いつものように朝日が昇る。
雨音は、ツンとした石の匂いで目を覚ます。
まだ屋根はついていないが、この歪で小さな小屋での寝泊まりにも慣れてきた。小屋から少し歩いた場所に井戸がある。井戸まで行き水を汲み、顔を洗う。
こんなに気の抜けた生活は生まれて初めてだ。吉原にいた時は、起きると同時に厨房・掃除・仕入れなど一通りの雑用が次から次へと押し寄せる毎日だったのだから。
「雨音姉さま。」
手拭いで顔を拭いていると、後ろから瑠璃姫が声を掛けてきた。
「今日も屋根作りですの?」
「ええ。あたくし、心を入れ替えましたの。今日からあたくしも手伝いますわ。」
「え?」
「じゃあ、そういうことで。」
小屋に帰ると、舞鶴が手鏡で化粧を施していた。
「あらぁ舞鶴姉さま。大工仕事でそんなに丁寧にお化粧だなんて。太夫の心持ちは違いますわね。」
「なにさ。」
「なにも?あたくしもお化粧しようと思って。」
「なんだいあんた、それこそどういう心変わりで屋根作りを手伝おうなんて言い出したのさ。」
「言いましたでしょう?あたくし、心を入れ替えましたのよ。」
「ふっ、どうだかねぇ。」
「雨音姉さまは相変わらず素っぴんですのね。まぁいいけど。」
「雨音はそのままでも綺麗だよ。」
舞鶴と瑠璃姫は黙って化粧をし始めた。
雨音には、化粧道具などない。いつになく真剣な顔をして紅を引く二人に、なぜだか居心地の悪さを感じた。
手持ち無沙汰なので、小屋を出てその辺を当てもなく歩いた。
風に乗って、微かにたからかな笑い声が聞こえてくる。ふと隣を見ると、花嫁候補の令嬢たちが暮らしている長屋が見えた。
長らく様子を見に来ていないな。本来ならば私たちもあそこで暮らしていたはずだ。土だらけになって、小屋など作ることもなかった。あの部屋では、もう花嫁の選定が始まっているのだろうか。
長屋を追い出されて、初めて三姉妹だけで暮らしてきた。最初は、たとえ馬小屋だとしても、この上ない幸福感に満ちていた。
しかし、いつからか、なんとなく居心地が悪いと感じる瞬間が増えてきたのだ。
どうしてだろう。今日は舞鶴お姉さまも、瑠璃姫も、二人の間の空気が張り詰めている気がする。
雨音の小さなため息が静かに零れた。
「雨音はいつも物憂げな顔をしているな。」
「えっ……。あ、明閻さま。いつの間に…?」
「そこの長屋に用があったので寄っていた。」
「そうなのですね。明閻さまはお忙しいのですね…。」
「どうした?覇気がないな。物憂げな横顔を見ると、家族を思い出して私も悲しくなる。しかし、雨音。そなたの表情は、哀らしくもあるが、上品だ。…なにか悩みでもあるのか?」
「悩み……。そうか、私…悩んでいたのかもしれません。」
「悩んでいたかも、と…今気付いたのか?」
「はい……。」
「悩みに気付かぬなど…。」
思いもよらない雨音の発言に、開いた口が塞がらず、きょとんとしている。そんな彼の様子に、雨音もつられて目を丸くする。二人して金魚のような顔になっている状況に、思わず笑みがこぼれる。しかし、すぐにいつもの雨音の表情に戻った。
男は、そんな一瞬の輝きのような雨音の仕草に釘付けになっている。
「私は、欲にまみれているのかもしれません…。」
「欲?」
「最初は、ここに来た頃は…。姉妹三人で一緒にいられるなら、なんでも良かったんです。むしろ、吉原にいた頃よりも幸せで…。でも、最近は怖いんです。せっかく三人で過ごせるのに、小屋だって舞鶴お姉さまが一生懸命建ててくれたのに、私は前ほど感動しなくなったんです。それに……」
そこまで吐露して、雨音の目からぽろぽろと涙が零れた。
どうして、夜会いに来て下さらないのですか。
私は毎日あの池の傍で、あなたの姿が見えるのを心待ちにしているというのに。
そんな投げかけを、思わず吐き出しそうになった。
「雨音は不思議だ。そなたのような女子は見たことがない。微笑む顔も、涙するその瞳も、どんなそなたであっても目が離せないのだから。」
「え……。」
「あ、いたいた。雨音!」
舞鶴がこっちへ向かって走って来た。
そして雨音の傍まで来ると、この男との距離を開けるかのように、雨音の体を自分の方へと引き寄せた。
舞鶴の少々強引な腕に、雨音は一瞬よろけて舞鶴の方へ倒れ込んでしまった。
「随分と戻ってこないから探したよ、雨音。明閻、あんたも一緒だったんだね。」
「舞鶴お姉さま……。」
あれ?舞鶴お姉さま、いつもなら「ごめん雨音、大丈夫かい?」って声を掛けてくれるのに…。
「明閻、今日も手伝ってくれるんだろう?今日から末の妹も加わるみたいでさぁ。」
「ああ、そのつもりだが。」
舞鶴と想い人が横に並んで談笑する姿を、雨音は複雑な心境で眺めていた。
明閻さま。どうして、夜会いに来て下さらないのですか。
私は毎日あの池の傍で、あなたの姿が見えるのを心待ちにしているというのに。
それでも昼には来て下さるのは、舞鶴お姉さまがいらっしゃるから……?
