沙知子の転落は、そこから雪崩のように早かった。
社外秘資料の漏洩未遂、そして部下への執拗なパワハラ。それらが公になったことで、彼女は花形の部署から、事実上の追い出し部屋と呼ばれる閑職へと更迭された。
懲戒解雇という派手な処分こそ下さなかったが、社内での沙知子の居場所は完全に消滅した。そして何より、沙知子にトドメを刺したのは、あの「エリートの婚約者」からの婚約破棄だった。
エリートの婚約者としては、社内で「無能なパワハラ女」の烙印を押された沙知子は、もはや人生のパートナーにふさわしくない「不良債権」でしかなかったのだろう。沙知子のSNSアカウントは、ある日を境に跡形もなく削除された。
「はい、これ。今回の『振込用紙』ね。あとで、50万円振り込んでおいて」
すべてが終わった夜。カサネは私の部屋のローテーブルに、シンプルな茶封筒をポンと置いた。私はそれを受け取りながら、少し寂しい気分になる。
「本当に……全部終わったのね」
「うん。沙知子さんは会社も辞めるみたい。実家に逃げ帰るんじゃないかな。まぁ、二度ときらびやかな世界には戻ってこられないよ。……スカッとした?」
カサネは嬉しそうに戦果を報告しながら、無邪気に笑った。
スカッとしたか、と問われれば、確かに胸がすくような思いはあった。10年間、私を縛り付け、私の自尊心を削り続けたあの女が、今や見る影もなく落ちぶれている。
けれど、私の心に広がっていたのは、想像していたような圧倒的な全能感ではなく、どこかひんやりとした、静かな「虚無」だった。
「……ねえ、カサネ。沙知子がいなくなっても、私の失われた10年間が戻ってくるわけじゃないよね」
「当たり前じゃん。時間は等価交換できないもん」
カサネは悪びれもせずに言った。
「私は最初から言ったでしょ? 『トラウマを楽にしてあげる』って。傷をなかったことにするなんて言ってない。でもさ、挨拶を返し終えたんだから、もうあいつの顔色を窺う必要はない。これでやっと、お姉さんの『めでたしめでたし』の幕が下りたんだよ」
「めでたしめでたし、って。なんだか本当におとぎ話みたい。でも、現実は、おとぎ話みたいにうまくいかないね」
その一言に、カサネはふと顔を上げて、私に向かって、真剣そのものの表情で問いかけた。
「ねぇ、ちょっと質問してもいい? おとぎ話のそのあとのことって想像したことある? 私さ、ずっと気になってるんだ。『白雪姫』や『シンデレラ』の話のあとが気になってる。お姫様たちは、本当に幸福になれたと思う? 夜、トラウマがうずいたりしなかったのかな?」
不思議なことを尋ねられて、私は目をしばたたかせてしまった。
シンデレラや白雪姫の話は、私だって知っている。でも、彼女たちが「めでたしめでたし」のあとにどうしているのかなんて、考えたこともなかった。でも、確かに。意地悪な継母や魔女を駆逐したあとも、彼女たちの心の傷は夜な夜な疼いたかもしれない。
「そんなこと、考えたことなかった。でも、そうだよね。きっと、めでたしめでたしのあとが大変だろうね」
私が答えると、カサネは少し寂しそうに笑った。その笑顔が、私は少し気になった。しかし、カサネは大きく伸びをすると、すぐにいつもの調子に話題を変えた。
「まぁ、あれだよ。お姉さんも大変だよ。きっとこれからも、トラウマみたいなのはついて回ると思う。どうやったって、過去の傷は消えないもん」
「わかってるよ。きっと私は、これからも相変わらず自己卑下をしてしまうと思う」
意地悪な現実を突きつけてきたカサネに少しムッとしながら、私は返事をする。しかし、私は、カサネとの交流を通じて、少し前向きになれていた。職場でも少しずつ自己主張ができるようになっている。
カサネは、私の返事を聞いて、愛おしそうに微笑んだ。
「そうなんだよ。過去の傷って絶対に消えない。一生、ついてくると思う。でもね、これからいろんな楽しいことをしてたら……素敵な日々を重ねていってたらさ、その傷も見えにくくはなると思うんだ。快楽は裏切らないし、揺らがないから。楽しいを重ねていったら、きっと傷は見えにくくなるよ」
彼女はそんなことを言うと、「あ、タクシーが来た」と言って、慌ただしく部屋から出て行ってしまった。
(本当に、すべてが終わったんだな)
私は軽くため息をついてから、カサネが残していった茶封筒を開いた。50万円の請求書が入っているはずだから、すぐに支払ってしまおうと思ったのだ。しかし、中を開けて、私は「えっ……なにこれ」と声を漏らしてしまった。
中から出てきたのは、振込用紙ではなかった。
『自然派パン工房 小麦の祝祭』と書かれた、とある小さなパン屋さんの可愛らしいチラシだったのだ。
・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・
(……ここ、だよね?)
