ぽつり、ぽつり、と小さな雫が舞鶴の頬を刺す。
舞鶴を濡らす雫の量は、段々と増えていく。
舞鶴が無我夢中で走ってきた先は、池のほとりだった。
「こんな池、あったっけ……。」
無数の雨を受け、池の水面が激しく揺れている。
アタシは今まで、なにやってたんだろう。
最初から雨音を?
アタシたちは雨音のおまけで候補に残されただけ?
どうして……。
ああ、ここはそもそも吉原でも宵花楼でもない。
客間でゆっくり接待できていれば、アタシだって選ばれたはずなのに。
雨音なんて、眼中になかったはずなのに。
段々と強くなる雨脚が、自分の身体に鞭を打たれているような感覚になる。
雨脚が激しくなるにつれ、白い霧も濃くなっていく。
もう、目の前の池すら見えなくなっていく。あっという間に。
いいよ、このままアタシを…アタシの存在も包み込んでこの世から消してくれたらいいのに。
感傷に浸れて心地の良いこの状況に、舞鶴はただ立ち尽くしていた。
しかしこの心地よさも、あの女の声により現実に引き戻される。
「舞鶴お姉さま…。」
舞鶴の頭上に傘が差しだされた。
舞鶴は、自分に向けて傘を差している雨音を頭からつま先まで見下ろした。
着物はずぶ濡れで、いつも雑にひとつに束ねている髪の毛は今にもほどけそうなくらいぐちゃぐちゃだ。
何年も同じものを着倒しているその割烹着は薄汚いどころか布の裾の方は黒ずんでいる。
傘を差さずに一生懸命アタシを探していたことが一目でわかる、この衣服の濡れ具合。
こういうようなあざとさを、なんの計算もなくシレっとやってみせる、それが雨音という女だ。
なんでこんなにみすぼらしい子が。
なんでこんなに自己主張しない女が。
「雨音お姉さま、このままだと風邪を引いてしまいます。お部屋に戻りましょう。」
「戻って…どうするんだい。」
「え?」
「どうせ宗玄に言われてきたんだろう?姉を探せ、って。」
「そんなこと…」
「このまま戻って…アタシに宗玄との仲を見せつけて愉しい?いつも下働きで、裏方で、アタシたち遊女とは違って地味で目立たない存在が、ようやく花道に立てたことがそんなに嬉しい?」
「ま、舞鶴お姉さま…?」
「あんたはそうやって、悲し気な顔していれば男が勝手に憐れんでくれる。同情してくれる。あんたのその器量の良さはアタシ譲りなのに。なんの努力もしないで美味しいところだけ持って行って…。アタシが色を売って体を汚しているうちに、あんたはその傷を盾にして清いまま"あやかしさまの頭領の花嫁"なんていう最上の地位を手に入れるんだね。そんな右腕だけの傷がなんだって言うんだい。アタシの…アタシの心の傷に比べたらそんなもの……。」
舞鶴は、力の限り目の前に立っている雨音を突き飛ばした。
雨音はそのまま後ろによろけて転び、持っていた傘は無造作に地面に転がっていく。
「なんであんたなんかが!」
舞鶴はそのまま走って霧の中へと消えていった。
「舞鶴お姉さ…ま……。」
一気に降り注いだ姉による罵倒が、雨音の身体を雁字搦めにしていく。
今すぐ探さなければ。今すぐ立って姉のあとを追いかけなければ。
なのになぜ?立ち上がるどころか指一本動かせない。
……怖い。
姉を追い詰めてしまうのが。
また姉に拒絶されるのが。
雨音はもう自分の顔が涙で濡れているのか雨で濡れているのかわからない。
しばらくすると、雨音の周りだけ雨が止んだ。
ハッとして見上げると、月白色の髪の男が傘を差しだして、転んだままの雨音を見下ろしていた。
「……なにをしている。」
この一寸も変わらぬ表情、そしてぶっきらぼうな話し方。
「明閻さま……。」
「崖ではなく今度は池で身投げか。」
「ち、違います…。」
普段通りの明閻の態度が、精神的打撃を受けた雨音を現実へと引き戻す。
雨音の頬にはとめどなく涙が溢れだした。
「私の……私のせいなんです!私が舞鶴お姉さまを傷付けてしまった…。もしかしたら今日だけではなく、ずっとずっと傷付けてしまっていたのかもしれない!」
雨音はその場でわあっと泣き崩れた。
「私は宗玄さまの…頭領の花嫁になんてなるつもりはなかったのに!私が宗玄さまと話さなければ…。いいえ、私がここに来たいなんて言わなければ!明閻さまに会いたいなどと望みを持たなければ…!こんな弱くて醜い私なんて、いなくなってしまえばいいのに!」
その言葉を聞いた明閻は、憤懣やるかたない表情で雨音を見つめ、
「雨音。」
と呼びかけた。
明閻に呼ばれた雨音は我に返り、明閻を見上げる。
その瞬間、パン!と激しい音が霧の中で響いた。
「え……。」
雨音の右頬に、ヒリヒリとした痛みが走る。
頭で理解するのに、時間が掛かった。
わ、私…。明閻さまに叩かれ、た?
