「――なるほどね。搾取型、かつ『自分が悪者にならないように周囲をコントロールする』タイプの悪人に出会ったわけね。それで、そのクズは出世をしてるのか!」
私がすべての記憶を吐き出し終えたとき、カサネはまるで面白い映画でも見終わったときのように、満足げに頷きながら、パチパチと小さく手を叩いた。
「そういう中身のないキラキラしたエリートを叩き潰すのって、最高に楽しいよね。高級なガラスのコップをアスファルトに向かって叩き割るみたいな……そんな圧倒的な気持ちよさがありそう」
カサネは私が出した安物のガラスコップを目の高さまで掲げながら、そんな物騒なことを言った。
一方で私はといえば、胸の奥で10年間澱んでいた、ドロドロとした暗い感情をすべて語り終えたことで、不思議なほど心が軽くなっているのを感じていた。
「でも……ね。正直、いつまでも過去のことに執着して引きずっているのは、よくないとも思ってる。「自分が幸福になることが相手への最高の復讐。やり返すのはよくない」ってよく言うでしょ? 過去のことは忘れて……復讐なんて物騒なことはせずに、前を向いて楽しく生きていくのが、本当は一番いいのかもしれないよね?」
弱気な、生ぬるい言葉だと叱られるかと思った。しかし、カサネは私の言葉をあっさりと肯定してみせた。
「確かにその通り! お姉さんがこれからの人生で幸福になって、楽しく笑えるようになるのが一番大事ではあるよね」
カサネは軽く小首を傾げて微笑む。しかし、その瞳の奥にある冷徹な光は消えていなかった。
「でもさ、お姉さんが『幸福になること』と『復讐を決行すること』って、別に両立しないわけじゃないじゃない? 復讐をきっちり終わらせてから、その後に幸福になったら何も問題ないんだよ」
カサネはふふと低く笑ってから、しなやかな動作で立ち上がった。それから、何を思ったのか、部屋の窓を大きく開け放った。静まり返った夜の住宅街の空気が流れ込んでくる。
「ねえ、誰かに『おはよう』と言われたら『おはよう』と返事するでしょ? もしも『今日は寒いね』と言われたら『ほんとに寒いね』と返すでしょ? 相手が投げてきたのと同じように打ち返すのが、人間社会のごく自然な対人コミュニケーションのルールなんだよ」
カサネは私を手招きして、窓の近くに立たせた。困惑する私を、彼女はまっすぐに見つめる。
「わかる? 『おはよう』には『おはよう』。等価交換がコミュニケーションのルール。難しく考える必要なんてどこにもないよ。復讐だって、それとまったく同じ。右の頬を殴られたなら、右の頬を正確に殴り返したらいいんだよ。挨拶と同じだよ!等価交換だ」
「挨拶と、同じ……」
挨拶と同じレベルの、ごく自然な、当たり前のコミュニケーション。やられたことを、ただそのまま相手に返すだけ。そのカサネの言葉は、私の心に頑固にまとわりついていた迷いや罪悪感を、じわじわと、しかし確実に融かして消し去っていった。
「そう。あなたはひどいことをされたの。だからね、挨拶を返すみたいに、思いっきり楽しく、残酷に、沙知子とかいう女に地獄を見せてやろう。ただの等価交換。コミュニケーションの基礎だよ」
さらさらとした心地よい夜風が、窓から部屋の中へと滑り込んでくる。カサネからは、どこか清潔感のある、お風呂上がりのような石鹸の甘い匂いが漂ってきた。
「でも……できるの? 私、卒業してからの10年間、沙知子とはまったく関係を持ってこなかったから……彼女の今の弱点も、何がどこにあるのかも、何も知らない」
気がつけば、私の口からは縋るような、懇願するような声が出ていた。カサネは私のその反応を聞いて、この夜で一番、満足そうな美しい微笑みを浮かべた。
「どうにかできるかって? 私のことを馬鹿にしないで」
カサネは言い切ると、窓から離れた。
そして、バッグから薄型のノートパソコンを取り出すと、慣れた手つきでローテーブルの上に開き、カタカタと小気味よい音を立てて何かを入力し始めた。
「――林沙知子、27歳。進脩館大学を卒業したあと、大手広告代理店に勤務。婚約者は同い年で、外資系コンサルティングファーム勤務。同じく進脩館の卒業生だから、大学時代に出会ったんだろうね。二人合わせて年収2000万近いパワーカップル。来年の春にみなとみらいの最高級ホテルで挙式予定だけど、今は他の式場とも悩んでいる、と……ふん、調べればいくらでも出てくる」
あっけらかんと個人情報を並べ立てるカサネの言葉に、私は息を呑んだ。
「この手の承認欲求の化け物は、アカウントに鍵もかけずに自分の人生を全部ネットに切り売りしてるからね。セキュリティ意識がガバガバで、本当に助かっちゃう」
提示された画面には、沙知子が投稿したであろう、きらびやかな日常の写真の数々が並んでいた。お洒落なレストランのディナー、高級ブランドのバッグ、婚約者と並んで幸せそうに微笑む姿。
「なんというか……本当に、うまくやっているんですね。こういうのを見ていると、自分が惨めすぎて、どうしたらいいのか分からなくなります」
「そりゃそうだよ、胸糞悪くなる話だよね。でも、安心して。全部奪ってやるから。あなたが壊されたように、こいつのことも綺麗に壊してあげる」
カサネはにっこりと邪気のない笑みを浮かべると、猫のように小さく伸びをした。
「さて! 復讐するって決めたんだから、さっそく行動に移すとしよう! まずは、地味なお仕置きをしながら、こいつの弱みを探っていくとするか」
「弱みを……握る?」
「あ、気になる? まずはね、こいつから平穏な日常を奪って、心の内側から揺さぶって動揺させてみようと思うんだよね。そしたら、ボロがでるから」
カサネはそう言うと、パソコンの画面をいじって、新聞の切り抜きらしき画像をいくつも見せてきた。
それは、どれも目を背けたくなるような不穏な事件のニュースばかりだった。
