奇妙なアカウントと会話をしたこと。私は、翌日には、そのことを忘れていたのだが、話はこれで終わりではなかった。それから数日が過ぎた金曜日の仕事終わり。私は、仕事で疲れた体を引きずるようにしながら、夜道をゆっくりと歩いて家へと帰った。
築年数約20年のありきたりな私のアパートが見えてきた、その時だった。暗い外灯の下、私のアパートの前に、見慣れない少女がぽつんと佇んでいるのが見えた。
上品で端正な佇まいの少女だ。
年齢は大学一年生か高校生くらいだろうか。夜の闇に溶け込みそうなほど、きれいに切りそろえられた艶やかな黒髪。陶器のように白い頬。そして何よりも印象的なのは、吸い込まれそうなほど大きな瞳だった。すっと通った高い鼻筋が、どこか他者を寄せ付けない尊大な印象を周囲に与えている。
着ているワンピースも、質が良い。オーダーメイドだろうか? 彼女の体型にぴったりと寄り添うようにできている。
(……迷子、なのかな?)
少し気になりつつも、関わり合いになるのを恐れて、私は彼女の横を何食わぬ顔で通り過ぎようとした。
その、瞬間だった。
「ちょっと! 遅い!」
鈴を転がすような、しかしひどく冷徹な少女の声が、夜の空気を切り裂いた。私が足を止めるより早く、少女の大きな瞳がまっすぐに私を射抜く。
「緑川美奈子さん。こないだは、いきなりブロックするなんてひどいじゃない」
「なんのこと、ですか……?」
ブロック、という単語を聞いた瞬間、私の脳裏にあのアカウントが鮮烈に蘇った。同時に、なぜ目の前の見知らぬ少女が私の本名を知っているのか、底知れない恐怖が這い上がってくる。
「あのさ、わたしは無駄な時間を使うのが大嫌いなわけ。50万で復讐をする話に興味があるって言ってさ、こっちを乗り気にさせておきながら、急にシャットアウトするなんてなってないからね」
「え、でも、どうして……っ」
どうして、誰にも教えていない裏アカウントの主が私だと分かったのか。喉まで出かかった問いに、彼女は底意地の悪い笑みを浮かべ、わざとらしく深いため息をついた。
「あのさ、緑川さん。あなたね、あのアカウントに日常的なことも書いてるでしょ? 虹が見えたとか、コンビニのお菓子が美味しいとか。お菓子の中には地域限定のものもあるし、一枚じゃ位置関係が分からなくても、何枚もの写真を照合すれば、個人情報特定なんて簡単なの」
頭のてっぺんから冷水を浴びせられたように、血の気が引いていくのが分かった。
確かにその通りだ。現実の世界に友人がいない私は、日常のちょっとした出来事や嬉しかったことも、日記代わりにあのアカウントに書き込んでいた。自分なりに特定されないよう細心の注意を払っていたはずなのに。
「とりあえずさ、せっかくここまで来てあげたんだから、部屋にあげてよ。じっくり復讐の相談をしようよ。どんなクズなことをされたのか知りたくて、ずっとわくわくしてたんだから」
少女は、弾んだ調子でそう言った。まるで明日発売される新作のデザートか何かの話をするかのような、無邪気で、恐ろしい軽さだった。
「ごめんなさい……っ! あれは、ただの冗談のつもりだったんです。本当に復讐なんてするつもりはありません。ここに来るまでの交通費とか……その、経費っていうんですかね? そういうのはちゃんとお支払いするので。だから、もう帰ってください」
これ以上、この異常な少女と関わり合いたくなくて、私はなりふり構わず頭を下げた。
すると、少女は一瞬ぽかんとした顔をしたあと、堪えきれないといった様子でクスクスと笑い出し、バッグから数枚のA4用紙を取り出して私の目の前に差し出した。
それを見た瞬間、私は息が止まった。そこに印刷されていたのは、私が深夜に、誰にも見られないと思って書き殴った、あの醜悪な裏アカウントの画面のコピーだった。
「わかってないなぁ、お姉さん。もうお姉さんには、選択肢なんてないんだよ」
少女は至近距離まで顔を近づけると、楽しそうに囁いた。
「もしも復讐を断るっていうならさ、この印刷物、お姉さんの会社の上司や同僚に郵送してあげる。ついでに、このアパートの全室のポストにも投入して回ってあげる。どうなると思う? 『死にたい消えたいって毎日毎日社会への呪詛を吐いてる派遣社員の緑川さん』。明日から、どんな顔して会社に行くの?」