私は、翌週の休みに、カサネが残していった住所のパン屋さんを訪ねてみた。
こぢんまりとしたお洒落な店内に入ると、優しく甘い小麦の匂いがふわっと押し寄せてくる。
どこかにカサネがいるのではないかとキョロキョロと見渡してみるが、彼女の姿はどこにも見当たらない。
とりあえず、目についた美味しそうなパンを3つほどトレーに取って、レジへと向かった。すると、レジにいた店主らしいエプロン姿の女性が、ハッとしたような表情で私を見つめた。
「あの……? 間違えてたらごめんなさい。もしかして、緑川さんじゃないですか? ――あの、私、高校の同級生で同じクラスだった、浅川なんだけど……。覚えて、ないかな?」
その瞬間、私の脳裏に鮮烈な記憶が蘇った。
浅川さん。高校二年生のとき同じクラスで、いつも教室の隅で楽しそうにアニメの話をしていたグループの女の子だ。
驚きのあまり何も言えずにいる私に、彼女は少し照れたように笑った。
「私、高校時代からパン屋さんになるのが夢で……。アニメの主人公の影響なんだけどね。専門学校に入って、パン屋さんで修行して……コロナとかもあって本当に大変だったけど、今年、やっとこのお店をオープンできたんだ」
少し誇らしそうに、けれど真っ直ぐに語る彼女を前にして、私はカサネの言葉を思い返していた。
『「おはよう」と言われたら「おはよう」と返すの。同じように返すのが、ごく自然な対人コミュニケーションのルールなんだよ』
挨拶は、返さなきゃいけない。
そうだ。私は高校生のとき、彼女たちの輪に交ざりたかった。それに、ずっと言い忘れていた言葉があったのだ。
沙知子の顔色ばかりを窺って、本当に紡ぐべきだった言葉を、私は10年間ずっと無視し続けていた。
私は、新しい世界へ踏み出すように、浅川さんに向かってゆっくりと、けれど今度ははっきりと、言葉を紡いだ。
「ねえ、あのね……浅川さんが高校のときお勧めしてくれたあのアニメ、私、すごく感動して好きになったんだ。それに……ずっとずっと浅川さんたちに謝りたかったことがあって……」
窓から差し込むうららかな木漏れ日の中で、浅川さんは驚いたように目を丸くしたあと、高校時代のときのような笑顔を咲かせた。私の「めでたしめでたし」のそのあとの物語が、今、静かに始まりを告げた。
〈了〉
社外秘資料の漏洩未遂、そして部下への執拗なパワハラ。それらが公になったことで、彼女は花形の部署から、事実上の追い出し部屋と呼ばれる閑職へと更迭された。
懲戒解雇という派手な処分こそ下さなかったが、社内での沙知子の居場所は完全に消滅した。そして何より、沙知子にトドメを刺したのは、あの「エリートの婚約者」からの婚約破棄だった。
エリートの婚約者としては、社内で「無能なパワハラ女」の烙印を押された沙知子は、もはや人生のパートナーにふさわしくない「不良債権」でしかなかったのだろう。沙知子のSNSアカウントは、ある日を境に跡形もなく削除された。
「はい、これ。今回の『振込用紙』ね。あとで、50万円振り込んでおいて」
すべてが終わった夜。カサネは私の部屋のローテーブルに、シンプルな茶封筒をポンと置いた。私はそれを受け取りながら、少し寂しい気分になる。
「本当に……全部終わったのね」
「うん。沙知子さんは会社も辞めるみたい。実家に逃げ帰るんじゃないかな。まぁ、二度ときらびやかな世界には戻ってこられないよ。……スカッとした?」
カサネは嬉しそうに戦果を報告しながら、無邪気に笑った。
スカッとしたか、と問われれば、確かに胸がすくような思いはあった。10年間、私を縛り付け、私の自尊心を削り続けたあの女が、今や見る影もなく落ちぶれている。
けれど、私の心に広がっていたのは、想像していたような圧倒的な全能感ではなく、どこかひんやりとした、静かな「虚無」だった。
「……ねえ、カサネ。沙知子がいなくなっても、私の失われた10年間が戻ってくるわけじゃないよね」
「当たり前じゃん。時間は等価交換できないもん」
カサネは悪びれもせずに言った。
「私は最初から言ったでしょ? 『トラウマを楽にしてあげる』って。傷をなかったことにするなんて言ってない。でもさ、挨拶を返し終えたんだから、もうあいつの顔色を窺う必要はない。これでやっと、お姉さんの『めでたしめでたし』の幕が下りたんだよ」
「めでたしめでたし、って。なんだか本当におとぎ話みたい。でも、現実は、おとぎ話みたいにうまくいかないね」
その一言に、カサネはふと顔を上げて、私に向かって、真剣そのものの表情で問いかけた。
「ねぇ、ちょっと質問してもいい? おとぎ話のそのあとのことって想像したことある? 私さ、ずっと気になってるんだ。『白雪姫』や『シンデレラ』の話のあとが気になってる。お姫様たちは、本当に幸福になれたと思う? 夜、トラウマがうずいたりしなかったのかな?」
