「どうして! どうして?」
仕事の昼休み。オフィスのデスクで何気なくスマホを開き、SNSのおすすめ欄をスクロールしていた私は、喉元まで出かかった叫びを懸命に抑え込んだ。
指先がガタガタと震える。一度、深く呼吸を整えてから、恐る恐るもう一度画面を見つめた。
『今日はみんなに報告があります! たっくんからプロポーズされました。最高に幸せです!』
そんな文字列とともに、10年過ぎた今でも忘れられない、沙知子の満面の笑みがあった。豪華なホテルのラウンジ、大きな花束、婚約指輪の写真……そんな美しいものが画面を埋め尽くしている。
その投稿には、呆れるほどの「いいね」と、祝福のコメントが群がっていた。
『おめでとう!』『ずっと見守ってきたから私まで嬉しい』『本当にお似合いの二人』『結婚式、絶対呼んでね!』
お気楽な言葉を並べるアカウントの中には、大学時代の知人の名前もあった。だから私のおすすめに表示されてしまったのだろう。
「どうして……許せない」
視界が歪むほどの怒りと嫌悪感に駆られ、すぐに沙知子のアカウントをブロックした。しかし、一度火がついた心の動揺は、収まってはくれなかった。
午後からの仕事は、完全に上の空だった。
パソコンの画面に向かってキーボードを叩いていても、指先が不意にピタリと止まる。耳の奥で、10年前の教室の喧騒が、あの耳障りで甲高い笑い声が、生々しく蘇ってくるのだ。
『ねえ、美奈子ってさ、ちょっとおかしいとこあるよね』『将来もみんなから嫌われていきそう!』
私の机に腰掛け、上から見下ろすように冷たい視線を向けてきた沙知子。周りで「確かにー」と言いながら、冗談っぽく笑っている同級生たち。「そうかな。気を付けるね。ごめんね」としか言えなかった、あの頃の私。そんな嫌な記憶が生々しく再生される……。
「――緑川さん? 頼んでいたデータの修正、水曜日までにお願いできる?」
先輩社員の高子さんの声にハッとして、私は現実へと引き戻された。
「あ、すみません! すぐやります!」
反射的に何度も頭を下げながら、背中に嫌な汗が伝うのを感じる。高子さんは不思議そうな表情を浮かべ、「えっと、そんなに急がなくても大丈夫だからね」と言い添えて、自身の作業に戻っていった。
彼女の気遣うような態度に、胸の奥がチクリと痛み、申し訳なさでいっぱいになる。
(また、過剰反応をしてしまった……)
相手の顔色を窺い、必要以上に怯えてペコペコしてしまうこの卑屈な態度。これもすべて、あの頃に沙知子から植え付けられた後遺症だ。
・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・
今からもう、10年も昔のことになる。
当時、高校2年生だった私は、クラスで「いじめ」のようなものを受けていた。
“のようなもの”と濁してしまうのは、自分でも、あれを100%「いじめ」と呼んでいいのか、未だに確信が持てないからだ。殴られたわけでも、机に落書きをされたわけでもない。ただ、私の世界が少しずつ、確実に削り取られていくような、そんな時間だった。
私が通っていたのは、少人数教育を売り文句にしているミッション系の私立女子高だった。海外の教育方針を取り入れているとかで、1クラスの人数はわずか18人しかいなかった。
沙知子に出会ったのは、その2年生の始業式の日。席が隣同士になったことがきっかけだった。
「ねぇ、大学ってどこ行く予定?」
そんな他愛のない会話から始まって、授業の愚痴や進路の話、先生の噂話……。気づけば私たちは、友人になっていた。ふわふわとした柔らかそうな髪に、大きな瞳。
よく笑う快活な沙知子は、親しみやすく、私は彼女のことをとても大切に思うようになっていた。
男がいない女子高では、スクールカーストなんてものは存在していなかったけれど、私は「こういう子を一軍っていうんだろうな」と、そんなふうに感じることがあった。
さらにいえば、そんな彼女と親しくなれたことが、当時の私には少し誇らしかった。
やがて沙知子は、クラス内のかわいい子やおしゃれな子たちにも声をかけ始め、私を含めた5人のグループが出来上がった。友達作りが得意ではない私は、自分の居場所が見つかった幸福に浸っていた。
けれど、その幸福は長くは続かなかった。
(これ、失敗したかもな……)
5月も中旬を過ぎる頃、私は沙知子のグループにいることに、息苦しさを覚え始めていた。
私以外のメンバーは、校則のボーダーラインを見極めてメイクを楽しんだり、休日に「盛れた」自撮り写真を送り合ったりするような、華やかな世界に生きる子たちだった。私もおしゃれに人並みの興味はあったけれど、彼女たちの熱量にはどうしてもついていけなかった。
グループの中で、私だけが明らかに浮いている。そんな疎外感を抱くことが増え、沙知子たちもまた、私のことを「自分たちとは違うタイプ」と認識しているようだった。
「ていうか、ほんと美奈子ってダサいよ」
「そのペンケースはないわ。美奈子の持ち物って、なんかおばさんっぽい」
「てか、その眉毛、おかしくない?」
「ちょっと太ったよねー」
“いじる”という名目だった。彼女たちは私の持ち物や体型、顔のパーツを「それはない」「違う」と笑いものにすることが日常茶飯事になった。友人同士の冗談だと思おうとしたけれど、グループ内に存在する明らかな『身分差』に、私の心は窒息しかけていた。
5月にもなると、1クラス18人という狭い教室内は、
「アニメ好きな子たちのグループ」
「お金持ちな子たちのグループ」
「勉強を頑張っている子たちのグループ」というように、