『闇バイトの少年、独居老人宅を襲撃し殺人』『××町で放火多発』『20代女性、帰宅途中に男に刺される』『人気地下アイドル、ファンの男に硫酸をかけられる』――。ギョッとするようなおぞましい見出しが並んでいる。
「こういう事件のやり方を、参考にするってこと……?」
「違う、違う。そんな直接的なこと、タイパが悪いじゃない。こういう不吉で不穏なニュースの切り抜きをね、こういうクリア素材の透明な封筒に入れて、沙知子さんのお家に毎日毎日届くように郵送してあげるわけ」
彼女は悪戯っぽく瞳を輝かせながら、通販のDMやカタログを封入するのに使う、中身が丸見えのクリア封筒をひらひらと私の前で見せびらかした。
「ポストを開けたらさ、凄惨な事件の見出しがダイレクトに目に飛び込んでくるの。それが毎日、毎日、自分の自宅に届くようになったら、彼女はどう思うだろうね? 『誰かが私に何かをしようとしている?』『次は私がこういう被害に遭うってこと?』って、宣戦布告されたと思うはずだよ」
楽しそうに説明するカサネの言葉を聞いて、私は背筋にぞわっと冷たいものが走るのを感じた。確かに嫌だ。想像しただけでノイローゼになりそうな精神的恐怖だ。カサネは私の怯える反応を見て、ますます嬉しそうに声を弾ませる。
「そしてね、このお仕置きの最高に良いところは、警察に通報すべきか本人がめちゃくちゃ悩むところなんだよね。だってただのお手紙だもん。『新聞の切り抜きを郵送しちゃいけません』なんて法律はどこにもないからね」
「で、でも、ほら……ストーカー規制法とかで訴えられたりしないんですか?」
「まぁ、仮に本人がパニックになって警察に駆け込んだとしても、警察だって対応に困るよ。『実害がないから事件にはできません。ひとまず周辺の巡回を強化します』としか言えない。沙知子さんは、これから毎日、家の外でするちょっとした物音や、他人の視線にビクビクしながら過ごす羽目になるだろうね」
カサネは机の上で両手の指を組み、そこにあごを乗せて、うっとりと楽しげな妄想に耽るように目を細めた。それから、私の顔をまっすぐに見つめて、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「とりあえず、私はこういう感じで切り抜きの郵送作業をこつこつ進めるからさ。お姉さんはお茶菓子を準備しておいて。破滅していく姿を特等席で楽しみながら、美味しいデザートを食べるの。最高に楽しいよ」
カサネは楽しそうに肩を揺らしたあと、すっと軽やかな動作で立ち上がった。
「じゃあ、来週また来るから。それまでにしっかり高級な紅茶の葉とお洒落な茶器一式も準備しておいてよね」
カサネはそう言いながら、手元のスマホを操作している。覗き見えた画面には、いつのまにか彼女は、配車アプリでタクシーを手配していたらしい。「到着まであと1分」と表示されていた。
・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・
「みて。なかなかいい調子だよ。沙知子ちゃん、すっかりおどおどするようになってるから」
翌週の水曜日。予告通りに私の部屋へやってきたカサネは楽しそうにノートパソコンの画面を見せた。画面に映し出された写真を見て、私は息を呑んだ。
そこには、あの沙知子が、怯えたような、酷く焦燥した表情で自宅マンションの郵便ポストを覗き込んでいる姿が写っていた。
「最初の数日は『不審なゴミが入ってる』って顔をしてたんだけどね。毎日毎日、ポストを開けるたびに凄惨な事件の見出しがダイレクトに目に飛び込んでくるもんだから、すっかりノイローゼ気味。昨日には、とうとう警察に相談したみたいだよ。でも、警察も対応に困って、一通り助言だけして帰っていっちゃった」
「きっと……相当、不安になっているでしょうね」
「本当にねえ。痛ましい限りだよ、同情しちゃう」
全く心のこもっていない平坦な調子で、カサネは淡々と言ってのけた。そして「さて」と小さく手を叩く。
「一週間になるし、この『不穏な切り抜き作戦』はこれで終了。そろそろあいつもこの恐怖に慣れて『またこれか』ってなっちゃうだろうから、次のフェーズに移ります」
「……あの、割と、私はこれで十分に満足できたんだけどな」
画面の中の沙知子は明らかに衰弱していた。イライラとした様子で警察官に詰め寄っている姿を見て、私の胸の奥の澱みは確かに軽くなっていた。これ以上の深追いは必要ないのではないか、そう思った。しかし、カサネはそんな私の甘さを許さなかった。
「んー。お姉さんがそれでいいなら、それでもいいかなって一瞬思ったんだけどさ。やっぱりダメなんだよね。ちょっとこれを見てよ」
カサネが画面をスクロールし、新しいページを開いた。そこにあった文字列を見て、私は言葉を失った。それは、とあるSNSの裏アカウントの画面だった。そこには、すさまじい量の怨嗟と痛切な叫びが書き殴られていた。
『また仕事を奪われた。あの企画書を書いたのはあいつじゃないのに』
『いいとこ取り。なんであんな女が会社で評価されてるわけ?』
『見た目だけ。男に媚びてキモい。それに騙される上の奴らもどうかしてる』
『仕事やめたい。でも、あいつにだけは絶対に負けたくない』
上司に嫌がらせを受け、手柄を横取りされ、精神的に追い詰められている女子社員の悲痛な独白。文章だけではどこの誰かも分からない。私が困惑して見つめていると、カサネはゆっくりと私に顔を近づけ、囁いた。
「この子ね、沙知子さんの部下なんだよね」
「部下……!?」
ギョッとして画面を見直す。
「私さ、沙知子さんの弱みを握ってやろうと思って、ここ一週間彼女のことを『観察』してたわけ。沙知子さんは毎日、同僚とお洒落な店でランチしてるんだけどさ、その部下の女の子だけ、明らかにひどい目に遭わされてたんだよね。行列のできる人気店に彼女だけを並ばせて席取りをさせられてたり、会話をしてても常にトゲトゲした言葉でマウントを取ってたり……」
「それって……高校時代の私が、されてたこととそっくり……」
