桜餅と恋心

桜餅と恋


 波方真之介(なみかたしんのすけ)の視線が捉えていたのは、川の向こう側にも続いている茶店だった。
 手前の川の水面は太陽が反射してきらきらしている。
 風が吹くたびに川沿いの桜が揺れて花びらが舞っていた。

 床几(しょうぎ)に腰かけて茶を待っていた真之介はその風景をぼんやりと眺めていた。
 空を眺めると、白い雲が一つ浮かんでいる。

 今年で俺も十六か。
 あの人はいくつなのだろう。

「はあ……」

 大きなため息が漏れた。
 この姿を母に見られたら、武士のくせに情けないと叱られるだろうが、今日はため息をついてしまう出来事があった。

 今朝も早めに道場へ行った。
 理由は憧れの都築左近(つづきさこん)の姿を一目見たかったからだ。
 次々と門弟たちが現れる中、こっそりと左近の姿を探した。

 左近は、真之介の通う堀内道場の師範代である。幼少の頃から剣術、槍に優れており目録を頂いてから師範代になった。教え方も丁寧で面白いため、門弟たちに人気があった。
 真之介も密かに憧れていたが、いつの間にか、会えない日は何も手がつかなくなるくらい、左近を好きになってしまっていた。

 左近は誰もが認めるくらい見目がよい。
 見上げるほどの上背に堅く盛り上がった胸板、恵まれた体格と二重の目、鼻梁が高く、低く静かな声を持っていて、真之介は声を聞くのも好きだった。

 一方、真之介はちっぽけで顔立ちも地味だ。
 ちんまりとついた鼻と唇。
 目だけは女のようにぱちりと愛らしいがそれこそ迷惑な話で、賢そうな目元のほうがよほどうれしい。
 こんな自分が憧れるのもおこがましく、見つめるだけでよかった。

 しかし、今朝、左近に縁談の話があるという噂を聞いた。
 それを知って目の前が真っ暗になった。

 左近が結婚してしまう。
 武士であれば、当たり前のことなのに動揺した。
 その日、練習に身が入らず心ここにあらずで、どう過ごしたかも記憶がない。
 稽古が終わってから、よろよろと道場を後にした。

 帰り道、あまりにつらくて家に帰る気にならず、気持ちを落ち着かせたいと、自然と川の方へ足が向いていた。
 そこで茶店に寄って、空を眺めている始末である。

 そういえば桜が散り始めている。
 はらはらと舞う桜を見ていると、何も感じない自分の心に気が付いた。
 おめでたいことなのに、心にぽっかりと穴が空いている。

「お待たせいたしました」

 茶菓子を盆に載せた娘が現れた。
 ようやく出された茶を受け取る。

「ありがとう」

 礼を云うと、娘はぽっと頬を染めて暖簾の向こうへ引っ込んだ。
 熱い茶に息を吹きかけて口をつけた。
 体が冷えていたのか茶がうまい。出された茶菓子は桜もちだった。
 鼻を近づけると桜葉の匂いがした。
 一口かじる。ぱり、と葉が千切れる音がした。小麦粉の生地に包まれたあんこは甘く、桜の塩漬けも香りがいい。
 桜の香りと共に噛み砕いて茶を飲む。桜もちが喉を通っていく。

 甘いな――。
 とたん、鼻がつんとした。
 目じりに涙が滲む。真之介はぐいと指で涙をぬぐった。

 もう一口。皿を持ち、口許へ運ぶ。
 ぱり、と桜の葉が千切れる音がした。再び口を開けて食べようとすると、ふっと自分の側に人の影がよぎった。
 真之介は顔を上げた。

「よお」

 男が云った。
 息が止まりそうになる。
 左近が立っていた。

「うまそうな物を食っておるな」

 驚きすぎて声が出ない。

「食えよ」
「あ、あの……、なぜここに?」

 左近がゆっくりと隣に腰を下ろした。

「いいから早く食え」
「……でも、あっ」

 手首をつかまれ強引に口元まで動かされた。
 思わず口を開けて桜もちを齧ると下唇に左近の指先がそっと触れた。かーっと体が熱くなったと同時に、桜の葉の香りが鼻をくすぐった。
 甘いあんが舌の上に乗る。目は左近を追いかけているのに、勝手に口が動く。左近も自分を見ていた。

「うまいか」
「は、はい」

 頷くと、左近が笑った。
 笑顔をこんな間近で見るのは初めてだった。