仲良しの固定グループへ完全に分かれてしまっていた。こうなってくると、別のグループへ移ることはかなり困難だ。
それでも、沙知子たちといることに限界を感じた私は、少しずつ「アニメ好きな子たち」のグループに接近することにした。
私は熱狂的なオタクというわけではなかったけれど、人気作品くらいは観ていた。何より、そのグループには大人しくて真面目な子たちが集まっていて、校則をきちんと守り、好きなことをして遊びながらもテストの点数を競い合うような、私にとって居心地のいい空気を持っていた。
(私は、たぶん最初からあのグループに入るべきだったんだろうな)
そう思った私は、彼女たちの輪に近づき、「そのアニメ、私も観たよ」「リュックにつけてるそれ、××って作品のやつだよね」と少しずつ話しかけるようになった。彼女たちも穏やかに私を受け入れてくれているようだったので、このまま沙知子たちとの交流をフェードアウトさせていこう。そう安心しかけていた、ある日の昼休みだった。
「やばww このニュース見て!! アニメのキャラクターと結婚した男の人がいるんだって!!」
スマホを見ていた沙知子が、突然、静かな教室に甲高い声を響かせた。彼女は自分のスマホの画面を、わざとらしく私たちのほうに向けた。そこには、某人気キャラクターの等身大フィギュアと並んで、幸福そうに微笑む男性の写真が表示されている。
なんでも彼は、不登校だった高校生の頃にそのアニメに救われ、キャラクターを「妻」として愛するようになり、本物の結婚式場を借りて式を挙げた……という内容のニュースだった。
「うわー。気持ち悪い。犯罪者じゃない?」
「ヤバくない? 現実を見ろよって感じするよねー。ていうかさ、高校生にもなって、アニメとかマンガのキャラクターにマジになってるようなキモイやつだから、不登校にもなったんだろww」
沙知子に同意を示すように、グループの子たちが口々にはやし立てる。沙知子は満足そうに笑みを浮かべながら、「ほんと、ほんと」と頷いていた。
私は、「アニメ好きのグループ」の子たちのことが気になって仕方がなかった。なんとも言えずに、ただ顔を強張らせて愛想笑いをするしかなかった。早くこの話題を終わらせてほしい。心の底からそう願っていた。
しかし、沙知子は暴走をやめなかった。彼女はアニメ好きな子たちの机をチラチラと見やりながら、わざと教室中に響き渡る大声で言った。
「現実の異性に相手にされないから二次元に逃げてんのかな? 二次元のキャラを恋人とか言ってる人って犯罪者みたいだし、自分を磨く努力をしていない感じで、ほんとに無理! 地味で陰湿な感じして、存在がうっとうしいよね」
私はぞわっとした。沙知子がアニメやマンガをなぜ非難するのかが理解できなかった。グループの子たちは、面白そうに笑っているが、私は引きつった苦笑いをすることしかできずにいた。しかし、そんな態度を沙知子は許さなかった。
「美奈子もそう思うでしょ? アニメとかゲームのキャラクターを恋人とか推しとか嫁とか言ってるのって、気持ち悪いよね?」
沙知子たちは、まっすぐに私を見据え、威圧するように問いかけてきた。
アニメ好きのグループの子たちの意識が、私に向いているような気がした。彼女たちは私たちの声が聞こえているはずの距離にいるのに、聞こえないふりをしながら、授業の話か何かを続けていた。
私は、彼女たちのことを思うなら、「そんなことない」とはっきり否定すべきだったのだろう。
しかし、当時の私には、その一言を絞り出す勇気がなかった。
「うーん。そうかもね……」
口をついて出たのは、自分の本心とは真逆の、卑屈な言葉だった。沙知子の放つ圧倒的な暴力性を前に、私はただ愛想笑いを浮かべて、その場をやり過ごすことしかできなかったのだ。
「そうだよね! よかった。やっぱり、美奈子も無理か! オタク文化を理解したいし、陰気な子にも歩み寄りたいとか言ってたけど、やっぱり理解できなかったんだね!」
私は驚く。「オタク文化を理解したい」とも「陰気な子に歩み寄りたい」なんてことも言ったことはない。私は、否定しようとしたが、沙知子は嬉しそうに、笑みを浮かべると、すぐに「有名人がInstagramで紹介していたカフェに行きたい」という、別の軽い話題へと移っていった。私は、沙知子の発言を否定できなかった。
そして、その日の放課後のことだ。
帰ろうとして下駄箱に向かった私は、そこにアニメ好きなクラスメイトたちの姿を見つけた。彼女たちは、楽しそうに笑いながら、他愛ない雑談をしていた。私は、昼休みのことを謝ろうと一歩を踏み出した。
しかし、彼女たちは私の姿が視界に入った瞬間、それまで楽しそうに弾ませていた声をピタリと止め、ふいっと笑顔を消して無表情になった。そして、何か小声で囁きあったかと思うと、誰が誘うでもなく、昇降口から去って行ってしまった。とてもじゃないが、話しかけられる雰囲気ではなかった。
『もう私たちのところには来ないで。あんなことを言ったんだから』
向けられた冷ややかな態度は、私への明確な絶縁状だった。彼女たちには私が、オタクを見下して、からかい半分で自分たちに接近してきた“スパイ”のように誤解したのだろう。
それからも、沙知子の暴走は止まらなかった。そのせいで、私はクラスの他のグループに入れてもらうことが困難になった。
「アニメなんてバカバカしい」「勉強ばかりして青春を楽しまないなんてもったいない。ガリ勉って本当にバカみたい」「高いブランドを身に着けるのって、おばさんみたい」「あのブランドってダサいよね」
沙知子は、自分以外のグループが大切にしているものを休み時間に否定するようになったのだ。