背筋に冷たい戦慄が走った。高校時代の私は「卒業」という明確な終わりがあった。けれど、会社組織という檻の中で部下になってしまった彼女には、逃げ場のない、終わりのない地獄が続いている。
「そうだよ。だからこの部下の女の子にも注目してたの。彼女、定時で上がれることなんてほとんどなくて、毎日ボロボロ。それで終電ギリギリの電車の中でね、こうやって裏アカに呪詛を吐き出すことで、かろうじて心の均衡を保ってるわけ。日本人ってさ、周囲の他人のことをただの『風景』として見がちでしょ? だから電車の隣の席に座って、彼女がスマホに打ち込んでるこのアカウントの画面を覗き見るの、すっごく簡単だった」
カサネはそこで、フッと声を落とした。大きな瞳が、私の目をまっすぐに射抜く。
「ねえ、お姉さん、わかる? あなたとの生活を通して、沙知子は“人を踏み台にして要領よく搾取する”っていう歪んだ成功体験を完璧に手に入れちゃったの。だから、今もこうして他人の未来を悪びれもせず貪ってるし、あなたがここで生ぬるい同情をして見逃したら、こいつは未来でもずーっと誰かを搾取し続けるよ?」
くすっとカサネは私をバカにするように笑った。
「あなたが生み落としたバケモノなんだから。あなたが止めてあげなきゃ。復讐をやめるなんて、そんな無責任なこと言っちゃダメだよ。それに、面白くなるのはここからだよ?」
「私が生み落とした……」
カサネのひと言を私はボツリと繰り返す。もしも、私が高校時代に「いじめだ」「間違っている」と言えていたら、この部下という人も苦しまなかったのだろうか。
「それでね、このバケモノ、本当に仕事ができないみたい。高校時代から何も変わってない。ハッタリと他人の手柄の横取りだけで、ここまでのし上がってきたみたいだよ」
カサネは呆れたように軽くため息をつきながら、パソコンの画面を操作して別のページを開いた。
そこには、赤字で【××ホールディングス 厳秘・共有資料】と書かれた、明らかに外部に漏れてはならない重要そうな社内データが表示されていた。
「これって……沙知子の会社の?」
「そうなんだよ、びっくりするでしょ? このバケモノさ、見た目重視の形から入るタイプだから。朝っぱらから、MacBookを片手にお洒落なカフェで仕事をしてるんだよねー。『私はデキるキャリアウーマンです』『朝活なんかもやっちゃうエリートです』みたいな顔をしてさ。で、やってることといったら、WEBニュースのブラウジングなんだから笑っちゃうよ」
カサネは私がいれた紅茶を一口すすると、「もっと美味しく淹れる練習をしなよ」と傲慢に難癖をつけた。そして、はぁと、わざとらしくため息をついてから説明を続ける。
「でね、バケモノは社会人としての自覚がゼロだから、カフェの暗号化もされていないフリーWi-Fiに平気でパソコンを繋いじゃってるの。同じWi-Fi空間を共有してたらね、ちょーっとツールを操作するだけで、相手のパソコンにアクセスできるんだから。おかげで、あいつが意味ない朝活をやってる隙に、彼女のアカウントのパスワードも一瞬で抜けちゃって、クラウドを覗いてこういう面白そうな資料も一式いただけたわけ」
「じゃあ……この機密資料を流出させて、沙知子を破滅させるの?」
「そうだね。沙知子のSNSにログインして、大事な大事な書類を世界に向けてアップしてやろうか。それで、楽しい楽しい“株主代表訴訟”でも起こしちゃう? 場合によっては、社長や役員たちの首もまとめて飛ばせちゃうしね」
カサネは自分の細い首を手で軽く叩くジェスチャーをしてみせた。そして、首を傾げるようにしながら、邪気なく笑う。
「でも、そういうことはしない。残念だけど、そういう復讐はできない」
「どうして? 沙知子に最大のダメージを食らわせることができるんでしょ?」
軽く肩を落として、あっさりと機密資料のページを閉じたカサネに、私は思わず尋ねた。もちろん、私とて会社を巻き込むような大騒動を望んでいたわけではないけれど、彼女の意図が知りたかった。
「そりゃあね。会社の機密情報を意図的に漏洩させるなんて最悪だからね。沙知子は責任を問われて一発で懲戒解雇。ついでに、天文学的な額の損害賠償を一生背負うことになるかもね」
「なら、どうして……?」
「わかってないな。そういう大掛かりな復讐は、沙知子だけじゃなくて、彼女の周りにいる同僚や上司、関係ない会社の人たちまで何百人も巻き込んで不幸にしちゃうでしょ? そういうことは、やっちゃダメなんだよ」
カサネの口から、驚くほど真っ当で、道徳的な言葉が飛び出してきた。私は目を見開き、同時に自分自身が酷く恥ずかしくなった。
「……そうだよね。私、間違ってた。そんなの、やりすぎだよね」
ぽつりと私が反省の色をこぼすと、カサネは心底不可解そうな表情を浮かべ、驚いたように私を見つめた。
「は? お姉さん、なんか勘違いしてない? びっくりなんだけど。違うよ。私、他の人たちの迷惑なんてこれっぽっちも心配してないよ?」
「え……?」
「会社全体を巻き込んで大ごとにしちゃうとさ、相手の会社の『法務部』を相手にしなきゃいけなくなるでしょ? 私は徹底したタイパ主義だから。あいつらみたいな堅物と遊ぶのなんてだるすぎるし、時間がもったいないじゃん」
カサネは付け加えてほほ笑んだ。この子にとっては、他人の不幸なんてどうでもいいのだろう。共感能力が著しく欠けていて、とにかく楽しいことだけをしたいのだろう。
「でも、この資料を一切使わないのはもったいないからね。ちょっとした『嫌がらせ』には使わせてもらうよ」
「嫌がらせ……?」
私が不思議に思って問いかけたその時、カサネのスマホが微かに震えた。彼女は気怠そうに画面へ目を落としたが、次の瞬間、まるで極上の玩具を見つけた子どものように嬉しそうに微笑んだ。
「きたきた! 渚ちゃんからのメールだ」
「渚ちゃん?」
「うん。沙知子さんにいじめられてる部下の女の子だよ」