・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・
「うわー。なんか、なんにもない部屋だね。引っ越してきたばかりってわけじゃないんでしょ? 20代の女性の部屋には到底見えないんだけど」
私の部屋に足を踏み入れるなり、彼女は容赦のない言葉を放った。
チクンと胸が痛む。けれど、実際にその通りなのだ。キッチンと、わずか6畳のワンルーム。私の部屋には、華やかさのかけらもなかった。家具らしい家具といえば、ベッドと小さなローテーブルくらいだ。
「社会人の部屋なんて、みんなこんなもんですよ」
私は冷蔵庫に冷やしておいた麦茶をガラスコップに注いで、彼女の前に差し出した。
「まぁ、そうだよね。なんかお姉さん、毎日仕事でいっぱいいっぱいって感じだもん」
麦茶のガラスコップをまじまじと見つめながら、彼女はそんなことを言ってのけた。
それも、痛いほど図星だった。周囲の顔色を窺い、びくびくしながら過ごしているせいか、私の精神的なエネルギーは毎日定時を迎える前に枯渇してしまう。自分の時間なんて持てない。
「それで……どうして、あなたはそんな復讐代行なんてことをしているの? 見たところ、お金に困ってそんなアウトローなことをしているようには見えないけれど」
「あなたじゃなくて、『カサネ』って呼んで。私にはカサネっていう立派な名前があるんだから」
彼女は私の質問には直接答えず、不機嫌そうに唇を尖らせた。
カサネ。漢字で書けば、どう書くのだろう。「重ね」だろうか、「襲」だろうか。それとも「傘音」だろうか。まぁ、どうせ偽名だろうから、どうでもいい。
「あのね、私、スカッとすることが大好きなんだよね!」
カサネはそう言うと、差し出された麦茶のコップをテーブルの端へと乱暴に押しのけた。そして、ローテーブルに身を乗り出すようにして私に顔を近づけた。
「私、昔から、そうなんだよね。調子に乗っている人とか、みんなに羨まれるような地位にいるやつが、ひどいめにあって、みじめな表情を浮かべるのを見るのが大好きなの。そういうのを見ると、なんていうんだろ……脳の報酬系がバグるくらいの快楽を感じちゃうんだよね」
おそろしく性格の悪いことをあっけらかんとした様子で、一切悪びれることなく、彼女がいったので呆気に取られてしまう。
「でも……あの、アカウントでは、A・・・なんでしたっけ。過去にトラウマのある人だけを助けたいって言ってたような気がするんですけど」
なんとなく深い事情があるような気がして、私は彼女に問いかけた。しかし、彼女は不思議そうに私のほうを見て、首をかしげるだけだ。
「ああ。ACE……エースのことね。過去にひどい体験をしたサバイバーの復讐だけをしているのは、別に、「ACEサバイバーはかわいそうだ。正義を発揮して助けてやらないと!」みたいな高尚な目的があるからじゃないよ。単にやりやすいから」
「やりやすい……?」
「そう! 私さ、スカッとするのが大好きなんだけどさ、そのへんにいる人をめったやたらに嵌めてひどい目にあわせてたらさ、反感を買うわけじゃないですか?」
「そりゃあ、まぁ……そんなの通り魔みたいで質が悪いですよ」
「でしょ! で、どうしたらいいか考えたんだけど……――ところで、お姉さん、吸血鬼を扱った映画とか漫画とかを見たことある? 吸血鬼って、ニンゲンの血を吸わないと生きていけないでしょ? ああいう作品で、主人公の吸血鬼がどういうふうに血を集めているか知ってる?」
大きな瞳がらんらんと私を見つめる。にこにことしている彼女。なんとなく私は、獲物を狙う猫を思い出した。
「知らないです……。あんまりマンガとか映画を見なくて」
マンガを見ると、高校時代のマンガ好きな子たちのことを思いだしてしまう。心がチクチクしてザワザワするから、なんとなくマンガコーナーを避けてしまうのだ。
「そうなの? 残念。ああいう漫画を例に出すと、説明しやすいんだけどな。吸血鬼をテーマにした作品の主人公の吸血鬼って、きまって“悪人”の血だけを飲んで飢えを満たしてるんだよね」
「悪人の、血……?」
「そう。逃走中の犯罪者とか、人殺しとか、そういう奴の血を吸って生きているの。そういう悪人の血を飲むことって、なぜか許されるっていうか……社会的に受け入れられているんだよね」