当然、そんな沙知子の態度は、クラスのあらゆるグループから激しいヘイトを買った。
アニメ好きも、お金持ちのグループも、勉強を頑張っているグループも、全員が私たちから距離を置きたがっていた。それぞれのグループ同士はそれなりに関わりを持っていて、交流があるのに、私たちのグループにだけは、用事がない限り誰も話しかけてこない。
1クラス18人の狭い教室。
明確なスクールカーストがない代わりに、そこは群雄割拠の「独立国」が並び立つ世界だった。そして沙知子率いる私たちのグループは、周囲の全てを敵に回して孤立した「鎖国国家」と化していた。
そんな場所からは今すぐ亡命してしまえばよかったのかもしれない。けれど、一度居場所を失えば、この狭い教室で誰も話しかけてくれない「難民」になってしまう。高校2年生は修学旅行もあるし、グループワークもたくさんある。そのときに組む相手がいなくなることが私は怖かった。
その恐怖に怯える私は、沙知子の顔色を窺い、グループにしがみ付くしかなかった。
沙知子は私をそうやってグループに縛り付け、逃げ道を塞いでおきながら、私への扱いは相変わらず辛辣だった。
「この間、みんなで行ったお店、すごくよかったよねー」
週明け、私以外の4人が、週末に話題のカフェへ行っていたことを楽しそうに話し出す。
「あ、それつけてくれてるんだ。私がみんなにお土産で買ってきたやつ」
気がつけば、私以外の4人のスクールバッグに、お揃いのストラップが揺れている。
「ねぇねぇ、英語の宿題見せてよ」
彼女たちが宿題をサボるたび、私が必死に解いてきた課題を当然のように奪い取り、丸写しして提出する。
「ていうか、本当に美奈子って変だよ。何その返事」
私の何気ない一言の言葉尻を捕らえては、私の人格そのものがおかしいかのように、みんなで寄ってたかって囃し立てる。
もしも、いつもいつも露骨にのけ者にされているのなら、私もあれを「いじめ」だと確信できただろう。しかし、沙知子は違った。
次の週には何事もなかったかのように私を遊びに誘うこともあったし、グループの子たちが私にお土産やお揃いのプレゼントを買ってくることもあったのだ。
ときたま。たまたま。うっかり。
「わざとじゃないからね!」という卑怯な言い訳の余地を残しながら、彼女は私を、ゆっくりと、確実に迫害していったのだ。逃げることも、声をあげることも許されない、生殺しの地獄だった。
しかも不幸なことに、私の通う学校は、高校2年生から3年生にかけてクラス替えがなかった。1年生の段階で希望進路を絞り、それに合わせたカリキュラムを2年間かけて行うシステムだったため、私は沙知子たちと丸々2年間、付き合わされることになった。
彼女たちの気まぐれな残酷さは、私の自尊心を容赦なくすり減らしていった。
「変だ」「おかしい」と毎日言われ続けているうちに、私は完全に自信を失い、いつしか常に怯え、おどおどと他人の顔色ばかりを窺うようになっていた。「自分が好き!」よりも「みんなはどうしているか?」ばかりを大切にするように刷り込まれていった。
(どうして。どうして沙知子は私にこんなことをするのだろうか。私が何か悪いことをしたのだろうか。嫌なら、私がアニメ好きのグループに移るのを邪魔しないでほしかった)
嫌なことをされるたびに、私は自問自答を繰り返した。なぜ? なぜ? 私の何がダメなの?
その歪んだ問いへの答えがようやく分かったのは、高校3年生の秋のことだった。
「ねえ聞いて! 私、進脩館(しんしゅうかん)大学に推薦で行けることになった!」
受験シーズンが本格化し始めた教室で、沙知子が弾んだ声で言った。
進脩館大学といえば、都内でもトップクラスに君臨する難関私立大学だ。「私学の雄」「最強の私大」などと称されるその超名門校に、成績も素行も「中の中」程度でしかない沙知子が合格できるはずがなかった。
「えー! すごい! いいな!」
「進脩館って、お金持ちのイケメンが多いんでしょ? いい男がいたら紹介してよ!」
グループの子たちが黄色い声をあげて祝福する中、私の頭の中は激しい疑問符で埋め尽くされていた。真面目に努力しているとはお世辞にも言えない沙知子が、なぜ推薦をもらえるのか。意味が分からなかった。すると、沙知子はけらけらと下品な笑い声をあげて、私の方を振り返った。
「ほんと、美奈子のおかげだよー! 宿題とか課題をしっかり写させてくれてたから、私、評定だけは良くて『すごく意欲のある生徒』ってことになってるし。あと、あれもよかったよね! 美奈子がみんなのために夜遅くまで頑張ってくれた、あのグループ発表! あの発表の評価がめちゃくちゃ高かったから、私、推薦枠を勝ち取れたんだよね」
沙知子は悪びれもせず、むしろ手柄話のようにそう説明した。
私は、あまりの嫌悪感に吐き気がした。
高校2年生の時から、沙知子は一切宿題をしてこなかった。「一緒にやろう」と甘い声で近づいてきては、私が解いた課題を丸写しにして提出していたのだ。作文の課題すらそのままコピーしようとするものだから、私は自分の文章が盗作だと疑われないよう、提出直前に自分の課題を書き直す羽目になったことすらあった。
一番酷かったのは、そのグループ発表だ。
沙知子を筆頭に、私以外のメンバーは全員、調べ学習や資料作りをサボり倒した。そのくせ本番のステージに立つと、沙知子はさも「自分が寝ずに全てを調べ上げました」と言わんばかりの堂々とした態度で、私が書いた原稿を読み上げたのだ。教壇の先生が、そんな彼女のハッタリに騙され、感心したように深く頷いていた光景が、今でも鮮明に脳裏に焼き付いている。
(1つも。1つだって、沙知子はやっていないのに……!)
