正しい家族の壊し方

『家族』というものは、もっと頑丈なものだと思っていた。
 たった一度、『何か』を見てしまっただけで壊れるなんて、あの日まで、ちっとも知らなかった。

 あの日、学校帰りに駅前の本屋へ寄らなければ。
 きっと今も、私たちは何事もなかったような顔で、『家族』を続けていたのだと思う。

 だけど——私は見てしまった。

 母が、父ではない男の人と抱き合っているところを。

 相手の男は、毎朝、私に「おはよう」と笑いかけてくれる隣の家のおじさんだった。

 私の幼なじみの、父親だ。

 その事実を理解した瞬間、胸の奥で、何かが音もなく崩れた。

 それ以来、私は母の作る料理が一切食べられなくなった。

 **

 昼休みの開始を告げるチャイムが鳴るのと同時に、教室を飛び出す。
 本気で走るのなんて、何ヶ月ぶりだろう。
 それでも、購買でのパン争奪戦に惨敗してしまった。

 唯一売れ残っていたコーヒークリームパンをひとつだけ手に取り、映画研究会の部室へ向かう。

 映画研究会の部室は、部員数のわりに設備がいい。
 壁一面のスクリーンに、巨大モニター。そこそこ音のいいスピーカーまで揃っている。
 だから昼休みになると、部員でもない生徒たちまで、当然のように入り浸っていた。

 ただし、三年生の先輩が「部外者が増えすぎると困る」と言って、昼休み中のアニメと邦画を禁止にしているため、人口密度は適正だ。

 部室には部長を含め三人の先客がいて、スクリーンには最近配信されたばかりの、アメコミ原作のダークヒーロードラマが流れている。

 赤いマスクの男が、薄暗い廊下で敵を殴り倒す。
 骨の折れる音。
 悲鳴。
 飛び散る血飛沫。

 こんなふうに、全部壊してしまえたら、どんなに楽だろう。

「珍しいな。弁当じゃないのか?」

 背後から声をかけられ、びくっと体がこわばる。

 振り向かなくても、誰かはわかる。
 隣の家に住む幼なじみ——海斗だ。

「……パンが食べたい気分なんだよ」

 不人気な理由がよくわかるコーヒークリームパンを、牛乳で無理やり流し込んでから答えた。

「そんなので足りるのか?」

「これしか残ってなかった」

「やるよ」

 海斗はコロッケパンを私の膝に投げてよこした。

「いらない。足りなくなるでしょ、あんた」

「平気。俺、弁当あるし」

 海斗の手には、いつもの弁当袋が握られていた。
 長身で無駄にガタイのいいこの男が持つには、可愛らしすぎるアラスカンマラミュート柄の袋。

 おばさんの好みなのだろう。

 そう思った瞬間、脳裏に例の光景が甦り、喉の奥がきゅっと縮む。

「……何かあったのか?」

「別に」

「別に、って顔じゃない」

 海斗はおんぼろなソファの、私の隣に腰を下ろす。

 みしっと嫌な音がして、少しお尻が浮くような感じがした。

 日に日に伸びていく海斗の背丈が、たまらなく恨めしい。
 何年か前まで、私のほうが高かったのに、今では十センチ以上差をつけられている。

 中学に入ると同時に、私は大好きだったサッカーを辞めた。
 女子はサッカー部に入れない決まりだったからだ。

 私より下手だったはずのこの男だけが続けて、今では強豪校の主力選手だ。

 二次性徴なんて、来なければよかった。

 半袖シャツからのぞく、海斗の腹立たしいくらい逞しい腕を眺め、私はため息を吐いた。

「お前の食欲がないなんて、不気味だ。なんかあったなら言え」

 憂鬱の理由なんてちっとも気づいていない顔で、海斗はそんなことを言う。

 その顔が、彼の父親によく似ていて。

 私は思わず、唇を噛み締めた。

 ヤケクソな気持ちでコーヒークリームパンに齧り付いた、その時だった。

 海斗の口から、予想外の言葉が飛び出した。

「もしかして、お前も気づいたのか。——お前んちの親父さんの……アレに」

「は? 何、アレって」

「いや、違うならいい」

 海斗の横顔が強張る。

 いつだって豪快に笑うこの男が、こんなに硬い顔をしているのを、私は初めて見た気がした。

「そんなこと言われたら、気になるし」

「気にする必要ない」

「気になる」

 海斗は、膝の上でぐっと拳を握りしめた。

 何かを言いかけて、そして、飲み込む。

「なんでもないって、言ってんだろ」

「——アンタも見たの?」

 もしかしたら、言い間違えたのだろうか。

 お前んちのおばさん。

 そう言おうとした……?