彼女は理解できないといった風に首を傾げながら、艶やかな黒髪を人差し指でくるくると弄んだ。
私はそういった作品を読んだことはないけれど、その作品の理屈はなんとなく理解できた。
普通の善良な市民の血を吸う吸血鬼はただの怪物だが、悪人だけを狩る吸血鬼なら、どこかダークヒーローのような免罪符が与えられる気がする。
「でね! 理屈はよく分からないんだけど、どうも“日本社会”っていうやつは、悪人を公私混同で裁くことに対しては、妙に甘いんだなーって、そこだけは理解できたわけ。ネットの炎上とかもたぶんそうでしょ? だから、自分の快楽を満たしたい私は、悪いことをした奴を『ザマァ』して、社会のウケをも狙いつつ、気持ちよくなろうと思いついたわけ!」
カサネは、まるで学校のテストで満点を取った子供のように、誇らしげな笑顔を浮かべた。
私はただ、その狂気に圧倒されて声も出ない。
「そうやって悪い奴を裁いていくことにしたんだけどさ。現在進行形で悪いことをしている奴って、やっぱり後ろ暗いんだろうねー。防犯意識が高かったりしてちょっとやりにくいんだよね。だから私は、過去に悪いことをしたくせに、今は何食わぬ顔でのうのうと生きてる奴をターゲットにすることにしたの。それなら油断しまくってるから、さくっと『ざまぁ』して、カジュアルに楽しめちゃうでしょ? いまは、タイパの時代なんだよね」
彼女は胸を張りながら、事もなげに答えた。私はというと、いつかニュースで見た、「映画よりもショート動画のほうが楽しいよね。タイパもいいし」と主張する、Z世代のインタビューを思い出していた。
「えっと、正義とかではなく? 過去に、カサネさんもつらい経験をしたことがあるから……あなた自身がサバイバーで、サバイバーに共感して、彼らを救いたいからこういうことをしているわけではないの?」
私が尋ねると、カサネは意外なことを聞いたかのように大きく目を見開いた。それから、お腹を抱えて、ケラケラと無作法に笑い始めた。
「正義!? 正義って、お姉さん、さすがにおもしろすぎる! ないよ。私には、悲しい過去も正義感もなんもないよ? ただただ、快楽を満たしたいだけ。それで、過去に悪いことをしたやつをからかうのがタイパがいいから、サバイバーに接近してるだけ。それだけだよ」
彼女は私が出してあげた麦茶を一口飲んだ。そして、明らかにマズそうな顔をして、顔をしかめた。
「お姉さんもだけど、最近の人って「正義」とか好きだよね。私、それが不思議でならないよ。私はさ、正義とか善とか道徳とか……そんなものは“風土病”に過ぎないと思えて仕方ないんだよね」
「風土病? 正義が?」
悲しい過去も何もないと主張する彼女を前に私は激しく混乱する。いったい、これはどういうことだ。「正義」を軽んじている彼女がよくわからず、私は少し怖くなる。
「そう。風土病。お姉さんは、きちんと学校で日本史とか世界史の勉強をしたでしょ? それで学ばなかったのかな? 正義とか善っていうもんは、いつもいつも揺らいできてたって。つい最近の日本では、父親のいうことを聞いて、結婚後は夫に従って、年を取ったら息子のいうことを聞く女性が“三従四徳”とかって、道徳心のある素晴らしい女性ってことになってたし……あとは、あれだ。戦時中は天皇陛下万歳なんていって特攻することが、強さであり正しさであり正義だったりしたわけだよ」
一気にまくしたてるように言ってカサネは軽く息を吐いて、さらに言葉を続ける。
「正義や道徳なんてもんは、時代や地域によって異なるもんなの。過去にも絶対的な“正義”や“正しさ”なんてなかったし、未来にだってそんなもんは登場しない! だからね、正義も道徳も、「風土病」や「はやり病」に過ぎないの」
くすっと楽しそうにカサネは笑う。私は彼女の言っていることが理解できない。絶対的な正義がない? だからといって、正義や道徳を軽視してもいいものだろうか。私は彼女のことばを聞いていて、心がざわざわとする。
そんなのはおかしい。彼女のいうことは間違っている。もしも、みんながみんな好き放題に動いたらどうなる? この社会なんてものは維持できなくなってしまう。みんながよりよく生活するために「道徳」といった規範は大事なはずだ。
しかし――。
しかし、その“正しさ”とやらは、今日まで一度でも私を救ってくれただろうか?
