その夜。お風呂に入っても、布団に潜り込んでも、胸のざわつきは一向に収まらなかった。昼間にスマホで見た、沙知子のまばゆい笑顔の残像が脳裏に焼き付いて離れない。息が詰まりそうで、私はスマホを掴み、誰にも教えていない「アカウント」を開いた。
『クズすぎる』『しにたい』『消えたい』『おかしい』
『ねぇ、加害者が幸福にしてるなら、被害者はどうやって生きていけばいいの?』
『無理すぎる』『世の中、おかしい』『消えたい』
『どうしてあいつが楽しそうにしてて、私はみじめなままなの?』
『高校時代のことに今でも執着してるなんて、バカみたい』『どうしたらいいの?』
心の底に溜まった泥のような呪詛を、指先で一気に書き殴る。
ストレスが溜まったらカラオケに行って大声で叫ぶ人がいるという。きっと私は、それに近い。一応は公共の場であるネットの片隅で、世界の理不尽を大声で罵倒するのが、なぜだか堪らなく気持ちよかったのだ。
この行為には何の意味もないし、建設的な目的もない。虚無だ。虚無な時間を過ごしていると思うが、それでも、私はやめられない。
『死にたい』『消えたい』『全部なかったことにしたい』
ひたすらにネガティブでどうしようもない愚痴を縷々と書き連ねる。もしも、心が通じあっている友人がいたら、こんなアカウントは不要だったのかもしれない。しかし、私にはそんな相手がいないから、世界の片隅で愚痴を叫ぶしかできない。
たまに、通知のマークがつくことがある。
最初の頃は心臓が跳ね上がっていたけれど、今ではもう慣れっこだった。
「死にたい」というワードを投稿すると、それに自動で反応するように設定されているアカウントから機械的にメッセージが届くのだ。その大半は、「出会い」を目的とした男たちだ。
ピコン、ピコン……。
今日もまた、画面の上部で通知が跳ねた。
(また、いつものだろうな……)
とりあえず通知マークが視界に入るのがうっとうしくて、私はそれを削除するために指を動かした。しかし、通知のプレビュー画面に目を走らせた瞬間、ピタリと指が止まった。
そこに並んでいた文字列は、見飽きた紋切り型の誘い文句とは異なっていた。
「ねぇ、なんか面白そうなことになってるね。50万円払ってくれるなら、あなたをそんなにしたやつをボロボロにしてあげるよ」
50万円、という生々しい金額。そして、あなたをそんなにした奴をボロボロにする、という冷徹な宣言。私は思わず鼻で笑ってしまった。バカバカしい。どうせ新手の詐欺か何かのメッセージだろう。
私は小さく息を吐き出すと、そのメッセージを既読スルーしたまま、再び社会への呪詛をタイムラインに書き連ねようとした。
けれど、一度思考に水を差されてしまったからだろうか。さっきまでのようにスイスイと汚い言葉が湧き出てこない。指先が画面の上で迷子になる。
諦めてスマホを充電器に繋ぎ、サイドテーブルに放り出した。
もう寝よう。寝てしまおう。明日も、朝からあのすり減るような派遣の仕事があるのだから。
しかし、目をつぶっても、一向に眠気は訪れなかった。
『おめでとう!』『おめでとう!』『おめでとう!』『おめでとう!』『おめでとう!』『おめでとう!』『おめでとう!』『おめでとう!』『おめでとう!』『おめでとう!』『おめでとう!』『おめでとう!』『おめでとう!』『おめでとう!』
……暗闇の中で、昼間に見た沙知子の笑顔と、大量の「おめでとう」の祝福の声が脳を埋め尽くす。
(……ちょっとだけ、からかってみようかな)
気づけば私は、寝返りを打って再びスマホを手に取っていた。
どうせ今夜は眠れそうにないのだ。眠れない長い夜の、ほんの退屈しのぎの娯楽として、あのスパムに返事をしてみることにした。
『ボロボロにするって、どういうことですか? たった、50万でいいんですか!? とても興味があります』
騙されたふりを装って、メッセージを入力し、送信ボタンを押した。
さて、どんな返事が返ってくるだろう。AIに無理やり書かせたような、あるいは自動翻訳にかけたような、ちぐはぐで不自然な日本語だろうか。だが、すぐに届いた返信は、私の予想とは違っていた。
『あなたがされたことを、そのままやり返す。もしも、あなたがその人に餓死させられかけたなら、その人を餓死寸前まで追い詰める。片腕を奪われたなら、片腕を奪う。未来を奪われたなら、その人の未来を台無しにする』
ずいぶんと苛烈な内容だ。高校時代の世界史の授業で習った、古い法律のフレーズがふいに頭をよぎる。――「目には目を、歯には歯を」の記述で知られる、ハンムラビ法典だ。