叫びたかった。先生のところへ走っていって、彼女の嘘を全てぶちまけ、その進路を台無しにしてやりたいとすら思った。ずるい。理不尽だ。こんなことが許されていいはずがない。
しかし、怯えきった私の口から出たのは、いつもの卑屈な言葉だった。
「そうなんだ。よかったよね……」
普段通りのトーンを意識して、おめでとうの形をした言葉を差し出す。
沙知子にとって、私は友人でも何でもなかった。最初から最後まで、自分の人生を飾るための、ただの都合のいい「便利な道具」に過ぎなかったのだ。だから、私が他のグループに移るのを邪魔したのだ。便利な道具を失いたくないから。
その決定的な事実をはっきりと突きつけられたのは、卒業式の日のことだった。
沙知子は、私と離れ離れになるのが寂しい、と涙を浮かべた直後、笑顔でこう言い放った。
「ほんと寂しくなるし、これからどうしようって感じ。大学でも、美奈子みたいに“優しい使える子”に出会えたらいいなーー!!」
「ちょ、言い方ww ヤバない?」
取り巻きの一人が笑いながら突っ込み、沙知子も一緒になって声をあげて笑った。
その後、彼女たちは卒業記念にと予約していた高級ホテルのアフタヌーンティーへ行くため、楽しそうに教室を出て行った。私は当然のように誘われなかったし、最初から予約の人数にすら入っていなかった。
ひどい。ひどい。ひどい。
教室に一人取り残されながら、しかし私の中には、涙よりも先に、泥のような「安堵」が広がっていった。
――やっと、終わった。やっと、解放された。
惨めではあったけれど、もう二度と彼女の顔色を窺わなくていいのだという事実に、私は確かに救われていた。
私の学力では、結局、中の上・上の下レベルの私立大学にしか合格できなかった。沙知子が進学する大学よりも、2ランクは落ちる大学だ。その格差が悔しくはあったけれど、「でも、きっと大丈夫」と自分に言い聞かせた。
「だって、ずるをして入った大学だもん。沙知子の実力に見合っていないんだから、絶対に授業で苦労するはず。もしかしたら留年して、中退するかもしれない」
そう思いながら、私は新しく始まる大学生活に思いを馳せた。
ずるをした悪人には、必ずそれ相応の報いがあるはずだ。あんな女が、この先もうまくいくはずがない……そう信じることだけが、私が正気を保つための、唯一の縋り目だった。
――それなのに。
結局、沙知子に「ずるの報い」なんてどこにも訪れなかった。彼女は進脩館大学を何事もなく普通に卒業し、誰もが知る優良企業に就職したようだった。そして大学時代か、あるいは就職後に出会った、誰もが羨むような経済力のある男性と出会い、婚約したのだ。
一方、私の人生は、どこまでも坂道を転げ落ちていった。
大学に入学したあと、私にもそれなりに友人はできた。
しかし、沙知子たちに「おかしい」「ヘンだ」と言われ続けた後遺症は根深く、なかなか自分自身を出すことができずにいた。顔色を窺い、自己主張をしない私。そんな私に、周囲の友人たちも、なかなか心を完全に開いてはくれなかった。どこかうっすらと壁のある付き合いをすることになった。
それでも、大学2年生になる頃には、「おかしかったのは沙知子たちの方だ。周囲の人たちは、みんな私に優しくしてくれる」と思えるようになり、少しずつ、少しずつ心を開くことができるようになっていた。ようやく、私の世界に光が差し込み始めていたのだ。
けれど、世界は一瞬で反転した。
「ねぇ、ニュース見た? 中国で怖い感染症が流行してるんだって。日本には来ないよね? すごく怖いね」
そんな話を友人たちと交わしているうちに、あれよあれよという間にその未知の感染症―コロナウィルス―は、日本中へと広がっていった。
「三つの密」を避けようと叫ばれ、不要不急の外出は制限され、人と人とのリアルな交流は完全に断たれた。大学の講義もイベントもすべてが中止となり、画面越しのリモート授業へと切り替わった。せっかく縮まり始めていた友人たちとの距離は、物理的な壁によって再び遠ざけられてしまった。
そして、その未曾有の大災害は、私の未来をも無慈悲に奪っていった。
世の中の景気は一気に冷え込み、就職活動は一転して氷河期のような難化を見せた。「上の下」から「中の上」レベルの私立大学である私の学歴では、書類選考すら落とされる日々。何より、自分をアピールするのが致命的に苦手な私にとって、表情や空気感が伝わりにくい「リモート面接」は地獄でしかなかった。画面の向こうの面接官の顔色を過剰に窺っては言葉に詰まり、自滅していく。
結果、私はまともな正社員としての職を得られず、大学卒業後は派遣社員として働くことになった。
(なんなんだろ? どうして? 世の中、おかしくない?)