「悪いことをした人には、いつか必ず天罰が下ります」「真面目に耐えていれば、いつか報われます」……そんな教科書通りの綺麗な言葉が、私の傷を癒やしてくれただろうか。現実はどうだ。
「ねえ、お姉さん。“正しいこと”や“綺麗ごと”を信じて我慢し続けた結果が、今のこの部屋なんでしょ? 空っぽなこの部屋なんでしょ? だからさ、教えてよ。お姉さんのことを苦しめた人の名前と何をされたのか。楽しい楽しいお仕置きをしてあげようよ! 正義なんか大事にしてないで、スカっとしよう!」
私はカサネのらんらんと輝く大きな瞳を見つめながら、深く、静かに息を吸い込んだ。
私の本名も住所も瞬時に調べ上げてみせた彼女だ。その卓越した執念と技術は本物だろう。彼女は本気で、沙知子にえげつない牙を剥くつもりなのだ。それも「正義」や「善」や「同情心を満たす」といったようなまっとうな理由ではなく、「自分の快楽を満たしたい」というよくない理由で。
それは間違っている。間違っているのはわかっているのに……
「高校二年生のときの同級生に、林沙知子という子がいたんです。その子は……」
私はゆっくりと、しかし堰を切ったように、沙知子に奪われ続けた暗黒の2年間のすべてを、カサネに向かって語り始めていた。
築年数約20年のありきたりな私のアパートが見えてきた、その時だった。暗い外灯の下、私のアパートの前に、見慣れない少女がぽつんと佇んでいるのが見えた。
上品で端正な佇まいの少女だ。
年齢は大学一年生か高校生くらいだろうか。夜の闇に溶け込みそうなほど、きれいに切りそろえられた艶やかな黒髪。陶器のように白い頬。そして何よりも印象的なのは、吸い込まれそうなほど大きな瞳だった。すっと通った高い鼻筋が、どこか他者を寄せ付けない尊大な印象を周囲に与えている。
着ているワンピースも、質が良い。オーダーメイドだろうか? 彼女の体型にぴったりと寄り添うようにできている。
(……迷子、なのかな?)