「え、その子といつの間に親しくなったの……!?」
あまりの行動力の早さに私は愕然とする。しかし、カサネは馬鹿にしたように首を横に振った。
「違う、違う。親しくなんてなってないよ。さっき言ったじゃん、沙知子のクラウドのパスワードを抜いたって。ついでに彼女の会社のメールアカウントにも自動でログインできるようにしておいたの。これはね、渚ちゃんから沙知子宛てに今送られてきたメール」
「っていうことは、仕事のメール? もう夜の12時を過ぎてるのに!?」
私は思わず、壁の時計を振り返った。こんな深夜まで、業務メールのやり取りを強制されているなんて。
「可哀想だよねえ。明後日、沙知子が社内会議で大きなプレゼンをするんだけどさ、そのスライド作りを全部この子に丸投げをしちゃってるわけ」
カサネは解説しながら、メールに添付されていたパワーポイントのデータを手際よく開いた。画面に映し出されたスライドの山を見て、私は思わず感嘆のため息を漏らしてしまった。
「すごい……。この人、本当に仕事ができる人なんだ。スライドがすごく分かりやすい」
「真面目にコツコツと努力してきた子なんだろうね。沙知子なんかと違って、ズルをせずに実力で大学に入学して、実力で一流企業に入ったような本物のエリートなんだよ。……早く解放してあげたいね」
カサネは芝居がかったため息をつきながら、「この辺でいいかな」と呟き、スライドの15ページ目に新しい白紙のシートを挿入した。そして、その真っ白なページに、先ほど「ボツ」にしたはずの厳秘の社外秘資料から、一部のデータをそのままコピー&ペーストしたのだ。ご丁寧に、『最重要!』という赤文字のメモ書きまで添えて。
「このくらいの規模の情報流出なら、会社全体が傾くこともないし法務部も出てこない。明後日の朝、沙知子がカフェでパソコンを開いた瞬間にでも、リモートアクセスでこのすり替えたパワポのデータに上書きしとくよ。真面目な社会人なら本番前にデータの異変に気がつくだろうけど……他人の手柄をノーチェックで右から左へ流すだけのバケモノは、果たして気がつくかな?」
カサネは意地悪そうにクスクスと笑った。その顔を見ていたら、私の胸の奥から不思議な感情がこみあげてきた。
「そっか……。こういう風に、していればよかったんだ」
ぽつりと、私の口から言葉が漏れ出た。
「高校の時も、あのグループ発表、直前になって全部めちゃくちゃにした原稿とスライドだけ手渡して、私は学校を休んじゃえばよかったんだ。そしたら発表はグチャグチャになって、沙知子は推薦なんて絶対にもらえなかった。……それに、もしそうなっていたら、周りのみんなも気がついてくれたかもしれないよね? あいつらが教室で焦っているのを見て、先生だって、クラスの同級生だって……私がどれだけ追い詰められていたか、私の状態に、気がついてくれたかもしれないのに……」
気がつくと、視界が急激に滲んでぼやけていた。
10年前の、あの行き場のない口惜しさとやるせなさ。自分の存在すべてが否定され、搾取されていくのに、誰の目にも止まらなかったあの日々が、生々しい痛みとなって胸を突き上げてきた。
どうして誰も気がついてくれないのか。どうして先生はあんなに簡単に騙されるのか。嫌で嫌でたまらないのに、どうして自分は笑顔で宿題を差し出すことしかできないのか――。
膝の上の拳を震わせ、涙をこぼす私に、カサネは冷徹な声でいった。
「だからさ、今、私が気がついてあげたじゃん」
私は、思わず顔を上げる。真剣そうなカサネと目が合う。
「沙知子は、これからきっちりグチャグチャになるから。このスライドが失敗しても、別の方法でザマァするから。ちょっとタイミングは遅くなっちゃったかもしれないけど、ちゃんと10年前のあなたを、今、私が助けてあげる。私が快楽をむさぼるついでにさ!……だから泣くなよ。うっとうしい。うじうじしてるの、嫌いなんだ。不快すぎる」
ぶっきらぼうで荒々しい口調だった。けれど、そのカサネの言葉は、私の凍りついた10年間を優しく癒していくのが分かった。
そうか。私は沙知子にただ不幸になってほしかっただけじゃない。
あの孤独な地獄の中で、「誰かに気づいてほしかった」のだ。「世界は捨てたもんじゃない」ということを教えて欲しかったのだ。
・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・
それから数日後。例の社内会議があった日の夜、私のスマホに、見知らぬ捨てアカウントから一件のDMが届いた。
『渚ちゃんのアカウント、動いたよ。見てみなよ』
カサネからの、短い作戦完了の報告だった。
私はベッドの中でスマホを操作し、教えてもらった渚の裏アカウントをチェックした。
画面を開いた瞬間、そこには、これまでの鬱屈とした日々をすべて吹き飛ばすような、狂喜乱舞の声が、タイムラインを埋め尽くしていた。
『やった!! ほんとバカすぎる』
『あのバカ、社外秘の資料を会議で大発表!!』
『焦った顔、おもしろすぎ。私をにらんできた顔ったらなかった』
『バーカ!バーカバーカ』
『何をどうミスったら、あんなことになるのか、ぜひともお教えいただきたいww』
『はじめてです! あなたから教えてもらいたいことができました!!』
『違います、私じゃなくてこの子が作ったんですww』
『すかさず私は「きちんとしたのを送った」という証拠メールを開示』
『私のパワポは問題なし』
『バカなあいつは「部下に自分の仕事を押し付けたのか!?」と説教食らうww』
『深夜まで働かせてますけどww』
画面をスクロールする指が震える。
カサネの計画は、完璧に成功したのだ。
沙知子は、カサネが仕込んだ罠をそのまま役員たちの前で発表し、自分のハッタリと無能さ、そして部下へのパワハラと業務押し付けの事実を、自らの手で晒してしまったのだ。
私は、渚さんのアカウントを見ていて、「よかったね」とつぶやいてほほ笑んでしまった。そこには『神様ってほんとにいるのかもしれない』『まじめにやっててよかった』と書かれていたから。