不思議なことを尋ねられて、私は目をしばたたかせてしまった。
シンデレラや白雪姫の話は、私だって知っている。でも、彼女たちが「めでたしめでたし」のあとにどうしているのかなんて、考えたこともなかった。でも、確かに。意地悪な継母や魔女を駆逐したあとも、彼女たちの心の傷は夜な夜な疼いたかもしれない。
「そんなこと、考えたことなかった。でも、そうだよね。きっと、めでたしめでたしのあとが大変だろうね」
私が答えると、カサネは少し寂しそうに笑った。その笑顔が、私は少し気になった。しかし、カサネは大きく伸びをすると、すぐにいつもの調子に話題を変えた。
「まぁ、あれだよ。お姉さんも大変だよ。きっとこれからも、トラウマみたいなのはついて回ると思う。どうやったって、過去の傷は消えないもん」
「わかってるよ。きっと私は、これからも相変わらず自己卑下をしてしまうと思う」
意地悪な現実を突きつけてきたカサネに少しムッとしながら、私は返事をする。しかし、私は、カサネとの交流を通じて、少し前向きになれていた。職場でも少しずつ自己主張ができるようになっている。
カサネは、私の返事を聞いて、愛おしそうに微笑んだ。
「そうなんだよ。過去の傷って絶対に消えない。一生、ついてくると思う。でもね、これからいろんな楽しいことをしてたら……素敵な日々を重ねていってたらさ、その傷も見えにくくはなると思うんだ。快楽は裏切らないし、揺らがないから。楽しいを重ねていったら、きっと傷は見えにくくなるよ」
彼女はそんなことを言うと、「あ、タクシーが来た」と言って、慌ただしく部屋から出て行ってしまった。
(本当に、すべてが終わったんだな)
私は軽くため息をついてから、カサネが残していった茶封筒を開いた。50万円の請求書が入っているはずだから、すぐに支払ってしまおうと思ったのだ。しかし、中を開けて、私は「えっ……なにこれ」と声を漏らしてしまった。
中から出てきたのは、振込用紙ではなかった。
『自然派パン工房 小麦の祝祭』と書かれた、とある小さなパン屋さんの可愛らしいチラシだったのだ。
・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・
(……ここ、だよね?)
私は、翌週の休みに、カサネが残していった住所のパン屋さんを訪ねてみた。
こぢんまりとしたお洒落な店内に入ると、優しく甘い小麦の匂いがふわっと押し寄せてくる。
どこかにカサネがいるのではないかとキョロキョロと見渡してみるが、彼女の姿はどこにも見当たらない。
とりあえず、目についた美味しそうなパンを3つほどトレーに取って、レジへと向かった。すると、レジにいた店主らしいエプロン姿の女性が、ハッとしたような表情で私を見つめた。
「あの……? 間違えてたらごめんなさい。もしかして、緑川さんじゃないですか? ――あの、私、高校の同級生で同じクラスだった、浅川なんだけど……。覚えて、ないかな?」
その瞬間、私の脳裏に鮮烈な記憶が蘇った。
浅川さん。高校二年生のとき同じクラスで、いつも教室の隅で楽しそうにアニメの話をしていたグループの女の子だ。
驚きのあまり何も言えずにいる私に、彼女は少し照れたように笑った。
「私、高校時代からパン屋さんになるのが夢で……。アニメの主人公の影響なんだけどね。専門学校に入って、パン屋さんで修行して……コロナとかもあって本当に大変だったけど、今年、やっとこのお店をオープンできたんだ」
少し誇らしそうに、けれど真っ直ぐに語る彼女を前にして、私はカサネの言葉を思い返していた。
『「おはよう」と言われたら「おはよう」と返すの。同じように返すのが、ごく自然な対人コミュニケーションのルールなんだよ』
挨拶は、返さなきゃいけない。
そうだ。私は高校生のとき、彼女たちの輪に交ざりたかった。それに、ずっと言い忘れていた言葉があったのだ。
沙知子の顔色ばかりを窺って、本当に紡ぐべきだった言葉を、私は10年間ずっと無視し続けていた。
私は、新しい世界へ踏み出すように、浅川さんに向かってゆっくりと、けれど今度ははっきりと、言葉を紡いだ。
「ねえ、あのね……浅川さんが高校のときお勧めしてくれたあのアニメ、私、すごく感動して好きになったんだ。それに……ずっとずっと浅川さんたちに謝りたかったことがあって……」
窓から差し込むうららかな木漏れ日の中で、浅川さんは驚いたように目を丸くしたあと、高校時代のときのような笑顔を咲かせた。私の「めでたしめでたし」のそのあとの物語が、今、静かに始まりを告げた。
〈了〉