そんな不穏な思考を巡らせていると、ピコン、と新たな通知が弾けた。連投されてきたメッセージを、私は息を呑んで見つめる。
『私はね、あなたみたいな人だけを救いたいと思ってるんだ。ACEサバイバーだけを対象にしている復讐屋だから』
『ACEサバイバー?』
疑問符だけをつけたメッセージを送る。
『Adverse Childhood Experiences――
要はね、18歳未満の子どものときに、いじめや虐待っていう“トラウマ”になるような体験をした人のこと。
そんなトラウマを生き延びて、今も人生を送っている人たちのことを“ACEサバイバー”というんだよ。あなたもそうでしょ?』
「トラウマを、生き延びた……」
その言葉に、視線が強く吸い寄せられた。
そうか。私は、あの地獄を生き延びたサバイバーなのか。そして10年経った今もなお、あの傷を抱えたまま、ただ生き長らえている……そういう状態にあるということなのだろうか。
『知ってる? 幼少期に過酷な体験をしちゃった人って、その後の人生でもずっと損をしちゃうんだって。
人との関係をうまく構築できなくて孤立しがち。
そのせいで精神を病んだり、よい就職ができなかったりしちゃうんだよ』
暗闇の中でメッセージを見つめながら、私はフッと鼻先で笑った。
(なるほど。そういう流れね……)
よくある手口だ。こうして不安を煽り、弱みに付け込んで、最終的には高額な自己啓発セミナーや怪しい商品に勧誘するわけだ。
しかしその一方で、私の現状をあまりに正確に言い当てられたようで、「ACEサバイバー」という見知らぬ概念に、ほんのわずかに興味を惹かれてしまったのも事実だった。
『ねぇ、あなたのつぶやきを見る限り、高校時代に何かあったんでしょ? そのトラウマが今も苦しいんでしょ? そのトラウマ、私が楽にしてあげるよ』
『トラウマを楽に?』
『あなたは許せないんでしょ?
あなたの人生を台無しにしたやつが、今も楽しそうに笑っているなんて。
その笑顔を、めちゃくちゃにして、ぐちゃぐちゃにしてやろうよ。
二度と笑えないように。溜まったツケを払ってもらわないと。そしたら、あなたのトラウマも少しは楽になるよ』
ドクン、と心臓が嫌な音を立てた。胸の奥がざわつく。なんとなく落ち着かない気持ちになって、メッセージをするのが嫌になった。
「もういいや。終わりにしよう。バカバカしい」
私はそのアカウントをブロックした。そのまま、私はスマホをテーブルに置き、布団を頭から深く被った。
『クズすぎる』『しにたい』『消えたい』『おかしい』
『ねぇ、加害者が幸福にしてるなら、被害者はどうやって生きていけばいいの?』
『無理すぎる』『世の中、おかしい』『消えたい』
『どうしてあいつが楽しそうにしてて、私はみじめなままなの?』
『高校時代のことに今でも執着してるなんて、バカみたい』『どうしたらいいの?』
心の底に溜まった泥のような呪詛を、指先で一気に書き殴る。
ストレスが溜まったらカラオケに行って大声で叫ぶ人がいるという。きっと私は、それに近い。一応は公共の場であるネットの片隅で、世界の理不尽を大声で罵倒するのが、なぜだか堪らなく気持ちよかったのだ。
この行為には何の意味もないし、建設的な目的もない。虚無だ。虚無な時間を過ごしていると思うが、それでも、私はやめられない。
『死にたい』『消えたい』『全部なかったことにしたい』
ひたすらにネガティブでどうしようもない愚痴を縷々と書き連ねる。もしも、心が通じあっている友人がいたら、こんなアカウントは不要だったのかもしれない。しかし、私にはそんな相手がいないから、世界の片隅で愚痴を叫ぶしかできない。
たまに、通知のマークがつくことがある。
最初の頃は心臓が跳ね上がっていたけれど、今ではもう慣れっこだった。
「死にたい」というワードを投稿すると、それに自動で反応するように設定されているアカウントから機械的にメッセージが届くのだ。その大半は、「出会い」を目的とした男たちだ。
ピコン、ピコン……。
今日もまた、画面の上部で通知が跳ねた。
(また、いつものだろうな……)
とりあえず通知マークが視界に入るのがうっとうしくて、私はそれを削除するために指を動かした。しかし、通知のプレビュー画面に目を走らせた瞬間、ピタリと指が止まった。
そこに並んでいた文字列は、見飽きた紋切り型の誘い文句とは異なっていた。
「ねぇ、なんか面白そうなことになってるね。50万円払ってくれるなら、あなたをそんなにしたやつをボロボロにしてあげるよ」
50万円、という生々しい金額。そして、あなたをそんなにした奴をボロボロにする、という冷徹な宣言。私は思わず鼻で笑ってしまった。バカバカしい。どうせ新手の詐欺か何かのメッセージだろう。