私がすべての記憶を吐き出し終えたとき、カサネはまるで面白い映画でも見終わったときのように、満足げに頷きながら、パチパチと小さく手を叩いた。
「そういう中身のないキラキラしたエリートを叩き潰すのって、最高に楽しいよね。高級なガラスのコップをアスファルトに向かって叩き割るみたいな……そんな圧倒的な気持ちよさがありそう」
カサネは私が出した安物のガラスコップを目の高さまで掲げながら、そんな物騒なことを言った。
一方で私はといえば、胸の奥で10年間澱んでいた、ドロドロとした暗い感情をすべて語り終えたことで、不思議なほど心が軽くなっているのを感じていた。
「でも……ね。正直、いつまでも過去のことに執着して引きずっているのは、よくないとも思ってる。「自分が幸福になることが相手への最高の復讐。やり返すのはよくない」ってよく言うでしょ? 過去のことは忘れて……復讐なんて物騒なことはせずに、前を向いて楽しく生きていくのが、本当は一番いいのかもしれないよね?」
弱気な、生ぬるい言葉だと叱られるかと思った。しかし、カサネは私の言葉をあっさりと肯定してみせた。
「確かにその通り! お姉さんがこれからの人生で幸福になって、楽しく笑えるようになるのが一番大事ではあるよね」
カサネは軽く小首を傾げて微笑む。しかし、その瞳の奥にある冷徹な光は消えていなかった。
「でもさ、お姉さんが『幸福になること』と『復讐を決行すること』って、別に両立しないわけじゃないじゃない? 復讐をきっちり終わらせてから、その後に幸福になったら何も問題ないんだよ」
カサネはふふと低く笑ってから、しなやかな動作で立ち上がった。それから、何を思ったのか、部屋の窓を大きく開け放った。静まり返った夜の住宅街の空気が流れ込んでくる。
「ねえ、誰かに『おはよう』と言われたら『おはよう』と返事するでしょ? もしも『今日は寒いね』と言われたら『ほんとに寒いね』と返すでしょ? 相手が投げてきたのと同じように打ち返すのが、人間社会のごく自然な対人コミュニケーションのルールなんだよ」
カサネは私を手招きして、窓の近くに立たせた。困惑する私を、彼女はまっすぐに見つめる。
「わかる? 『おはよう』には『おはよう』。等価交換がコミュニケーションのルール。難しく考える必要なんてどこにもないよ。復讐だって、それとまったく同じ。右の頬を殴られたなら、右の頬を正確に殴り返したらいいんだよ。挨拶と同じだよ!等価交換だ」
「挨拶と、同じ……」
挨拶と同じレベルの、ごく自然な、当たり前のコミュニケーション。やられたことを、ただそのまま相手に返すだけ。そのカサネの言葉は、私の心に頑固にまとわりついていた迷いや罪悪感を、じわじわと、しかし確実に融かして消し去っていった。
「そう。あなたはひどいことをされたの。だからね、挨拶を返すみたいに、思いっきり楽しく、残酷に、沙知子とかいう女に地獄を見せてやろう。ただの等価交換。コミュニケーションの基礎だよ」
さらさらとした心地よい夜風が、窓から部屋の中へと滑り込んでくる。カサネからは、どこか清潔感のある、お風呂上がりのような石鹸の甘い匂いが漂ってきた。
「でも……できるの? 私、卒業してからの10年間、沙知子とはまったく関係を持ってこなかったから……彼女の今の弱点も、何がどこにあるのかも、何も知らない」
気がつけば、私の口からは縋るような、懇願するような声が出ていた。カサネは私のその反応を聞いて、この夜で一番、満足そうな美しい微笑みを浮かべた。
「どうにかできるかって? 私のことを馬鹿にしないで」
カサネは言い切ると、窓から離れた。
そして、バッグから薄型のノートパソコンを取り出すと、慣れた手つきでローテーブルの上に開き、カタカタと小気味よい音を立てて何かを入力し始めた。
「――林沙知子、27歳。進脩館大学を卒業したあと、大手広告代理店に勤務。婚約者は同い年で、外資系コンサルティングファーム勤務。同じく進脩館の卒業生だから、大学時代に出会ったんだろうね。二人合わせて年収2000万近いパワーカップル。来年の春にみなとみらいの最高級ホテルで挙式予定だけど、今は他の式場とも悩んでいる、と……ふん、調べればいくらでも出てくる」
あっけらかんと個人情報を並べ立てるカサネの言葉に、私は息を呑んだ。
「この手の承認欲求の化け物は、アカウントに鍵もかけずに自分の人生を全部ネットに切り売りしてるからね。セキュリティ意識がガバガバで、本当に助かっちゃう」
提示された画面には、沙知子が投稿したであろう、きらびやかな日常の写真の数々が並んでいた。お洒落なレストランのディナー、高級ブランドのバッグ、婚約者と並んで幸せそうに微笑む姿。
「なんというか……本当に、うまくやっているんですね。こういうのを見ていると、自分が惨めすぎて、どうしたらいいのか分からなくなります」
「そりゃそうだよ、胸糞悪くなる話だよね。でも、安心して。全部奪ってやるから。あなたが壊されたように、こいつのことも綺麗に壊してあげる」
カサネはにっこりと邪気のない笑みを浮かべると、猫のように小さく伸びをした。
「さて! 復讐するって決めたんだから、さっそく行動に移すとしよう! まずは、地味なお仕置きをしながら、こいつの弱みを探っていくとするか」
「弱みを……握る?」
「あ、気になる? まずはね、こいつから平穏な日常を奪って、心の内側から揺さぶって動揺させてみようと思うんだよね。そしたら、ボロがでるから」
カサネはそう言うと、パソコンの画面をいじって、新聞の切り抜きらしき画像をいくつも見せてきた。
それは、どれも目を背けたくなるような不穏な事件のニュースばかりだった。
『闇バイトの少年、独居老人宅を襲撃し殺人』『××町で放火多発』『20代女性、帰宅途中に男に刺される』『人気地下アイドル、ファンの男に硫酸をかけられる』――。ギョッとするようなおぞましい見出しが並んでいる。
