ぎょろりと意思なく不規則に回転する目玉、まるで人形のように勢いよく倒れる骨ばった体、そして、舞鶴の部屋の壁に大きく残った血の跡。
町のど真ん中で罪人女と罵られ、あの時の情景が瑠璃姫の頭を過った。
「お前たちのせいで店は大変な騒ぎだったんだぞ!」
あの時、無理矢理に蓋をしていた心の傷が浮上していく。瑠璃姫の両手は、小刻みに震え始めた。
「し…知らないわよ。あたくしのせいじゃないもの。あのババアが勝手に…。」
「あのあと、命は助かったがどうも頭の打ちどころが悪くてな。使い物にならんから埋めたんだ。」
「なら益々知らないわよ。あなたたちが勝手にババアを殺したんじゃない。」
奉公人の男は瑠璃姫の袖を思いっきり掴んだ。
「戻れ瑠璃姫、吉原は抜けられない。水揚げ以外で吉原を抜けた女はいない、わかっているだろ!?」
「いや!離しなさいよ!」
周りは遠巻きに二人の様子を窺うが、止めようとする者は誰もいない。
命運尽きた、という考えが一瞬浮かぶ。
ダメ、ダメよ瑠璃姫!あたくしはこんなところで終わる女じゃない!
そう鼓舞していた矢先、瑠璃姫を掴んでいた男の手は、何者かによって剝がされる。やっとのことで、瑠璃姫と男を仲裁する者が現れた。
「やめないか。この子は私の連れだ。」
深紅の瞳がギラリと男を睨みつけた。
「あ、あやかし……!」
「それに、吉原に戻ることももうない。覚えておけ。」
男はすごすごと去っていった。
「大丈夫か?探したぞ。」
「宗玄さま……。」
期待していた男とは、違った。
「騎刃は別の道を探している。合流してそろそろ屋敷へ戻ろう。」
「え、ええ……。」
瑠璃姫と宗玄は並んでゆっくり歩き出した。
「それにしても、人間に畏怖の目で見られるのも悪くはないな。そのおかげでそなたを守れたのだから。」
きっと、こういう台詞は心が躍るものなんだわ。舞鶴姉さまから借りた本にもあったもの。
このまま色を使って仕掛ければ、あたくしならきっと、この男を落とすなんて容易いはず。
もうすぐ日が暮れる。ここからは女の時間。ここからが勝負の時。
「なあ瑠璃姫。」
「はい。」
「もういい。無理をするな。」
「……はい?」
「薄々感じてはいたが、先程の私を見るそなたの顔で確信が持てた。」
「なにがよ。」
「そなたは何故私の花嫁になりたいのだ?」
「そんなの、あなたが、というよりは頭領の……あっ。」
疲労と安心で不意に本音が漏れてしまった。
「やはりな。だから、無理をするなと言ったのだ。」
「は、はぁ!?無理するに決まってるでしょ!あたくしの人生がかかってるのよ!決定的な地位を得て、安定した暮らしをして、有り余る金で贅沢して、それから…!」
「それで、そなたは本当に幸せになれるのか?人間の寿命は短いと聞くが、それは終わりを迎えた時に、いい人生だったと振り返られるものなのか?」
「………。」
「はっきり言おう。瑠璃姫、私はそなたを選ばない。なぜなら私にとってもそなたにとっても、夫婦になることが最善の道とは言えないからだ。」
「……は?」
「ああ、安心してくれ!花嫁になれなかったとしても、そなたを吉原に戻すことなどせぬ。そなたたち三人の面倒はこちらで見よう。そなたたちには幸せになってもらいたい。」
「そ……そんなの納得いかないわ!冗談じゃない!まだあたくしのこと知らないくせに!あたくしにとっては…!」
瑠璃姫が文句を並べようとするが、宗玄は穏やかな顔で聞いている。
その表情は、瑠璃姫の張りに張った心をしぼませるには充分だった。
「そなたの主張はなかなかに刺さったぞ。しかし、学びを得られた。そなたとここに来られて良かった。ありがとう瑠璃姫。」
「……そうね。感謝しなさい。」
なんだか、肩の力が抜けたような、温かい日差しに包まれるような感覚になる瑠璃姫だった。
日が落ちて月の光が明るくなった夜。
「おかえりなさい。」
柳のように立っている雨音を見て、ビクッと体を震わせる瑠璃姫。雨音の手には、立て板が。
「あ、あら。雨音姉さま。部屋から出ていたの?」
「瑠璃姫を待っていたの。」
「廊下で?ずっと?」
「ええ。」
「な…なによ。」
「この立て板、知らない?」
瑠璃姫はバツが悪くなり、咄嗟に言い返すことが出来ずに黙る。
それもそうだ。この立て板を襖の脇に立てて、雨音を閉じ込めていたのだから。