他人の努力を盗み、心を徹底的に踏みにじってきた沙知子は、一流の経歴とエリートの婚約者を両手に抱えて、幸せの絶頂で笑っている。
神様なんて、いない。この世界の仕組みは、救いようがないほど間違っている。
仕事の昼休み。オフィスのデスクで何気なくスマホを開き、SNSのおすすめ欄をスクロールしていた私は、喉元まで出かかった叫びを懸命に抑え込んだ。
指先がガタガタと震える。一度、深く呼吸を整えてから、恐る恐るもう一度画面を見つめた。
『今日はみんなに報告があります! たっくんからプロポーズされました。最高に幸せです!』
そんな文字列とともに、10年過ぎた今でも忘れられない、沙知子の満面の笑みがあった。豪華なホテルのラウンジ、大きな花束、婚約指輪の写真……そんな美しいものが画面を埋め尽くしている。
その投稿には、呆れるほどの「いいね」と、祝福のコメントが群がっていた。
『おめでとう!』『ずっと見守ってきたから私まで嬉しい』『本当にお似合いの二人』『結婚式、絶対呼んでね!』
お気楽な言葉を並べるアカウントの中には、大学時代の知人の名前もあった。だから私のおすすめに表示されてしまったのだろう。
「どうして……許せない」
視界が歪むほどの怒りと嫌悪感に駆られ、すぐに沙知子のアカウントをブロックした。しかし、一度火がついた心の動揺は、収まってはくれなかった。
午後からの仕事は、完全に上の空だった。
パソコンの画面に向かってキーボードを叩いていても、指先が不意にピタリと止まる。耳の奥で、10年前の教室の喧騒が、あの耳障りで甲高い笑い声が、生々しく蘇ってくるのだ。
『ねえ、美奈子ってさ、ちょっとおかしいとこあるよね』『将来もみんなから嫌われていきそう!』
私の机に腰掛け、上から見下ろすように冷たい視線を向けてきた沙知子。周りで「確かにー」と言いながら、冗談っぽく笑っている同級生たち。「そうかな。気を付けるね。ごめんね」としか言えなかった、あの頃の私。そんな嫌な記憶が生々しく再生される……。
「――緑川さん? 頼んでいたデータの修正、水曜日までにお願いできる?」
先輩社員の高子さんの声にハッとして、私は現実へと引き戻された。
「あ、すみません! すぐやります!」
反射的に何度も頭を下げながら、背中に嫌な汗が伝うのを感じる。高子さんは不思議そうな表情を浮かべ、「えっと、そんなに急がなくても大丈夫だからね」と言い添えて、自身の作業に戻っていった。
彼女の気遣うような態度に、胸の奥がチクリと痛み、申し訳なさでいっぱいになる。
(また、過剰反応をしてしまった……)
相手の顔色を窺い、必要以上に怯えてペコペコしてしまうこの卑屈な態度。これもすべて、あの頃に沙知子から植え付けられた後遺症だ。
・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・-・
今からもう、10年も昔のことになる。
当時、高校2年生だった私は、クラスで「いじめ」のようなものを受けていた。
“のようなもの”と濁してしまうのは、自分でも、あれを100%「いじめ」と呼んでいいのか、未だに確信が持てないからだ。殴られたわけでも、机に落書きをされたわけでもない。ただ、私の世界が少しずつ、確実に削り取られていくような、そんな時間だった。
私が通っていたのは、少人数教育を売り文句にしているミッション系の私立女子高だった。海外の教育方針を取り入れているとかで、1クラスの人数はわずか18人しかいなかった。
沙知子に出会ったのは、その2年生の始業式の日。席が隣同士になったことがきっかけだった。
「ねぇ、大学ってどこ行く予定?」
そんな他愛のない会話から始まって、授業の愚痴や進路の話、先生の噂話……。気づけば私たちは、友人になっていた。ふわふわとした柔らかそうな髪に、大きな瞳。
よく笑う快活な沙知子は、親しみやすく、私は彼女のことをとても大切に思うようになっていた。
男がいない女子高では、スクールカーストなんてものは存在していなかったけれど、私は「こういう子を一軍っていうんだろうな」と、そんなふうに感じることがあった。
さらにいえば、そんな彼女と親しくなれたことが、当時の私には少し誇らしかった。
やがて沙知子は、クラス内のかわいい子やおしゃれな子たちにも声をかけ始め、私を含めた5人のグループが出来上がった。友達作りが得意ではない私は、自分の居場所が見つかった幸福に浸っていた。
けれど、その幸福は長くは続かなかった。
(これ、失敗したかもな……)
5月も中旬を過ぎる頃、私は沙知子のグループにいることに、息苦しさを覚え始めていた。
私以外のメンバーは、校則のボーダーラインを見極めてメイクを楽しんだり、休日に「盛れた」自撮り写真を送り合ったりするような、華やかな世界に生きる子たちだった。私もおしゃれに人並みの興味はあったけれど、彼女たちの熱量にはどうしてもついていけなかった。
グループの中で、私だけが明らかに浮いている。そんな疎外感を抱くことが増え、沙知子たちもまた、私のことを「自分たちとは違うタイプ」と認識しているようだった。
「ていうか、ほんと美奈子ってダサいよ」
「そのペンケースはないわ。美奈子の持ち物って、なんかおばさんっぽい」
「てか、その眉毛、おかしくない?」
「ちょっと太ったよねー」
“いじる”という名目だった。彼女たちは私の持ち物や体型、顔のパーツを「それはない」「違う」と笑いものにすることが日常茶飯事になった。友人同士の冗談だと思おうとしたけれど、グループ内に存在する明らかな『身分差』に、私の心は窒息しかけていた。
5月にもなると、1クラス18人という狭い教室内は、
「アニメ好きな子たちのグループ」