「こういう事件のやり方を、参考にするってこと……?」
「違う、違う。そんな直接的なこと、タイパが悪いじゃない。こういう不吉で不穏なニュースの切り抜きをね、こういうクリア素材の透明な封筒に入れて、沙知子さんのお家に毎日毎日届くように郵送してあげるわけ」
彼女は悪戯っぽく瞳を輝かせながら、通販のDMやカタログを封入するのに使う、中身が丸見えのクリア封筒をひらひらと私の前で見せびらかした。
「ポストを開けたらさ、凄惨な事件の見出しがダイレクトに目に飛び込んでくるの。それが毎日、毎日、自分の自宅に届くようになったら、彼女はどう思うだろうね? 『誰かが私に何かをしようとしている?』『次は私がこういう被害に遭うってこと?』って、宣戦布告されたと思うはずだよ」
楽しそうに説明するカサネの言葉を聞いて、私は背筋にぞわっと冷たいものが走るのを感じた。確かに嫌だ。想像しただけでノイローゼになりそうな精神的恐怖だ。カサネは私の怯える反応を見て、ますます嬉しそうに声を弾ませる。
「そしてね、このお仕置きの最高に良いところは、警察に通報すべきか本人がめちゃくちゃ悩むところなんだよね。だってただのお手紙だもん。『新聞の切り抜きを郵送しちゃいけません』なんて法律はどこにもないからね」
「で、でも、ほら……ストーカー規制法とかで訴えられたりしないんですか?」
「まぁ、仮に本人がパニックになって警察に駆け込んだとしても、警察だって対応に困るよ。『実害がないから事件にはできません。ひとまず周辺の巡回を強化します』としか言えない。沙知子さんは、これから毎日、家の外でするちょっとした物音や、他人の視線にビクビクしながら過ごす羽目になるだろうね」
カサネは机の上で両手の指を組み、そこにあごを乗せて、うっとりと楽しげな妄想に耽るように目を細めた。それから、私の顔をまっすぐに見つめて、ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「とりあえず、私はこういう感じで切り抜きの郵送作業をこつこつ進めるからさ。お姉さんはお茶菓子を準備しておいて。破滅していく姿を特等席で楽しみながら、美味しいデザートを食べるの。最高に楽しいよ」
カサネは楽しそうに肩を揺らしたあと、すっと軽やかな動作で立ち上がった。
「じゃあ、来週また来るから。それまでにしっかり高級な紅茶の葉とお洒落な茶器一式も準備しておいてよね」
カサネはそう言いながら、手元のスマホを操作している。覗き見えた画面には、いつのまにか彼女は、配車アプリでタクシーを手配していたらしい。「到着まであと1分」と表示されていた。
・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・
「みて。なかなかいい調子だよ。沙知子ちゃん、すっかりおどおどするようになってるから」
翌週の水曜日。予告通りに私の部屋へやってきたカサネは楽しそうにノートパソコンの画面を見せた。画面に映し出された写真を見て、私は息を呑んだ。
そこには、あの沙知子が、怯えたような、酷く焦燥した表情で自宅マンションの郵便ポストを覗き込んでいる姿が写っていた。
「最初の数日は『不審なゴミが入ってる』って顔をしてたんだけどね。毎日毎日、ポストを開けるたびに凄惨な事件の見出しがダイレクトに目に飛び込んでくるもんだから、すっかりノイローゼ気味。昨日には、とうとう警察に相談したみたいだよ。でも、警察も対応に困って、一通り助言だけして帰っていっちゃった」
「きっと……相当、不安になっているでしょうね」
「本当にねえ。痛ましい限りだよ、同情しちゃう」
全く心のこもっていない平坦な調子で、カサネは淡々と言ってのけた。そして「さて」と小さく手を叩く。
「一週間になるし、この『不穏な切り抜き作戦』はこれで終了。そろそろあいつもこの恐怖に慣れて『またこれか』ってなっちゃうだろうから、次のフェーズに移ります」
「……あの、割と、私はこれで十分に満足できたんだけどな」
画面の中の沙知子は明らかに衰弱していた。イライラとした様子で警察官に詰め寄っている姿を見て、私の胸の奥の澱みは確かに軽くなっていた。これ以上の深追いは必要ないのではないか、そう思った。しかし、カサネはそんな私の甘さを許さなかった。
「んー。お姉さんがそれでいいなら、それでもいいかなって一瞬思ったんだけどさ。やっぱりダメなんだよね。ちょっとこれを見てよ」
カサネが画面をスクロールし、新しいページを開いた。そこにあった文字列を見て、私は言葉を失った。それは、とあるSNSの裏アカウントの画面だった。そこには、すさまじい量の怨嗟と痛切な叫びが書き殴られていた。
『また仕事を奪われた。あの企画書を書いたのはあいつじゃないのに』
『いいとこ取り。なんであんな女が会社で評価されてるわけ?』
『見た目だけ。男に媚びてキモい。それに騙される上の奴らもどうかしてる』
『仕事やめたい。でも、あいつにだけは絶対に負けたくない』
上司に嫌がらせを受け、手柄を横取りされ、精神的に追い詰められている女子社員の悲痛な独白。文章だけではどこの誰かも分からない。私が困惑して見つめていると、カサネはゆっくりと私に顔を近づけ、囁いた。
「この子ね、沙知子さんの部下なんだよね」
「部下……!?」
ギョッとして画面を見直す。
「私さ、沙知子さんの弱みを握ってやろうと思って、ここ一週間彼女のことを『観察』してたわけ。沙知子さんは毎日、同僚とお洒落な店でランチしてるんだけどさ、その部下の女の子だけ、明らかにひどい目に遭わされてたんだよね。行列のできる人気店に彼女だけを並ばせて席取りをさせられてたり、会話をしてても常にトゲトゲした言葉でマウントを取ってたり……」
「それって……高校時代の私が、されてたこととそっくり……」