心のモヤモヤを抱えたまま、瑠璃姫も加わった屋根作りが始まった。
「ねぇ~!ここどうすればいいのぉ?あたくし分からないわ。」
「女子の力では難しいだろう。貸せ。」
「へぇ~。頼りになるんですのね。」
瑠璃姫が明閻に色目を使っているのがあからさまに伝わる。瑠璃姫は明閻の傍から一向に離れようとせず、ずっと明閻の隣をキープしている。
雨音は舞鶴の様子が気になり、竹を切っている姉の様子をチラ見したが、特に変わった様子もなく、目の前の作業に集中していた。その態度に雨音は少しだけ違和感を覚えた。
どうしてだろう。
瑠璃姫がいない時は、私はここでずっと竹格子を作っているけど、舞鶴お姉さまは明閻さまと一緒に竹や蔦縄を取りに行ったりして、ここにいないことが多いのに。
今日はみんながこの場にいる。だから…?
「ねぇみんな、そろそろお昼にしないかい?」
作業を中断して、雨音の作ったおにぎりを頬張る。
「握り飯はあまり食べたことがないのだが…。米がこうして塊になっている見た目は面白いな。」
「雨音姉さまって本当に庶民的なお料理を作るのがお上手なんですのよ。あたくしは料理なんて作ったことないけど。あやかし界でも高貴なお方ってお料理なんてしないんでしょう?」
「ああ。そういった生活基盤の役を持つ者がいる。」
「でしょう?きっと雨音姉さまなんてお給仕係にぴったりですわよ。」
「雨音、この握り飯には他に具材はなにを入れるのだ?今日はなにか干した海藻のようだが。」
「あ、えっと……。」
「なに、下界の料理に興味があるのかい?明閻。」
「言っておくがもう下界とは言わないぞ。」
「ふっ、やるじゃあないか。雨音に聞かなくても、人間界の文化が気になるならアタシが教えてあげるよ。」
「ちょっと、舞鶴姉さまがなにを教えるって言うのよ。雨音姉さまが風邪をひいたときに舞鶴姉さまが作った黒こげ粥、忘れたとは言わせませんわ。この人、料理下手よ。」
「瑠璃姫!」
雨音は始終、居心地の悪さを感じた。
日が傾き始めたころ。
雨音は小屋で静かに野菜を切っている。
「瑠璃姫ー。あれ?瑠璃姫来てないかい?」
「いえ…。」
「そうか。手伝おうか?雨音。」
「いえ…。もうすぐ終わりますから。」
「じゃあアタシは長屋の様子でも見てくるかねぇ。」
一瞬小屋の中を覗きに来た舞鶴は、また外に出ようと一歩歩いたが、ピタリと止まった。
「……瑠璃姫はわかりやすいよね。」
「へ…?」
「それから雨音、あんたも。」
「わ、私?なんでしょう。」
「雨音、あんたが頑張らなくても、アタシが頭領の花嫁になってみせるさ。安心しな。」
それはいつもより張りがある、強い語尾だった。
そんな舞鶴の言い方に、雨音は少しだけゾッとして、急いで舞鶴の方に顔を上げるが、舞鶴の顔は夕焼けの逆光で影が落ちていてなにも見えなかった。
雨音は、ツンとした石の匂いで目を覚ます。
まだ屋根はついていないが、この歪で小さな小屋での寝泊まりにも慣れてきた。小屋から少し歩いた場所に井戸がある。井戸まで行き水を汲み、顔を洗う。
こんなに気の抜けた生活は生まれて初めてだ。吉原にいた時は、起きると同時に厨房・掃除・仕入れなど一通りの雑用が次から次へと押し寄せる毎日だったのだから。
「雨音姉さま。」
手拭いで顔を拭いていると、後ろから瑠璃姫が声を掛けてきた。
「今日も屋根作りですの?」
「ええ。あたくし、心を入れ替えましたの。今日からあたくしも手伝いますわ。」
「え?」
「じゃあ、そういうことで。」
小屋に帰ると、舞鶴が手鏡で化粧を施していた。
「あらぁ舞鶴姉さま。大工仕事でそんなに丁寧にお化粧だなんて。太夫の心持ちは違いますわね。」
「なにさ。」
「なにも?あたくしもお化粧しようと思って。」
「なんだいあんた、それこそどういう心変わりで屋根作りを手伝おうなんて言い出したのさ。」