「お金持ちな子たちのグループ」
「勉強を頑張っている子たちのグループ」というように、
仲良しの固定グループへ完全に分かれてしまっていた。こうなってくると、別のグループへ移ることはかなり困難だ。
それでも、沙知子たちといることに限界を感じた私は、少しずつ「アニメ好きな子たち」のグループに接近することにした。
私は熱狂的なオタクというわけではなかったけれど、人気作品くらいは観ていた。何より、そのグループには大人しくて真面目な子たちが集まっていて、校則をきちんと守り、好きなことをして遊びながらもテストの点数を競い合うような、私にとって居心地のいい空気を持っていた。
(私は、たぶん最初からあのグループに入るべきだったんだろうな)
そう思った私は、彼女たちの輪に近づき、「そのアニメ、私も観たよ」「リュックにつけてるそれ、××って作品のやつだよね」と少しずつ話しかけるようになった。彼女たちも穏やかに私を受け入れてくれているようだったので、このまま沙知子たちとの交流をフェードアウトさせていこう。そう安心しかけていた、ある日の昼休みだった。
「やばww このニュース見て!! アニメのキャラクターと結婚した男の人がいるんだって!!」
スマホを見ていた沙知子が、突然、静かな教室に甲高い声を響かせた。彼女は自分のスマホの画面を、わざとらしく私たちのほうに向けた。そこには、某人気キャラクターの等身大フィギュアと並んで、幸福そうに微笑む男性の写真が表示されている。
なんでも彼は、不登校だった高校生の頃にそのアニメに救われ、キャラクターを「妻」として愛するようになり、本物の結婚式場を借りて式を挙げた……という内容のニュースだった。
「うわー。気持ち悪い。犯罪者じゃない?」
「ヤバくない? 現実を見ろよって感じするよねー。ていうかさ、高校生にもなって、アニメとかマンガのキャラクターにマジになってるようなキモイやつだから、不登校にもなったんだろww」
沙知子に同意を示すように、グループの子たちが口々にはやし立てる。沙知子は満足そうに笑みを浮かべながら、「ほんと、ほんと」と頷いていた。
私は、「アニメ好きのグループ」の子たちのことが気になって仕方がなかった。なんとも言えずに、ただ顔を強張らせて愛想笑いをするしかなかった。早くこの話題を終わらせてほしい。心の底からそう願っていた。
しかし、沙知子は暴走をやめなかった。彼女はアニメ好きな子たちの机をチラチラと見やりながら、わざと教室中に響き渡る大声で言った。
「現実の異性に相手にされないから二次元に逃げてんのかな? 二次元のキャラを恋人とか言ってる人って犯罪者みたいだし、自分を磨く努力をしていない感じで、ほんとに無理! 地味で陰湿な感じして、存在がうっとうしいよね」
私はぞわっとした。沙知子がアニメやマンガをなぜ非難するのかが理解できなかった。グループの子たちは、面白そうに笑っているが、私は引きつった苦笑いをすることしかできずにいた。しかし、そんな態度を沙知子は許さなかった。
「美奈子もそう思うでしょ? アニメとかゲームのキャラクターを恋人とか推しとか嫁とか言ってるのって、気持ち悪いよね?」
沙知子たちは、まっすぐに私を見据え、威圧するように問いかけてきた。
アニメ好きのグループの子たちの意識が、私に向いているような気がした。彼女たちは私たちの声が聞こえているはずの距離にいるのに、聞こえないふりをしながら、授業の話か何かを続けていた。
私は、彼女たちのことを思うなら、「そんなことない」とはっきり否定すべきだったのだろう。
しかし、当時の私には、その一言を絞り出す勇気がなかった。
「うーん。そうかもね……」
口をついて出たのは、自分の本心とは真逆の、卑屈な言葉だった。沙知子の放つ圧倒的な暴力性を前に、私はただ愛想笑いを浮かべて、その場をやり過ごすことしかできなかったのだ。
「そうだよね! よかった。やっぱり、美奈子も無理か! オタク文化を理解したいし、陰気な子にも歩み寄りたいとか言ってたけど、やっぱり理解できなかったんだね!」
私は驚く。「オタク文化を理解したい」とも「陰気な子に歩み寄りたい」なんてことも言ったことはない。私は、否定しようとしたが、沙知子は嬉しそうに、笑みを浮かべると、すぐに「有名人がInstagramで紹介していたカフェに行きたい」という、別の軽い話題へと移っていった。私は、沙知子の発言を否定できなかった。
そして、その日の放課後のことだ。
帰ろうとして下駄箱に向かった私は、そこにアニメ好きなクラスメイトたちの姿を見つけた。彼女たちは、楽しそうに笑いながら、他愛ない雑談をしていた。私は、昼休みのことを謝ろうと一歩を踏み出した。
しかし、彼女たちは私の姿が視界に入った瞬間、それまで楽しそうに弾ませていた声をピタリと止め、ふいっと笑顔を消して無表情になった。そして、何か小声で囁きあったかと思うと、誰が誘うでもなく、昇降口から去って行ってしまった。とてもじゃないが、話しかけられる雰囲気ではなかった。
『もう私たちのところには来ないで。あんなことを言ったんだから』
向けられた冷ややかな態度は、私への明確な絶縁状だった。彼女たちには私が、オタクを見下して、からかい半分で自分たちに接近してきた“スパイ”のように誤解したのだろう。
それからも、沙知子の暴走は止まらなかった。そのせいで、私はクラスの他のグループに入れてもらうことが困難になった。
「アニメなんてバカバカしい」「勉強ばかりして青春を楽しまないなんてもったいない。ガリ勉って本当にバカみたい」「高いブランドを身に着けるのって、おばさんみたい」「あのブランドってダサいよね」
沙知子は、自分以外のグループが大切にしているものを休み時間に否定するようになったのだ。