雨音の力のない目に、罪悪感が押し寄せてくる。
なにも言えない瑠璃姫に対し雨音は、
「…そう。」
と、冷たく返した後、部屋へと入ってしまった。
「わかってるわよ。流石に、やりすぎたなって……。」
瑠璃姫が手に持っていた二つの飴細工は、行き場をなくして宙ぶらりんになってしまった。
そうだ、お茶。雨音姉様の好きな緑茶を入れて、謝ろう……。
屋敷の離れに、台所があったはず。
瑠璃姫は近道をしようと、屋敷の中庭を突っ切るように歩いていく。
すると、背後から思いっきり肩を掴まれた。
「なっ…なんですの!?」
「い、いた…!ようやく見つけましたよ、"瑠璃殿"!」
「あ、あなた…!」
すっかり忘れていた。瑠璃姫の肩を掴んで離さないのは、彼女が中途半端に色仕掛けしていた官僚補佐の青年だった。
「ずっと探していたんです!ああ、会えてよかった!」
青年はそのまま後ろから抱きついた。
瑠璃姫は自分から青年を引きはがそうと体を捻るが、ビクともしない。
「ちょっと!あたくしの恰好を見てわからないの!?」
「ええ。僕のためにめかし込んでくれたんですよね…!」
「は、はぁ!?なに言ってんのよ!あたくしは下働きじゃなくて花嫁…」
「探し出すのが遅れて申し訳ないです、どうか機嫌を直してください瑠璃殿。身分差の恋に慎重な行動はつきものですから…。」
なにコイツ…。全然話が通じないじゃない!
それでもなんとか抵抗しようともがいているうちに、足を絡ませて転んでしまった。青年も瑠璃姫の上に覆いかぶさる。
「ちょっと!どいて!」
「ああ瑠璃殿、この時をどんなに待ちわびたか…!」
瑠璃姫が押しのけようとしても、青年の指一本動かせない。こんなに青白くて細い体型であってもあやかしなのだ。人間の、しかもオ女の力で出来ることなどたかが知れている。
なんで…なんでこうなったの!?だれか、だれか…!
何かを蹴り上げるような鈍い音がし、急に瑠璃姫の身体への重圧が軽くなった。
「え…な、なに…。」
「なにしてんだこんなところでぇ!」
瑠璃姫に覆いかぶさっていた青年を蹴り飛ばし、大声を出したのは騎刃だった。
中途半端に現れている狼の耳と尻尾は、これでもかと毛が逆立っている。
「この女が若様の花嫁候補だってわかって……ん?あー、ダメだ、完全に伸びちまってる。しばらく起きねぇなぁコレ。手加減すりゃよかったぜ。おい、大丈夫か性悪女。」
意識を失っている青年を確認し、瑠璃姫の方に振り返ると、いつもの威勢のよさとは真逆の、弱々しくへたり込んでいる彼女の姿が見えた。
「おい、大丈夫か?」
瑠璃姫の隣にしゃがみ込んで心配そうに見つめる騎刃の声色は、とても柔らかく優しかった。
その声掛けに、瑠璃姫は止まることのない涙を流した。
「お、おい…。」
この瞬間に、わかってしまった。
助けが来て、全身の血が駆け巡るほど、嬉しかったこと。
自分が女として、人間として、とても無力だということ。
それでも、あやかし全員を嫌いになんてなれないこと。
そして…今こうして傍にいる人が、コイツじゃなきゃ、あたくしは満足しないってこと。
「怖かった…。怖かったぁ……。」
「そ、そうだよな…。悪かった、オレも悪かった。」
(オレも悪かった、ってなんだよ。オレは別になにも悪くねぇだろ。)
しおらしくシクシクと泣くお調子娘を目の前に、たじたじになってしまう騎刃。
その態度すらも彼女の計算だとは知らずに。
町のど真ん中で罪人女と罵られ、あの時の情景が瑠璃姫の頭を過った。
「お前たちのせいで店は大変な騒ぎだったんだぞ!」
あの時、無理矢理に蓋をしていた心の傷が浮上していく。瑠璃姫の両手は、小刻みに震え始めた。
「し…知らないわよ。あたくしのせいじゃないもの。あのババアが勝手に…。」
「あのあと、命は助かったがどうも頭の打ちどころが悪くてな。使い物にならんから埋めたんだ。」
「なら益々知らないわよ。あなたたちが勝手にババアを殺したんじゃない。」
奉公人の男は瑠璃姫の袖を思いっきり掴んだ。
「戻れ瑠璃姫、吉原は抜けられない。水揚げ以外で吉原を抜けた女はいない、わかっているだろ!?」
「いや!離しなさいよ!」
周りは遠巻きに二人の様子を窺うが、止めようとする者は誰もいない。
命運尽きた、という考えが一瞬浮かぶ。
ダメ、ダメよ瑠璃姫!あたくしはこんなところで終わる女じゃない!