「言いましたでしょう?あたくし、心を入れ替えましたのよ。」
「ふっ、どうだかねぇ。」
「雨音姉さまは相変わらず素っぴんですのね。まぁいいけど。」
「雨音はそのままでも綺麗だよ。」
舞鶴と瑠璃姫は黙って化粧をし始めた。
雨音には、化粧道具などない。いつになく真剣な顔をして紅を引く二人に、なぜだか居心地の悪さを感じた。
手持ち無沙汰なので、小屋を出てその辺を当てもなく歩いた。
風に乗って、微かにたからかな笑い声が聞こえてくる。ふと隣を見ると、花嫁候補の令嬢たちが暮らしている長屋が見えた。
長らく様子を見に来ていないな。本来ならば私たちもあそこで暮らしていたはずだ。土だらけになって、小屋など作ることもなかった。あの部屋では、もう花嫁の選定が始まっているのだろうか。
長屋を追い出されて、初めて三姉妹だけで暮らしてきた。最初は、たとえ馬小屋だとしても、この上ない幸福感に満ちていた。
しかし、いつからか、なんとなく居心地が悪いと感じる瞬間が増えてきたのだ。
どうしてだろう。今日は舞鶴お姉さまも、瑠璃姫も、二人の間の空気が張り詰めている気がする。
雨音の小さなため息が静かに零れた。
「雨音はいつも物憂げな顔をしているな。」
「えっ……。あ、明閻さま。いつの間に…?」
「そこの長屋に用があったので寄っていた。」
「そうなのですね。明閻さまはお忙しいのですね…。」
「どうした?覇気がないな。物憂げな横顔を見ると、家族を思い出して私も悲しくなる。しかし、雨音。そなたの表情は、哀らしくもあるが、上品だ。…なにか悩みでもあるのか?」
「悩み……。そうか、私…悩んでいたのかもしれません。」
「悩んでいたかも、と…今気付いたのか?」
「はい……。」
「悩みに気付かぬなど…。」
思いもよらない雨音の発言に、開いた口が塞がらず、きょとんとしている。そんな彼の様子に、雨音もつられて目を丸くする。二人して金魚のような顔になっている状況に、思わず笑みがこぼれる。しかし、すぐにいつもの雨音の表情に戻った。
男は、そんな一瞬の輝きのような雨音の仕草に釘付けになっている。
「私は、欲にまみれているのかもしれません…。」
「欲?」
「最初は、ここに来た頃は…。姉妹三人で一緒にいられるなら、なんでも良かったんです。むしろ、吉原にいた頃よりも幸せで…。でも、最近は怖いんです。せっかく三人で過ごせるのに、小屋だって舞鶴お姉さまが一生懸命建ててくれたのに、私は前ほど感動しなくなったんです。それに……」
そこまで吐露して、雨音の目からぽろぽろと涙が零れた。
どうして、夜会いに来て下さらないのですか。
私は毎日あの池の傍で、あなたの姿が見えるのを心待ちにしているというのに。
そんな投げかけを、思わず吐き出しそうになった。
「雨音は不思議だ。そなたのような女子は見たことがない。微笑む顔も、涙するその瞳も、どんなそなたであっても目が離せないのだから。」
「え……。」
「あ、いたいた。雨音!」
舞鶴がこっちへ向かって走って来た。
そして雨音の傍まで来ると、この男との距離を開けるかのように、雨音の体を自分の方へと引き寄せた。
舞鶴の少々強引な腕に、雨音は一瞬よろけて舞鶴の方へ倒れ込んでしまった。
「随分と戻ってこないから探したよ、雨音。明閻、あんたも一緒だったんだね。」
「舞鶴お姉さま……。」
あれ?舞鶴お姉さま、いつもなら「ごめん雨音、大丈夫かい?」って声を掛けてくれるのに…。
「明閻、今日も手伝ってくれるんだろう?今日から末の妹も加わるみたいでさぁ。」
「ああ、そのつもりだが。」
舞鶴と想い人が横に並んで談笑する姿を、雨音は複雑な心境で眺めていた。
明閻さま。どうして、夜会いに来て下さらないのですか。
私は毎日あの池の傍で、あなたの姿が見えるのを心待ちにしているというのに。
それでも昼には来て下さるのは、舞鶴お姉さまがいらっしゃるから……?
