

 佐野がカルメ焼きを一口かじりながら言う。

「俺が来てたのは、ここが特別な場所だったからじゃなくて、学校の帰り道にあったから。でも、久しぶりに来たらやっぱり懐かしい。そういうもんだよ」

「佐野くんって」

「なに」

「意外と、こういう話もするんだね」

「……こういう話?」

「昔のこととか、個人的なこととか。軽音部にいる時は、なんか全部仕切ってて、完璧なリーダーってイメージがあって」

 佐野がひとつ、間を置いた。

「部活では、仕切るのが俺の役割だから。そっちの顔しかないわけじゃないよ」

「そう、だよね」

「お前もそうだろ。記録係としての顔と、それ以外の顔がある」

 俺は手元のひもQを見つめ、少し考えてから答えた。

「……俺、あんまり切り分けてないかもしれない。ただ、好きだから撮ってる、ってだけで」

「好きだから」

 佐野くんがその言葉を、反芻するように繰り返した。何かを確かめるような、静かな声だった。

「……綺麗だと思うから、撮ってる。光の感じとか、動き方とか」

 俺は俯いたまま続けた。
『佐野くんのことが好きだから』という一番大切な言葉は、まだ喉の奥に重く留まったままだった。

佐野は何も言わなかった。商店街のざわめきが、ガラス一枚越しにくぐもって聞こえる。

「……カメラ、ちゃんと持って来てる?」

「うん。一眼は重いから、今日はコンパクトのやつだけど」

 俺は鞄からカメラを取り出した。

「折角だから撮ってもいい? ここの雰囲気、すごく好きで」

「俺は撮らないでいいぞ」

「……分かった」

 俺はカメラを構え、駄菓子の棚を撮った。色褪せた包装紙。値段を書いた手書きのポップ。ガチャガチャのカプセルが三つ、床に転がっているのもファインダーに収めた。

「本当に、俺のこと撮らねぇのな」

 不意に、真横から声がした。

「え? 撮るなって言ったじゃん」

「……許可待ちか」

「そりゃ、嫌かもしれないから」

「別に、嫌じゃない」

 小さな店内に、沈黙が落ちた。

「……じゃあ、撮っても、いい? 学祭りの写真部の展示のネタも探してる所だったし」

「いいよ」

 言い訳がましく告げてから、俺はゆっくりとカメラを彼へ向けた。
 駄菓子屋の、埃が舞うような午前の光の中。木のベンチに座って、少しだけ照れくさそうに遠くを見ている彼の横顔。カシャリ、と小さなシャッター音が鳴る。液晶に映し出されたその写真は――俺がこれまでこっそり撮ってきたどの写真よりも、柔らかくて自然な、等身大の彼の顔だった。

 公民館のスタジオの下見を終え、商店街のアーケードを抜けたところで、佐野がふと足を止める。

「……腹減った。どっかで飯食って帰るか」

「さ、賛成」

「駅前に安くて美味い定食屋あるから。……もちろん割り勘な」

 商店街の外れにある昔ながらの定食屋で、二人で向かい合って唐揚げ定食を食べる。そんなにずっと喋り続けていたわけじゃない。でも、不思議と沈黙が苦しくなかった。佐野はバンドのセトリの話をして、俺は新しく欲しいカメラのレンズの話をした。お互い少しずつ、普通の高校生らしい会話ができたともいえる。これは普通(ルビ)に、戻れたって感じかもしれない。

「……エアドロのこと」

 店を出て、駅へ向かう帰り道。秋の夕暮れが二人の影を長く伸ばす中、俺は意を決して口を開いた。

「ずっと、謝りたかった。あの日から。あの、あの写真は……本当にミスで、AirDropの設定を『すべての人』に変えたまま忘れてて、その」

「分かってるよ」

「でも」

「分かってる、って言ってんだろ」

 佐野が少し先を歩きながら、振り返らずに言った。

「……怒ってなかったのか、怒ってたのか、どっちなの」

「どっちでもない」

「じゃあ、なんで一時期あんなに無視してたんだよ」

 むくれたような俺の声に、佐野がピタリと足を止めた。
 振り返った顔は、夕陽の逆光のせいで影になり、いつものように感情が読みにくい。

「……無視してたつもりはなかったけど」

「俺には、完全に避けられてるように見えた」

「あの写真を見て、どうしていいか分からなかっただけ。怒るのも、笑うのも、なんかどれも違う気がして」

「どうしていいか分からなかった、というのは……」

 彼の歩調が、ほんの少しだけ遅くなる。

「……写真が、きれいだった、って言ったら変かな」

 俺は息を呑み、言葉に詰まった。胸の奥を、見えない手で強く鷲掴みにされたような気がした。

「……別に、変じゃないと、思う」

「俺が、あんな無防備な顔してるとは思ってなかったから」

 佐野が、低い声でポツリと続ける。

「お前のカメラは、なんか……普通に見てると気づかない角度で撮るよな。だから、自分でもどう反応していいか、分からなくなったんだよ」

「……ごめん」

「謝るなよ」

 駅の改札前で、立ち止まる。めちゃくちゃ名残惜しい。乗る路線が違うので、今日はここでお別れだ。

「んじゃ、また月曜……その写真、今日駄菓子屋で撮ったやつ。後でLINEに送っといてくれ」

「全部?」

 思いがけない依頼に、俺が上目遣いで尋ねると、彼は一瞬だけ視線を逸らし、小さく頷いた。

「そうだよ」

 佐野は改札を通りぬけると、一度も振り返らずにホームへの階段を上っていった。
 俺はしばらくの間、その後ろ姿を見つめていた。

(……やった)

 胸の中にじわりと、夕焼けよりもずっと温かいものが広がっていた。