少し気になりつつも、関わり合いになるのを恐れて、私は彼女の横を何食わぬ顔で通り過ぎようとした。
その、瞬間だった。
「ちょっと! 遅い!」
鈴を転がすような、しかしひどく冷徹な少女の声が、夜の空気を切り裂いた。私が足を止めるより早く、少女の大きな瞳がまっすぐに私を射抜く。
「緑川美奈子さん。こないだは、いきなりブロックするなんてひどいじゃない」
「なんのこと、ですか……?」
ブロック、という単語を聞いた瞬間、私の脳裏にあのアカウントが鮮烈に蘇った。同時に、なぜ目の前の見知らぬ少女が私の本名を知っているのか、底知れない恐怖が這い上がってくる。
「あのさ、わたしは無駄な時間を使うのが大嫌いなわけ。50万で復讐をする話に興味があるって言ってさ、こっちを乗り気にさせておきながら、急にシャットアウトするなんてなってないからね」
「え、でも、どうして……っ」
どうして、誰にも教えていない裏アカウントの主が私だと分かったのか。喉まで出かかった問いに、彼女は底意地の悪い笑みを浮かべ、わざとらしく深いため息をついた。
「あのさ、緑川さん。あなたね、あのアカウントに日常的なことも書いてるでしょ? 虹が見えたとか、コンビニのお菓子が美味しいとか。お菓子の中には地域限定のものもあるし、一枚じゃ位置関係が分からなくても、何枚もの写真を照合すれば、個人情報特定なんて簡単なの」
頭のてっぺんから冷水を浴びせられたように、血の気が引いていくのが分かった。
確かにその通りだ。現実の世界に友人がいない私は、日常のちょっとした出来事や嬉しかったことも、日記代わりにあのアカウントに書き込んでいた。自分なりに特定されないよう細心の注意を払っていたはずなのに。
「とりあえずさ、せっかくここまで来てあげたんだから、部屋にあげてよ。じっくり復讐の相談をしようよ。どんなクズなことをされたのか知りたくて、ずっとわくわくしてたんだから」
少女は、弾んだ調子でそう言った。まるで明日発売される新作のデザートか何かの話をするかのような、無邪気で、恐ろしい軽さだった。
「ごめんなさい……っ! あれは、ただの冗談のつもりだったんです。本当に復讐なんてするつもりはありません。ここに来るまでの交通費とか……その、経費っていうんですかね? そういうのはちゃんとお支払いするので。だから、もう帰ってください」
これ以上、この異常な少女と関わり合いたくなくて、私はなりふり構わず頭を下げた。
すると、少女は一瞬ぽかんとした顔をしたあと、堪えきれないといった様子でクスクスと笑い出し、バッグから数枚のA4用紙を取り出して私の目の前に差し出した。
それを見た瞬間、私は息が止まった。そこに印刷されていたのは、私が深夜に、誰にも見られないと思って書き殴った、あの醜悪な裏アカウントの画面のコピーだった。
「わかってないなぁ、お姉さん。もうお姉さんには、選択肢なんてないんだよ」
少女は至近距離まで顔を近づけると、楽しそうに囁いた。
「もしも復讐を断るっていうならさ、この印刷物、お姉さんの会社の上司や同僚に郵送してあげる。ついでに、このアパートの全室のポストにも投入して回ってあげる。どうなると思う? 『死にたい消えたいって毎日毎日社会への呪詛を吐いてる派遣社員の緑川さん』。明日から、どんな顔して会社に行くの?」
・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・
「うわー。なんか、なんにもない部屋だね。引っ越してきたばかりってわけじゃないんでしょ? 20代の女性の部屋には到底見えないんだけど」
私の部屋に足を踏み入れるなり、彼女は容赦のない言葉を放った。
チクンと胸が痛む。けれど、実際にその通りなのだ。キッチンと、わずか6畳のワンルーム。私の部屋には、華やかさのかけらもなかった。家具らしい家具といえば、ベッドと小さなローテーブルくらいだ。
「社会人の部屋なんて、みんなこんなもんですよ」
私は冷蔵庫に冷やしておいた麦茶をガラスコップに注いで、彼女の前に差し出した。
「まぁ、そうだよね。なんかお姉さん、毎日仕事でいっぱいいっぱいって感じだもん」
麦茶のガラスコップをまじまじと見つめながら、彼女はそんなことを言ってのけた。
それも、痛いほど図星だった。周囲の顔色を窺い、びくびくしながら過ごしているせいか、私の精神的なエネルギーは毎日定時を迎える前に枯渇してしまう。自分の時間なんて持てない。