そう鼓舞していた矢先、瑠璃姫を掴んでいた男の手は、何者かによって剝がされる。やっとのことで、瑠璃姫と男を仲裁する者が現れた。
「やめないか。この子は私の連れだ。」
深紅の瞳がギラリと男を睨みつけた。
「あ、あやかし……!」
「それに、吉原に戻ることももうない。覚えておけ。」
男はすごすごと去っていった。
「大丈夫か?探したぞ。」
「宗玄さま……。」
期待していた男とは、違った。
「騎刃は別の道を探している。合流してそろそろ屋敷へ戻ろう。」
「え、ええ……。」
瑠璃姫と宗玄は並んでゆっくり歩き出した。
「それにしても、人間に畏怖の目で見られるのも悪くはないな。そのおかげでそなたを守れたのだから。」
きっと、こういう台詞は心が躍るものなんだわ。舞鶴姉さまから借りた本にもあったもの。
このまま色を使って仕掛ければ、あたくしならきっと、この男を落とすなんて容易いはず。
もうすぐ日が暮れる。ここからは女の時間。ここからが勝負の時。
「なあ瑠璃姫。」
「はい。」
「もういい。無理をするな。」
「……はい?」
「薄々感じてはいたが、先程の私を見るそなたの顔で確信が持てた。」
「なにがよ。」
「そなたは何故私の花嫁になりたいのだ?」
「そんなの、あなたが、というよりは頭領の……あっ。」
疲労と安心で不意に本音が漏れてしまった。
「やはりな。だから、無理をするなと言ったのだ。」
「は、はぁ!?無理するに決まってるでしょ!あたくしの人生がかかってるのよ!決定的な地位を得て、安定した暮らしをして、有り余る金で贅沢して、それから…!」
「それで、そなたは本当に幸せになれるのか?人間の寿命は短いと聞くが、それは終わりを迎えた時に、いい人生だったと振り返られるものなのか?」
「………。」
「はっきり言おう。瑠璃姫、私はそなたを選ばない。なぜなら私にとってもそなたにとっても、夫婦になることが最善の道とは言えないからだ。」
「……は?」
「ああ、安心してくれ!花嫁になれなかったとしても、そなたを吉原に戻すことなどせぬ。そなたたち三人の面倒はこちらで見よう。そなたたちには幸せになってもらいたい。」
「そ……そんなの納得いかないわ!冗談じゃない!まだあたくしのこと知らないくせに!あたくしにとっては…!」
瑠璃姫が文句を並べようとするが、宗玄は穏やかな顔で聞いている。
その表情は、瑠璃姫の張りに張った心をしぼませるには充分だった。
「そなたの主張はなかなかに刺さったぞ。しかし、学びを得られた。そなたとここに来られて良かった。ありがとう瑠璃姫。」
「……そうね。感謝しなさい。」
なんだか、肩の力が抜けたような、温かい日差しに包まれるような感覚になる瑠璃姫だった。
日が落ちて月の光が明るくなった夜。
「おかえりなさい。」
柳のように立っている雨音を見て、ビクッと体を震わせる瑠璃姫。雨音の手には、立て板が。
「あ、あら。雨音姉さま。部屋から出ていたの?」
「瑠璃姫を待っていたの。」
「廊下で?ずっと?」
「ええ。」
「な…なによ。」
「この立て板、知らない?」
瑠璃姫はバツが悪くなり、咄嗟に言い返すことが出来ずに黙る。
それもそうだ。この立て板を襖の脇に立てて、雨音を閉じ込めていたのだから。
雨音の力のない目に、罪悪感が押し寄せてくる。
なにも言えない瑠璃姫に対し雨音は、