背筋に冷たい戦慄が走った。高校時代の私は「卒業」という明確な終わりがあった。けれど、会社組織という檻の中で部下になってしまった彼女には、逃げ場のない、終わりのない地獄が続いている。
「そうだよ。だからこの部下の女の子にも注目してたの。彼女、定時で上がれることなんてほとんどなくて、毎日ボロボロ。それで終電ギリギリの電車の中でね、こうやって裏アカに呪詛を吐き出すことで、かろうじて心の均衡を保ってるわけ。日本人ってさ、周囲の他人のことをただの『風景』として見がちでしょ? だから電車の隣の席に座って、彼女がスマホに打ち込んでるこのアカウントの画面を覗き見るの、すっごく簡単だった」
カサネはそこで、フッと声を落とした。大きな瞳が、私の目をまっすぐに射抜く。
「ねえ、お姉さん、わかる? あなたとの生活を通して、沙知子は“人を踏み台にして要領よく搾取する”っていう歪んだ成功体験を完璧に手に入れちゃったの。だから、今もこうして他人の未来を悪びれもせず貪ってるし、あなたがここで生ぬるい同情をして見逃したら、こいつは未来でもずーっと誰かを搾取し続けるよ?」
くすっとカサネは私をバカにするように笑った。
「あなたが生み落としたバケモノなんだから。あなたが止めてあげなきゃ。復讐をやめるなんて、そんな無責任なこと言っちゃダメだよ。それに、面白くなるのはここからだよ?」
「私が生み落とした……」
カサネのひと言を私はボツリと繰り返す。もしも、私が高校時代に「いじめだ」「間違っている」と言えていたら、この部下という人も苦しまなかったのだろうか。
「それでね、このバケモノ、本当に仕事ができないみたい。高校時代から何も変わってない。ハッタリと他人の手柄の横取りだけで、ここまでのし上がってきたみたいだよ」
カサネは呆れたように軽くため息をつきながら、パソコンの画面を操作して別のページを開いた。
そこには、赤字で【××ホールディングス 厳秘・共有資料】と書かれた、明らかに外部に漏れてはならない重要そうな社内データが表示されていた。
「これって……沙知子の会社の?」
「そうなんだよ、びっくりするでしょ? このバケモノさ、見た目重視の形から入るタイプだから。朝っぱらから、MacBookを片手にお洒落なカフェで仕事をしてるんだよねー。『私はデキるキャリアウーマンです』『朝活なんかもやっちゃうエリートです』みたいな顔をしてさ。で、やってることといったら、WEBニュースのブラウジングなんだから笑っちゃうよ」
カサネは私がいれた紅茶を一口すすると、「もっと美味しく淹れる練習をしなよ」と傲慢に難癖をつけた。そして、はぁと、わざとらしくため息をついてから説明を続ける。
「でね、バケモノは社会人としての自覚がゼロだから、カフェの暗号化もされていないフリーWi-Fiに平気でパソコンを繋いじゃってるの。同じWi-Fi空間を共有してたらね、ちょーっとツールを操作するだけで、相手のパソコンにアクセスできるんだから。おかげで、あいつが意味ない朝活をやってる隙に、彼女のアカウントのパスワードも一瞬で抜けちゃって、クラウドを覗いてこういう面白そうな資料も一式いただけたわけ」
「じゃあ……この機密資料を流出させて、沙知子を破滅させるの?」
「そうだね。沙知子のSNSにログインして、大事な大事な書類を世界に向けてアップしてやろうか。それで、楽しい楽しい“株主代表訴訟”でも起こしちゃう? 場合によっては、社長や役員たちの首もまとめて飛ばせちゃうしね」
カサネは自分の細い首を手で軽く叩くジェスチャーをしてみせた。そして、首を傾げるようにしながら、邪気なく笑う。
「でも、そういうことはしない。残念だけど、そういう復讐はできない」
「どうして? 沙知子に最大のダメージを食らわせることができるんでしょ?」
軽く肩を落として、あっさりと機密資料のページを閉じたカサネに、私は思わず尋ねた。もちろん、私とて会社を巻き込むような大騒動を望んでいたわけではないけれど、彼女の意図が知りたかった。
「そりゃあね。会社の機密情報を意図的に漏洩させるなんて最悪だからね。沙知子は責任を問われて一発で懲戒解雇。ついでに、天文学的な額の損害賠償を一生背負うことになるかもね」
「なら、どうして……?」
「わかってないな。そういう大掛かりな復讐は、沙知子だけじゃなくて、彼女の周りにいる同僚や上司、関係ない会社の人たちまで何百人も巻き込んで不幸にしちゃうでしょ? そういうことは、やっちゃダメなんだよ」
カサネの口から、驚くほど真っ当で、道徳的な言葉が飛び出してきた。私は目を見開き、同時に自分自身が酷く恥ずかしくなった。
「……そうだよね。私、間違ってた。そんなの、やりすぎだよね」
ぽつりと私が反省の色をこぼすと、カサネは心底不可解そうな表情を浮かべ、驚いたように私を見つめた。
「は? お姉さん、なんか勘違いしてない? びっくりなんだけど。違うよ。私、他の人たちの迷惑なんてこれっぽっちも心配してないよ?」
「え……?」
「会社全体を巻き込んで大ごとにしちゃうとさ、相手の会社の『法務部』を相手にしなきゃいけなくなるでしょ? 私は徹底したタイパ主義だから。あいつらみたいな堅物と遊ぶのなんてだるすぎるし、時間がもったいないじゃん」
カサネは付け加えてほほ笑んだ。この子にとっては、他人の不幸なんてどうでもいいのだろう。共感能力が著しく欠けていて、とにかく楽しいことだけをしたいのだろう。
「でも、この資料を一切使わないのはもったいないからね。ちょっとした『嫌がらせ』には使わせてもらうよ」
「嫌がらせ……?」
私が不思議に思って問いかけたその時、カサネのスマホが微かに震えた。彼女は気怠そうに画面へ目を落としたが、次の瞬間、まるで極上の玩具を見つけた子どものように嬉しそうに微笑んだ。
「きたきた! 渚ちゃんからのメールだ」
「渚ちゃん?」
「うん。沙知子さんにいじめられてる部下の女の子だよ」
「え、その子といつの間に親しくなったの……!?」
あまりの行動力の早さに私は愕然とする。しかし、カサネは馬鹿にしたように首を横に振った。