「それで……どうして、あなたはそんな復讐代行なんてことをしているの? 見たところ、お金に困ってそんなアウトローなことをしているようには見えないけれど」
「あなたじゃなくて、『カサネ』って呼んで。私にはカサネっていう立派な名前があるんだから」
彼女は私の質問には直接答えず、不機嫌そうに唇を尖らせた。
カサネ。漢字で書けば、どう書くのだろう。「重ね」だろうか、「襲」だろうか。それとも「傘音」だろうか。まぁ、どうせ偽名だろうから、どうでもいい。
「あのね、私、スカッとすることが大好きなんだよね!」
カサネはそう言うと、差し出された麦茶のコップをテーブルの端へと乱暴に押しのけた。そして、ローテーブルに身を乗り出すようにして私に顔を近づけた。
「私、昔から、そうなんだよね。調子に乗っている人とか、みんなに羨まれるような地位にいるやつが、ひどいめにあって、みじめな表情を浮かべるのを見るのが大好きなの。そういうのを見ると、なんていうんだろ……脳の報酬系がバグるくらいの快楽を感じちゃうんだよね」
おそろしく性格の悪いことをあっけらかんとした様子で、一切悪びれることなく、彼女がいったので呆気に取られてしまう。
「でも……あの、アカウントでは、A・・・なんでしたっけ。過去にトラウマのある人だけを助けたいって言ってたような気がするんですけど」
なんとなく深い事情があるような気がして、私は彼女に問いかけた。しかし、彼女は不思議そうに私のほうを見て、首をかしげるだけだ。
「ああ。ACE……エースのことね。過去にひどい体験をしたサバイバーの復讐だけをしているのは、別に、「ACEサバイバーはかわいそうだ。正義を発揮して助けてやらないと!」みたいな高尚な目的があるからじゃないよ。単にやりやすいから」
「やりやすい……?」
「そう! 私さ、スカッとするのが大好きなんだけどさ、そのへんにいる人をめったやたらに嵌めてひどい目にあわせてたらさ、反感を買うわけじゃないですか?」
「そりゃあ、まぁ……そんなの通り魔みたいで質が悪いですよ」
「でしょ! で、どうしたらいいか考えたんだけど……――ところで、お姉さん、吸血鬼を扱った映画とか漫画とかを見たことある? 吸血鬼って、ニンゲンの血を吸わないと生きていけないでしょ? ああいう作品で、主人公の吸血鬼がどういうふうに血を集めているか知ってる?」
大きな瞳がらんらんと私を見つめる。にこにことしている彼女。なんとなく私は、獲物を狙う猫を思い出した。
「知らないです……。あんまりマンガとか映画を見なくて」
マンガを見ると、高校時代のマンガ好きな子たちのことを思いだしてしまう。心がチクチクしてザワザワするから、なんとなくマンガコーナーを避けてしまうのだ。
「そうなの? 残念。ああいう漫画を例に出すと、説明しやすいんだけどな。吸血鬼をテーマにした作品の主人公の吸血鬼って、きまって“悪人”の血だけを飲んで飢えを満たしてるんだよね」
「悪人の、血……?」
「そう。逃走中の犯罪者とか、人殺しとか、そういう奴の血を吸って生きているの。そういう悪人の血を飲むことって、なぜか許されるっていうか……社会的に受け入れられているんだよね」
彼女は理解できないといった風に首を傾げながら、艶やかな黒髪を人差し指でくるくると弄んだ。
私はそういった作品を読んだことはないけれど、その作品の理屈はなんとなく理解できた。
普通の善良な市民の血を吸う吸血鬼はただの怪物だが、悪人だけを狩る吸血鬼なら、どこかダークヒーローのような免罪符が与えられる気がする。
「でね! 理屈はよく分からないんだけど、どうも“日本社会”っていうやつは、悪人を公私混同で裁くことに対しては、妙に甘いんだなーって、そこだけは理解できたわけ。ネットの炎上とかもたぶんそうでしょ? だから、自分の快楽を満たしたい私は、悪いことをした奴を『ザマァ』して、社会のウケをも狙いつつ、気持ちよくなろうと思いついたわけ!」
カサネは、まるで学校のテストで満点を取った子供のように、誇らしげな笑顔を浮かべた。
私はただ、その狂気に圧倒されて声も出ない。
「そうやって悪い奴を裁いていくことにしたんだけどさ。現在進行形で悪いことをしている奴って、やっぱり後ろ暗いんだろうねー。防犯意識が高かったりしてちょっとやりにくいんだよね。だから私は、過去に悪いことをしたくせに、今は何食わぬ顔でのうのうと生きてる奴をターゲットにすることにしたの。それなら油断しまくってるから、さくっと『ざまぁ』して、カジュアルに楽しめちゃうでしょ? いまは、タイパの時代なんだよね」