「…そう。」
と、冷たく返した後、部屋へと入ってしまった。
「わかってるわよ。流石に、やりすぎたなって……。」
瑠璃姫が手に持っていた二つの飴細工は、行き場をなくして宙ぶらりんになってしまった。
そうだ、お茶。雨音姉様の好きな緑茶を入れて、謝ろう……。
屋敷の離れに、台所があったはず。
瑠璃姫は近道をしようと、屋敷の中庭を突っ切るように歩いていく。
すると、背後から思いっきり肩を掴まれた。
「なっ…なんですの!?」
「い、いた…!ようやく見つけましたよ、"瑠璃殿"!」
「あ、あなた…!」
すっかり忘れていた。瑠璃姫の肩を掴んで離さないのは、彼女が中途半端に色仕掛けしていた官僚補佐の青年だった。
「ずっと探していたんです!ああ、会えてよかった!」
青年はそのまま後ろから抱きついた。
瑠璃姫は自分から青年を引きはがそうと体を捻るが、ビクともしない。
「ちょっと!あたくしの恰好を見てわからないの!?」
「ええ。僕のためにめかし込んでくれたんですよね…!」
「は、はぁ!?なに言ってんのよ!あたくしは下働きじゃなくて花嫁…」
「探し出すのが遅れて申し訳ないです、どうか機嫌を直してください瑠璃殿。身分差の恋に慎重な行動はつきものですから…。」
なにコイツ…。全然話が通じないじゃない!
それでもなんとか抵抗しようともがいているうちに、足を絡ませて転んでしまった。青年も瑠璃姫の上に覆いかぶさる。
「ちょっと!どいて!」
「ああ瑠璃殿、この時をどんなに待ちわびたか…!」
瑠璃姫が押しのけようとしても、青年の指一本動かせない。こんなに青白くて細い体型であってもあやかしなのだ。人間の、しかもオ女の力で出来ることなどたかが知れている。
なんで…なんでこうなったの!?だれか、だれか…!
何かを蹴り上げるような鈍い音がし、急に瑠璃姫の身体への重圧が軽くなった。
「え…な、なに…。」
「なにしてんだこんなところでぇ!」
瑠璃姫に覆いかぶさっていた青年を蹴り飛ばし、大声を出したのは騎刃だった。
中途半端に現れている狼の耳と尻尾は、これでもかと毛が逆立っている。
「この女が若様の花嫁候補だってわかって……ん?あー、ダメだ、完全に伸びちまってる。しばらく起きねぇなぁコレ。手加減すりゃよかったぜ。おい、大丈夫か性悪女。」
意識を失っている青年を確認し、瑠璃姫の方に振り返ると、いつもの威勢のよさとは真逆の、弱々しくへたり込んでいる彼女の姿が見えた。
「おい、大丈夫か?」
瑠璃姫の隣にしゃがみ込んで心配そうに見つめる騎刃の声色は、とても柔らかく優しかった。
その声掛けに、瑠璃姫は止まることのない涙を流した。
「お、おい…。」
この瞬間に、わかってしまった。
助けが来て、全身の血が駆け巡るほど、嬉しかったこと。
自分が女として、人間として、とても無力だということ。
それでも、あやかし全員を嫌いになんてなれないこと。
そして…今こうして傍にいる人が、コイツじゃなきゃ、あたくしは満足しないってこと。
「怖かった…。怖かったぁ……。」
「そ、そうだよな…。悪かった、オレも悪かった。」
(オレも悪かった、ってなんだよ。オレは別になにも悪くねぇだろ。)
しおらしくシクシクと泣くお調子娘を目の前に、たじたじになってしまう騎刃。
その態度すらも彼女の計算だとは知らずに。