「本当に申し訳ない、自分のせいだと思うなら立て!姉に向き合うことが誠の心ではないのか!」
こんなに激しく感情を出す明閻は初めてだった。
「私は、お前のことを弱い女だと思ったことはない。私の中のお前は、逆境の中で舞を披露した時の姿をしている。…それにお前が卑屈になっているその右腕の傷こそ、お前がなによりも生きたいと思った証ではないのか。」
「あ……わ、私は…。」
違う。違うの。
私は三姉妹みんなで吉原を抜けて、ここで花嫁に選ばれて、三人幸せに暮らせる人生を見出したからここに来たわけではない、私は明閻さまに会いたい、己の欲一心で来てしまった…この醜い心を舞鶴お姉さまに見透かされてしまった気がして、怖いの……。
「舞鶴はどの方向へ向かって走っていった。」
「あ…あっちです……。」
「まずいな、林の方だ。この霧の中であの中を彷徨うと危険だ、崖もある。」
「崖ってもしかして…。」
「ああ、前にお前が誤って落ちそうになったあの崖だ。」
「そんな……!」
雨音はすぐに立ち上がると、膝についた泥を手で払いのけた。
「気力が戻ったか?」
「…はい。明閻さま、ありがとうございます。こんな私に…」
「以後、自分のことを"こんな"など卑下するな。共に舞鶴を探そう。」
明閻はまだ少し泥の残っている雨音の手をぎゅっと握りしめた。
こんな状況でも、この手のぬくもりが雨音の心を穏やかにしていく。
「……はい、明閻さま。」
舞鶴を濡らす雫の量は、段々と増えていく。
舞鶴が無我夢中で走ってきた先は、池のほとりだった。
「こんな池、あったっけ……。」
無数の雨を受け、池の水面が激しく揺れている。
アタシは今まで、なにやってたんだろう。
最初から雨音を?
アタシたちは雨音のおまけで候補に残されただけ?
どうして……。
ああ、ここはそもそも吉原でも宵花楼でもない。
客間でゆっくり接待できていれば、アタシだって選ばれたはずなのに。
雨音なんて、眼中になかったはずなのに。
段々と強くなる雨脚が、自分の身体に鞭を打たれているような感覚になる。
雨脚が激しくなるにつれ、白い霧も濃くなっていく。
もう、目の前の池すら見えなくなっていく。あっという間に。
いいよ、このままアタシを…アタシの存在も包み込んでこの世から消してくれたらいいのに。
感傷に浸れて心地の良いこの状況に、舞鶴はただ立ち尽くしていた。
しかしこの心地よさも、あの女の声により現実に引き戻される。
「舞鶴お姉さま…。」
舞鶴の頭上に傘が差しだされた。
舞鶴は、自分に向けて傘を差している雨音を頭からつま先まで見下ろした。
着物はずぶ濡れで、いつも雑にひとつに束ねている髪の毛は今にもほどけそうなくらいぐちゃぐちゃだ。
何年も同じものを着倒しているその割烹着は薄汚いどころか布の裾の方は黒ずんでいる。
傘を差さずに一生懸命アタシを探していたことが一目でわかる、この衣服の濡れ具合。
こういうようなあざとさを、なんの計算もなくシレっとやってみせる、それが雨音という女だ。
なんでこんなにみすぼらしい子が。
なんでこんなに自己主張しない女が。
「雨音お姉さま、このままだと風邪を引いてしまいます。お部屋に戻りましょう。」
「戻って…どうするんだい。」
「え?」
「どうせ宗玄に言われてきたんだろう?姉を探せ、って。」
「そんなこと…」
「このまま戻って…アタシに宗玄との仲を見せつけて愉しい?いつも下働きで、裏方で、アタシたち遊女とは違って地味で目立たない存在が、ようやく花道に立てたことがそんなに嬉しい?」
「ま、舞鶴お姉さま…?」