私は小さく息を吐き出すと、そのメッセージを既読スルーしたまま、再び社会への呪詛をタイムラインに書き連ねようとした。
けれど、一度思考に水を差されてしまったからだろうか。さっきまでのようにスイスイと汚い言葉が湧き出てこない。指先が画面の上で迷子になる。
諦めてスマホを充電器に繋ぎ、サイドテーブルに放り出した。
もう寝よう。寝てしまおう。明日も、朝からあのすり減るような派遣の仕事があるのだから。
しかし、目をつぶっても、一向に眠気は訪れなかった。
『おめでとう!』『おめでとう!』『おめでとう!』『おめでとう!』『おめでとう!』『おめでとう!』『おめでとう!』『おめでとう!』『おめでとう!』『おめでとう!』『おめでとう!』『おめでとう!』『おめでとう!』『おめでとう!』
……暗闇の中で、昼間に見た沙知子の笑顔と、大量の「おめでとう」の祝福の声が脳を埋め尽くす。
(……ちょっとだけ、からかってみようかな)
気づけば私は、寝返りを打って再びスマホを手に取っていた。
どうせ今夜は眠れそうにないのだ。眠れない長い夜の、ほんの退屈しのぎの娯楽として、あのスパムに返事をしてみることにした。
『ボロボロにするって、どういうことですか? たった、50万でいいんですか!? とても興味があります』
騙されたふりを装って、メッセージを入力し、送信ボタンを押した。
さて、どんな返事が返ってくるだろう。AIに無理やり書かせたような、あるいは自動翻訳にかけたような、ちぐはぐで不自然な日本語だろうか。だが、すぐに届いた返信は、私の予想とは違っていた。
『あなたがされたことを、そのままやり返す。もしも、あなたがその人に餓死させられかけたなら、その人を餓死寸前まで追い詰める。片腕を奪われたなら、片腕を奪う。未来を奪われたなら、その人の未来を台無しにする』
ずいぶんと苛烈な内容だ。高校時代の世界史の授業で習った、古い法律のフレーズがふいに頭をよぎる。――「目には目を、歯には歯を」の記述で知られる、ハンムラビ法典だ。
そんな不穏な思考を巡らせていると、ピコン、と新たな通知が弾けた。連投されてきたメッセージを、私は息を呑んで見つめる。
『私はね、あなたみたいな人だけを救いたいと思ってるんだ。ACEサバイバーだけを対象にしている復讐屋だから』
『ACEサバイバー?』
疑問符だけをつけたメッセージを送る。
『Adverse Childhood Experiences――
要はね、18歳未満の子どものときに、いじめや虐待っていう“トラウマ”になるような体験をした人のこと。
そんなトラウマを生き延びて、今も人生を送っている人たちのことを“ACEサバイバー”というんだよ。あなたもそうでしょ?』
「トラウマを、生き延びた……」
その言葉に、視線が強く吸い寄せられた。
そうか。私は、あの地獄を生き延びたサバイバーなのか。そして10年経った今もなお、あの傷を抱えたまま、ただ生き長らえている……そういう状態にあるということなのだろうか。
『知ってる? 幼少期に過酷な体験をしちゃった人って、その後の人生でもずっと損をしちゃうんだって。
人との関係をうまく構築できなくて孤立しがち。
そのせいで精神を病んだり、よい就職ができなかったりしちゃうんだよ』
暗闇の中でメッセージを見つめながら、私はフッと鼻先で笑った。
(なるほど。そういう流れね……)
よくある手口だ。こうして不安を煽り、弱みに付け込んで、最終的には高額な自己啓発セミナーや怪しい商品に勧誘するわけだ。
しかしその一方で、私の現状をあまりに正確に言い当てられたようで、「ACEサバイバー」という見知らぬ概念に、ほんのわずかに興味を惹かれてしまったのも事実だった。
『ねぇ、あなたのつぶやきを見る限り、高校時代に何かあったんでしょ? そのトラウマが今も苦しいんでしょ? そのトラウマ、私が楽にしてあげるよ』
『トラウマを楽に?』
『あなたは許せないんでしょ?
あなたの人生を台無しにしたやつが、今も楽しそうに笑っているなんて。
その笑顔を、めちゃくちゃにして、ぐちゃぐちゃにしてやろうよ。
二度と笑えないように。溜まったツケを払ってもらわないと。そしたら、あなたのトラウマも少しは楽になるよ』
ドクン、と心臓が嫌な音を立てた。胸の奥がざわつく。なんとなく落ち着かない気持ちになって、メッセージをするのが嫌になった。
「もういいや。終わりにしよう。バカバカしい」
私はそのアカウントをブロックした。そのまま、私はスマホをテーブルに置き、布団を頭から深く被った。