心のモヤモヤを抱えたまま、瑠璃姫も加わった屋根作りが始まった。
「ねぇ~!ここどうすればいいのぉ?あたくし分からないわ。」
「女子の力では難しいだろう。貸せ。」
「へぇ~。頼りになるんですのね。」
瑠璃姫が明閻に色目を使っているのがあからさまに伝わる。瑠璃姫は明閻の傍から一向に離れようとせず、ずっと明閻の隣をキープしている。
雨音は舞鶴の様子が気になり、竹を切っている姉の様子をチラ見したが、特に変わった様子もなく、目の前の作業に集中していた。その態度に雨音は少しだけ違和感を覚えた。
どうしてだろう。
瑠璃姫がいない時は、私はここでずっと竹格子を作っているけど、舞鶴お姉さまは明閻さまと一緒に竹や蔦縄を取りに行ったりして、ここにいないことが多いのに。
今日はみんながこの場にいる。だから…?
「ねぇみんな、そろそろお昼にしないかい?」
作業を中断して、雨音の作ったおにぎりを頬張る。
「握り飯はあまり食べたことがないのだが…。米がこうして塊になっている見た目は面白いな。」
「雨音姉さまって本当に庶民的なお料理を作るのがお上手なんですのよ。あたくしは料理なんて作ったことないけど。あやかし界でも高貴なお方ってお料理なんてしないんでしょう?」
「ああ。そういった生活基盤の役を持つ者がいる。」
「でしょう?きっと雨音姉さまなんてお給仕係にぴったりですわよ。」
「雨音、この握り飯には他に具材はなにを入れるのだ?今日はなにか干した海藻のようだが。」
「あ、えっと……。」
「なに、下界の料理に興味があるのかい?明閻。」
「言っておくがもう下界とは言わないぞ。」
「ふっ、やるじゃあないか。雨音に聞かなくても、人間界の文化が気になるならアタシが教えてあげるよ。」
「ちょっと、舞鶴姉さまがなにを教えるって言うのよ。雨音姉さまが風邪をひいたときに舞鶴姉さまが作った黒こげ粥、忘れたとは言わせませんわ。この人、料理下手よ。」
「瑠璃姫!」
雨音は始終、居心地の悪さを感じた。
日が傾き始めたころ。
雨音は小屋で静かに野菜を切っている。
「瑠璃姫ー。あれ?瑠璃姫来てないかい?」
「いえ…。」
「そうか。手伝おうか?雨音。」
「いえ…。もうすぐ終わりますから。」
「じゃあアタシは長屋の様子でも見てくるかねぇ。」
一瞬小屋の中を覗きに来た舞鶴は、また外に出ようと一歩歩いたが、ピタリと止まった。
「……瑠璃姫はわかりやすいよね。」
「へ…?」
「それから雨音、あんたも。」
「わ、私?なんでしょう。」
「雨音、あんたが頑張らなくても、アタシが頭領の花嫁になってみせるさ。安心しな。」
それはいつもより張りがある、強い語尾だった。
そんな舞鶴の言い方に、雨音は少しだけゾッとして、急いで舞鶴の方に顔を上げるが、舞鶴の顔は夕焼けの逆光で影が落ちていてなにも見えなかった。