当然、そんな沙知子の態度は、クラスのあらゆるグループから激しいヘイトを買った。
アニメ好きも、お金持ちのグループも、勉強を頑張っているグループも、全員が私たちから距離を置きたがっていた。それぞれのグループ同士はそれなりに関わりを持っていて、交流があるのに、私たちのグループにだけは、用事がない限り誰も話しかけてこない。
1クラス18人の狭い教室。
明確なスクールカーストがない代わりに、そこは群雄割拠の「独立国」が並び立つ世界だった。そして沙知子率いる私たちのグループは、周囲の全てを敵に回して孤立した「鎖国国家」と化していた。
そんな場所からは今すぐ亡命してしまえばよかったのかもしれない。けれど、一度居場所を失えば、この狭い教室で誰も話しかけてくれない「難民」になってしまう。高校2年生は修学旅行もあるし、グループワークもたくさんある。そのときに組む相手がいなくなることが私は怖かった。
その恐怖に怯える私は、沙知子の顔色を窺い、グループにしがみ付くしかなかった。
沙知子は私をそうやってグループに縛り付け、逃げ道を塞いでおきながら、私への扱いは相変わらず辛辣だった。
「この間、みんなで行ったお店、すごくよかったよねー」
週明け、私以外の4人が、週末に話題のカフェへ行っていたことを楽しそうに話し出す。
「あ、それつけてくれてるんだ。私がみんなにお土産で買ってきたやつ」
気がつけば、私以外の4人のスクールバッグに、お揃いのストラップが揺れている。
「ねぇねぇ、英語の宿題見せてよ」
彼女たちが宿題をサボるたび、私が必死に解いてきた課題を当然のように奪い取り、丸写しして提出する。
「ていうか、本当に美奈子って変だよ。何その返事」
私の何気ない一言の言葉尻を捕らえては、私の人格そのものがおかしいかのように、みんなで寄ってたかって囃し立てる。
もしも、いつもいつも露骨にのけ者にされているのなら、私もあれを「いじめ」だと確信できただろう。しかし、沙知子は違った。
次の週には何事もなかったかのように私を遊びに誘うこともあったし、グループの子たちが私にお土産やお揃いのプレゼントを買ってくることもあったのだ。
ときたま。たまたま。うっかり。
「わざとじゃないからね!」という卑怯な言い訳の余地を残しながら、彼女は私を、ゆっくりと、確実に迫害していったのだ。逃げることも、声をあげることも許されない、生殺しの地獄だった。
しかも不幸なことに、私の通う学校は、高校2年生から3年生にかけてクラス替えがなかった。1年生の段階で希望進路を絞り、それに合わせたカリキュラムを2年間かけて行うシステムだったため、私は沙知子たちと丸々2年間、付き合わされることになった。
彼女たちの気まぐれな残酷さは、私の自尊心を容赦なくすり減らしていった。
「変だ」「おかしい」と毎日言われ続けているうちに、私は完全に自信を失い、いつしか常に怯え、おどおどと他人の顔色ばかりを窺うようになっていた。「自分が好き!」よりも「みんなはどうしているか?」ばかりを大切にするように刷り込まれていった。
(どうして。どうして沙知子は私にこんなことをするのだろうか。私が何か悪いことをしたのだろうか。嫌なら、私がアニメ好きのグループに移るのを邪魔しないでほしかった)
嫌なことをされるたびに、私は自問自答を繰り返した。なぜ? なぜ? 私の何がダメなの?
その歪んだ問いへの答えがようやく分かったのは、高校3年生の秋のことだった。
「ねえ聞いて! 私、進脩館(しんしゅうかん)大学に推薦で行けることになった!」
受験シーズンが本格化し始めた教室で、沙知子が弾んだ声で言った。
進脩館大学といえば、都内でもトップクラスに君臨する難関私立大学だ。「私学の雄」「最強の私大」などと称されるその超名門校に、成績も素行も「中の中」程度でしかない沙知子が合格できるはずがなかった。
「えー! すごい! いいな!」
「進脩館って、お金持ちのイケメンが多いんでしょ? いい男がいたら紹介してよ!」
グループの子たちが黄色い声をあげて祝福する中、私の頭の中は激しい疑問符で埋め尽くされていた。真面目に努力しているとはお世辞にも言えない沙知子が、なぜ推薦をもらえるのか。意味が分からなかった。すると、沙知子はけらけらと下品な笑い声をあげて、私の方を振り返った。
「ほんと、美奈子のおかげだよー! 宿題とか課題をしっかり写させてくれてたから、私、評定だけは良くて『すごく意欲のある生徒』ってことになってるし。あと、あれもよかったよね! 美奈子がみんなのために夜遅くまで頑張ってくれた、あのグループ発表! あの発表の評価がめちゃくちゃ高かったから、私、推薦枠を勝ち取れたんだよね」
沙知子は悪びれもせず、むしろ手柄話のようにそう説明した。
私は、あまりの嫌悪感に吐き気がした。
高校2年生の時から、沙知子は一切宿題をしてこなかった。「一緒にやろう」と甘い声で近づいてきては、私が解いた課題を丸写しにして提出していたのだ。作文の課題すらそのままコピーしようとするものだから、私は自分の文章が盗作だと疑われないよう、提出直前に自分の課題を書き直す羽目になったことすらあった。
一番酷かったのは、そのグループ発表だ。
沙知子を筆頭に、私以外のメンバーは全員、調べ学習や資料作りをサボり倒した。そのくせ本番のステージに立つと、沙知子はさも「自分が寝ずに全てを調べ上げました」と言わんばかりの堂々とした態度で、私が書いた原稿を読み上げたのだ。教壇の先生が、そんな彼女のハッタリに騙され、感心したように深く頷いていた光景が、今でも鮮明に脳裏に焼き付いている。
(1つも。1つだって、沙知子はやっていないのに……!)