彼女は胸を張りながら、事もなげに答えた。私はというと、いつかニュースで見た、「映画よりもショート動画のほうが楽しいよね。タイパもいいし」と主張する、Z世代のインタビューを思い出していた。
「えっと、正義とかではなく? 過去に、カサネさんもつらい経験をしたことがあるから……あなた自身がサバイバーで、サバイバーに共感して、彼らを救いたいからこういうことをしているわけではないの?」
私が尋ねると、カサネは意外なことを聞いたかのように大きく目を見開いた。それから、お腹を抱えて、ケラケラと無作法に笑い始めた。
「正義!? 正義って、お姉さん、さすがにおもしろすぎる! ないよ。私には、悲しい過去も正義感もなんもないよ? ただただ、快楽を満たしたいだけ。それで、過去に悪いことをしたやつをからかうのがタイパがいいから、サバイバーに接近してるだけ。それだけだよ」
彼女は私が出してあげた麦茶を一口飲んだ。そして、明らかにマズそうな顔をして、顔をしかめた。
「お姉さんもだけど、最近の人って「正義」とか好きだよね。私、それが不思議でならないよ。私はさ、正義とか善とか道徳とか……そんなものは“風土病”に過ぎないと思えて仕方ないんだよね」
「風土病? 正義が?」
悲しい過去も何もないと主張する彼女を前に私は激しく混乱する。いったい、これはどういうことだ。「正義」を軽んじている彼女がよくわからず、私は少し怖くなる。
「そう。風土病。お姉さんは、きちんと学校で日本史とか世界史の勉強をしたでしょ? それで学ばなかったのかな? 正義とか善っていうもんは、いつもいつも揺らいできてたって。つい最近の日本では、父親のいうことを聞いて、結婚後は夫に従って、年を取ったら息子のいうことを聞く女性が“三従四徳”とかって、道徳心のある素晴らしい女性ってことになってたし……あとは、あれだ。戦時中は天皇陛下万歳なんていって特攻することが、強さであり正しさであり正義だったりしたわけだよ」
一気にまくしたてるように言ってカサネは軽く息を吐いて、さらに言葉を続ける。
「正義や道徳なんてもんは、時代や地域によって異なるもんなの。過去にも絶対的な“正義”や“正しさ”なんてなかったし、未来にだってそんなもんは登場しない! だからね、正義も道徳も、「風土病」や「はやり病」に過ぎないの」
くすっと楽しそうにカサネは笑う。私は彼女の言っていることが理解できない。絶対的な正義がない? だからといって、正義や道徳を軽視してもいいものだろうか。私は彼女のことばを聞いていて、心がざわざわとする。
そんなのはおかしい。彼女のいうことは間違っている。もしも、みんながみんな好き放題に動いたらどうなる? この社会なんてものは維持できなくなってしまう。みんながよりよく生活するために「道徳」といった規範は大事なはずだ。
しかし――。
しかし、その“正しさ”とやらは、今日まで一度でも私を救ってくれただろうか?
「悪いことをした人には、いつか必ず天罰が下ります」「真面目に耐えていれば、いつか報われます」……そんな教科書通りの綺麗な言葉が、私の傷を癒やしてくれただろうか。現実はどうだ。
「ねえ、お姉さん。“正しいこと”や“綺麗ごと”を信じて我慢し続けた結果が、今のこの部屋なんでしょ? 空っぽなこの部屋なんでしょ? だからさ、教えてよ。お姉さんのことを苦しめた人の名前と何をされたのか。楽しい楽しいお仕置きをしてあげようよ! 正義なんか大事にしてないで、スカっとしよう!」
私はカサネのらんらんと輝く大きな瞳を見つめながら、深く、静かに息を吸い込んだ。
私の本名も住所も瞬時に調べ上げてみせた彼女だ。その卓越した執念と技術は本物だろう。彼女は本気で、沙知子にえげつない牙を剥くつもりなのだ。それも「正義」や「善」や「同情心を満たす」といったようなまっとうな理由ではなく、「自分の快楽を満たしたい」というよくない理由で。
それは間違っている。間違っているのはわかっているのに……
「高校二年生のときの同級生に、林沙知子という子がいたんです。その子は……」
私はゆっくりと、しかし堰を切ったように、沙知子に奪われ続けた暗黒の2年間のすべてを、カサネに向かって語り始めていた。