「あんたはそうやって、悲し気な顔していれば男が勝手に憐れんでくれる。同情してくれる。あんたのその器量の良さはアタシ譲りなのに。なんの努力もしないで美味しいところだけ持って行って…。アタシが色を売って体を汚しているうちに、あんたはその傷を盾にして清いまま"あやかしさまの頭領の花嫁"なんていう最上の地位を手に入れるんだね。そんな右腕だけの傷がなんだって言うんだい。アタシの…アタシの心の傷に比べたらそんなもの……。」
舞鶴は、力の限り目の前に立っている雨音を突き飛ばした。
雨音はそのまま後ろによろけて転び、持っていた傘は無造作に地面に転がっていく。
「なんであんたなんかが!」
舞鶴はそのまま走って霧の中へと消えていった。
「舞鶴お姉さ…ま……。」
一気に降り注いだ姉による罵倒が、雨音の身体を雁字搦めにしていく。
今すぐ探さなければ。今すぐ立って姉のあとを追いかけなければ。
なのになぜ?立ち上がるどころか指一本動かせない。
……怖い。
姉を追い詰めてしまうのが。
また姉に拒絶されるのが。
雨音はもう自分の顔が涙で濡れているのか雨で濡れているのかわからない。
しばらくすると、雨音の周りだけ雨が止んだ。
ハッとして見上げると、月白色の髪の男が傘を差しだして、転んだままの雨音を見下ろしていた。
「……なにをしている。」
この一寸も変わらぬ表情、そしてぶっきらぼうな話し方。
「明閻さま……。」
「崖ではなく今度は池で身投げか。」
「ち、違います…。」
普段通りの明閻の態度が、精神的打撃を受けた雨音を現実へと引き戻す。
雨音の頬にはとめどなく涙が溢れだした。
「私の……私のせいなんです!私が舞鶴お姉さまを傷付けてしまった…。もしかしたら今日だけではなく、ずっとずっと傷付けてしまっていたのかもしれない!」
雨音はその場でわあっと泣き崩れた。
「私は宗玄さまの…頭領の花嫁になんてなるつもりはなかったのに!私が宗玄さまと話さなければ…。いいえ、私がここに来たいなんて言わなければ!明閻さまに会いたいなどと望みを持たなければ…!こんな弱くて醜い私なんて、いなくなってしまえばいいのに!」
その言葉を聞いた明閻は、憤懣やるかたない表情で雨音を見つめ、
「雨音。」
と呼びかけた。
明閻に呼ばれた雨音は我に返り、明閻を見上げる。
その瞬間、パン!と激しい音が霧の中で響いた。
「え……。」
雨音の右頬に、ヒリヒリとした痛みが走る。
頭で理解するのに、時間が掛かった。
わ、私…。明閻さまに叩かれ、た?
「本当に申し訳ない、自分のせいだと思うなら立て!姉に向き合うことが誠の心ではないのか!」
こんなに激しく感情を出す明閻は初めてだった。
「私は、お前のことを弱い女だと思ったことはない。私の中のお前は、逆境の中で舞を披露した時の姿をしている。…それにお前が卑屈になっているその右腕の傷こそ、お前がなによりも生きたいと思った証ではないのか。」
「あ……わ、私は…。」
違う。違うの。
私は三姉妹みんなで吉原を抜けて、ここで花嫁に選ばれて、三人幸せに暮らせる人生を見出したからここに来たわけではない、私は明閻さまに会いたい、己の欲一心で来てしまった…この醜い心を舞鶴お姉さまに見透かされてしまった気がして、怖いの……。
「舞鶴はどの方向へ向かって走っていった。」
「あ…あっちです……。」
「まずいな、林の方だ。この霧の中であの中を彷徨うと危険だ、崖もある。」
「崖ってもしかして…。」
「ああ、前にお前が誤って落ちそうになったあの崖だ。」
「そんな……!」
雨音はすぐに立ち上がると、膝についた泥を手で払いのけた。
「気力が戻ったか?」
「…はい。明閻さま、ありがとうございます。こんな私に…」
「以後、自分のことを"こんな"など卑下するな。共に舞鶴を探そう。」
明閻はまだ少し泥の残っている雨音の手をぎゅっと握りしめた。
こんな状況でも、この手のぬくもりが雨音の心を穏やかにしていく。
「……はい、明閻さま。」