叫びたかった。先生のところへ走っていって、彼女の嘘を全てぶちまけ、その進路を台無しにしてやりたいとすら思った。ずるい。理不尽だ。こんなことが許されていいはずがない。
しかし、怯えきった私の口から出たのは、いつもの卑屈な言葉だった。
「そうなんだ。よかったよね……」
普段通りのトーンを意識して、おめでとうの形をした言葉を差し出す。
沙知子にとって、私は友人でも何でもなかった。最初から最後まで、自分の人生を飾るための、ただの都合のいい「便利な道具」に過ぎなかったのだ。だから、私が他のグループに移るのを邪魔したのだ。便利な道具を失いたくないから。
その決定的な事実をはっきりと突きつけられたのは、卒業式の日のことだった。
沙知子は、私と離れ離れになるのが寂しい、と涙を浮かべた直後、笑顔でこう言い放った。
「ほんと寂しくなるし、これからどうしようって感じ。大学でも、美奈子みたいに“優しい使える子”に出会えたらいいなーー!!」
「ちょ、言い方ww ヤバない?」
取り巻きの一人が笑いながら突っ込み、沙知子も一緒になって声をあげて笑った。
その後、彼女たちは卒業記念にと予約していた高級ホテルのアフタヌーンティーへ行くため、楽しそうに教室を出て行った。私は当然のように誘われなかったし、最初から予約の人数にすら入っていなかった。
ひどい。ひどい。ひどい。
教室に一人取り残されながら、しかし私の中には、涙よりも先に、泥のような「安堵」が広がっていった。
――やっと、終わった。やっと、解放された。
惨めではあったけれど、もう二度と彼女の顔色を窺わなくていいのだという事実に、私は確かに救われていた。
私の学力では、結局、中の上・上の下レベルの私立大学にしか合格できなかった。沙知子が進学する大学よりも、2ランクは落ちる大学だ。その格差が悔しくはあったけれど、「でも、きっと大丈夫」と自分に言い聞かせた。
「だって、ずるをして入った大学だもん。沙知子の実力に見合っていないんだから、絶対に授業で苦労するはず。もしかしたら留年して、中退するかもしれない」
そう思いながら、私は新しく始まる大学生活に思いを馳せた。
ずるをした悪人には、必ずそれ相応の報いがあるはずだ。あんな女が、この先もうまくいくはずがない……そう信じることだけが、私が正気を保つための、唯一の縋り目だった。
――それなのに。
結局、沙知子に「ずるの報い」なんてどこにも訪れなかった。彼女は進脩館大学を何事もなく普通に卒業し、誰もが知る優良企業に就職したようだった。そして大学時代か、あるいは就職後に出会った、誰もが羨むような経済力のある男性と出会い、婚約したのだ。
一方、私の人生は、どこまでも坂道を転げ落ちていった。
大学に入学したあと、私にもそれなりに友人はできた。
しかし、沙知子たちに「おかしい」「ヘンだ」と言われ続けた後遺症は根深く、なかなか自分自身を出すことができずにいた。顔色を窺い、自己主張をしない私。そんな私に、周囲の友人たちも、なかなか心を完全に開いてはくれなかった。どこかうっすらと壁のある付き合いをすることになった。
それでも、大学2年生になる頃には、「おかしかったのは沙知子たちの方だ。周囲の人たちは、みんな私に優しくしてくれる」と思えるようになり、少しずつ、少しずつ心を開くことができるようになっていた。ようやく、私の世界に光が差し込み始めていたのだ。
けれど、世界は一瞬で反転した。
「ねぇ、ニュース見た? 中国で怖い感染症が流行してるんだって。日本には来ないよね? すごく怖いね」
そんな話を友人たちと交わしているうちに、あれよあれよという間にその未知の感染症―コロナウィルス―は、日本中へと広がっていった。
「三つの密」を避けようと叫ばれ、不要不急の外出は制限され、人と人とのリアルな交流は完全に断たれた。大学の講義もイベントもすべてが中止となり、画面越しのリモート授業へと切り替わった。せっかく縮まり始めていた友人たちとの距離は、物理的な壁によって再び遠ざけられてしまった。
そして、その未曾有の大災害は、私の未来をも無慈悲に奪っていった。
世の中の景気は一気に冷え込み、就職活動は一転して氷河期のような難化を見せた。「上の下」から「中の上」レベルの私立大学である私の学歴では、書類選考すら落とされる日々。何より、自分をアピールするのが致命的に苦手な私にとって、表情や空気感が伝わりにくい「リモート面接」は地獄でしかなかった。画面の向こうの面接官の顔色を過剰に窺っては言葉に詰まり、自滅していく。
結果、私はまともな正社員としての職を得られず、大学卒業後は派遣社員として働くことになった。
(なんなんだろ? どうして? 世の中、おかしくない?)
他人の努力を盗み、心を徹底的に踏みにじってきた沙知子は、一流の経歴とエリートの婚約者を両手に抱えて、幸せの絶頂で笑っている。
神様なんて、いない。この世界の仕組みは、救いようがないほど間違っている。