「違う、違う。親しくなんてなってないよ。さっき言ったじゃん、沙知子のクラウドのパスワードを抜いたって。ついでに彼女の会社のメールアカウントにも自動でログインできるようにしておいたの。これはね、渚ちゃんから沙知子宛てに今送られてきたメール」
「っていうことは、仕事のメール? もう夜の12時を過ぎてるのに!?」
私は思わず、壁の時計を振り返った。こんな深夜まで、業務メールのやり取りを強制されているなんて。
「可哀想だよねえ。明後日、沙知子が社内会議で大きなプレゼンをするんだけどさ、そのスライド作りを全部この子に丸投げをしちゃってるわけ」
カサネは解説しながら、メールに添付されていたパワーポイントのデータを手際よく開いた。画面に映し出されたスライドの山を見て、私は思わず感嘆のため息を漏らしてしまった。
「すごい……。この人、本当に仕事ができる人なんだ。スライドがすごく分かりやすい」
「真面目にコツコツと努力してきた子なんだろうね。沙知子なんかと違って、ズルをせずに実力で大学に入学して、実力で一流企業に入ったような本物のエリートなんだよ。……早く解放してあげたいね」
カサネは芝居がかったため息をつきながら、「この辺でいいかな」と呟き、スライドの15ページ目に新しい白紙のシートを挿入した。そして、その真っ白なページに、先ほど「ボツ」にしたはずの厳秘の社外秘資料から、一部のデータをそのままコピー&ペーストしたのだ。ご丁寧に、『最重要!』という赤文字のメモ書きまで添えて。
「このくらいの規模の情報流出なら、会社全体が傾くこともないし法務部も出てこない。明後日の朝、沙知子がカフェでパソコンを開いた瞬間にでも、リモートアクセスでこのすり替えたパワポのデータに上書きしとくよ。真面目な社会人なら本番前にデータの異変に気がつくだろうけど……他人の手柄をノーチェックで右から左へ流すだけのバケモノは、果たして気がつくかな?」
カサネは意地悪そうにクスクスと笑った。その顔を見ていたら、私の胸の奥から不思議な感情がこみあげてきた。
「そっか……。こういう風に、していればよかったんだ」
ぽつりと、私の口から言葉が漏れ出た。
「高校の時も、あのグループ発表、直前になって全部めちゃくちゃにした原稿とスライドだけ手渡して、私は学校を休んじゃえばよかったんだ。そしたら発表はグチャグチャになって、沙知子は推薦なんて絶対にもらえなかった。……それに、もしそうなっていたら、周りのみんなも気がついてくれたかもしれないよね? あいつらが教室で焦っているのを見て、先生だって、クラスの同級生だって……私がどれだけ追い詰められていたか、私の状態に、気がついてくれたかもしれないのに……」
気がつくと、視界が急激に滲んでぼやけていた。
10年前の、あの行き場のない口惜しさとやるせなさ。自分の存在すべてが否定され、搾取されていくのに、誰の目にも止まらなかったあの日々が、生々しい痛みとなって胸を突き上げてきた。
どうして誰も気がついてくれないのか。どうして先生はあんなに簡単に騙されるのか。嫌で嫌でたまらないのに、どうして自分は笑顔で宿題を差し出すことしかできないのか――。
膝の上の拳を震わせ、涙をこぼす私に、カサネは冷徹な声でいった。
「だからさ、今、私が気がついてあげたじゃん」
私は、思わず顔を上げる。真剣そうなカサネと目が合う。
「沙知子は、これからきっちりグチャグチャになるから。このスライドが失敗しても、別の方法でザマァするから。ちょっとタイミングは遅くなっちゃったかもしれないけど、ちゃんと10年前のあなたを、今、私が助けてあげる。私が快楽をむさぼるついでにさ!……だから泣くなよ。うっとうしい。うじうじしてるの、嫌いなんだ。不快すぎる」
ぶっきらぼうで荒々しい口調だった。けれど、そのカサネの言葉は、私の凍りついた10年間を優しく癒していくのが分かった。
そうか。私は沙知子にただ不幸になってほしかっただけじゃない。
あの孤独な地獄の中で、「誰かに気づいてほしかった」のだ。「世界は捨てたもんじゃない」ということを教えて欲しかったのだ。
・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・
それから数日後。例の社内会議があった日の夜、私のスマホに、見知らぬ捨てアカウントから一件のDMが届いた。
『渚ちゃんのアカウント、動いたよ。見てみなよ』
カサネからの、短い作戦完了の報告だった。
私はベッドの中でスマホを操作し、教えてもらった渚の裏アカウントをチェックした。
画面を開いた瞬間、そこには、これまでの鬱屈とした日々をすべて吹き飛ばすような、狂喜乱舞の声が、タイムラインを埋め尽くしていた。
『やった!! ほんとバカすぎる』
『あのバカ、社外秘の資料を会議で大発表!!』
『焦った顔、おもしろすぎ。私をにらんできた顔ったらなかった』
『バーカ!バーカバーカ』
『何をどうミスったら、あんなことになるのか、ぜひともお教えいただきたいww』
『はじめてです! あなたから教えてもらいたいことができました!!』
『違います、私じゃなくてこの子が作ったんですww』
『すかさず私は「きちんとしたのを送った」という証拠メールを開示』
『私のパワポは問題なし』
『バカなあいつは「部下に自分の仕事を押し付けたのか!?」と説教食らうww』
『深夜まで働かせてますけどww』
画面をスクロールする指が震える。
カサネの計画は、完璧に成功したのだ。
沙知子は、カサネが仕込んだ罠をそのまま役員たちの前で発表し、自分のハッタリと無能さ、そして部下へのパワハラと業務押し付けの事実を、自らの手で晒してしまったのだ。
私は、渚さんのアカウントを見ていて、「よかったね」とつぶやいてほほ笑んでしまった。そこには『神様ってほんとにいるのかもしれない』『まじめにやっててよかった』と書かれていたから。