 不自然すぎる海斗の態度に、そんな言葉が脳裏をよぎる。

 本当はホテルに入るところなんて、見ていない。

 でも——揺さぶるなら、それくらい極端な嘘を吐いたほうがいい。

「見たの? ホテル入ってくとこ」

 海斗は私を凝視すると、日に焼けすぎてカサカサになった唇を、微かに震わせた。

「お前も……見たのか?」

 は……?

 ちょっと待ってよ。
 嘘でしょ。
 いや、嘘だって言ってよ。

 うまく、声が出てこない。

 いやだ。
 いやだ。
 いやだ。

 ただでさえ、二度と消し去れないような、嫌なものを目撃してしまったのに。

 それ以上の想像を、させないでほしい。

「最低だよな。——ウチのお袋も、お前んとこのおじさんも」

 私の手から、食べかけのコーヒークリームパンが転げ落ちてゆく。

 スピーカーから、鋭い銃声が鳴り響いた。

「パン、落としてんぞ」

 三年の先輩の声がした気がするけど、反応する余裕なんてなかった。

「ちょっと待って。何言ってんの。——最低なことしてんのは、アンタんとこの父親と、ウチの母親でしょ?」

「は?」

 何言ってんだコイツ、とでも言いたげな顔で、海斗が私を見た。

「いや——ウチのお袋と、お前の父親だろ」

「違うって。私、見たもん。——二人が」

「ラブホ入ってくとこ?」

 ラブホ。

 はっきり言葉に出されると、不快感がさらに激増した。

「……違う。抱き合ってるところ」

「マジかよ……」

 大きな手のひらで顔を覆うようにして、海斗がうめき声をあげる。

「最悪だな。——W不倫ってやつか」

 海斗の言葉に、私より先に、三年の先輩たちが反応した。

「ちょっと待て。頑張って聞かないふりしてやってたのに。スルースキル試されすぎだろ、そんな大ネタ!」

 同じように茶化せたら、どんなにいいだろう。

 だけど、口をぱくぱくさせるのが精一杯で、何のリアクションもできそうにない。

 何度か深呼吸して、ようやく捻り出せたのは、

「大学、行けなくなると困る」

 という、極めて現実的かつ、打算的な言葉だった。

 海斗は呆気に取られた顔で、目を瞬かせる。

「——お前さ、他に何かないわけ……?」

「何かって?」

「いや、ほら。……なんとかしてやめさせよう、とか。そういう——」

 仮に、不倫をしているのが、私の母と海斗の父親だけだったら。

 お父さんかわいそう。
 おばさんかわいそう。

 そんな同情心から、不倫をやめさせようという気持ちも、沸いたかもしれない。

 だけど——隣の家同士のW不倫。

 そんなクソみたいな事実が発覚した今、同情すべき相手は、どこにも存在しない。

 むしろ、私に同情してほしい。

 道端に二億円転がっているくらいの、人生の補償はされるべき由々しき事態だ。

「無理じゃない? どっちもクズだもん」

「まあ、そうだけどさぁ……」

 大きな体を屈めるようにして、海斗がコーヒークリームパンを床から拾い上げる。

 埃を払って食べようとしたから、慌てて取り上げた。

「ちょっと。何してんの」

「三秒ルール」

「余裕で三秒超えてるし!」

 こんな状況で、何をやっているのだろう。

 でも、くだらないやり取りをしている間だけ、ほんの少し、息ができる気がした。

「じゃあ、どうすんの?」

「どうって?」

「問い詰めたりとか」

「やめてよ。拗れたら、家の中の空気最悪になるし、大学行けなくなるんだよ?」

「俺は——」

 そこまで言いかけて、海斗は口をつぐんだ。

 ああ、そうか。
 海斗はスポーツ推薦を狙っている。

 だから、私の百分の一も緊張感がないんだ。

「親に頼らずに大学行けるからって、ウチの家庭までぶち壊すの、やめてくんない?」

「じゃあ、どうすればいいんだよ」

「大学の、学費払わせてからにする」

 キッパリと、私は宣言した。

「学費払わせた後、断罪するってこと?」

「親の不倫のせいで、大学行けなくなるとか、絶対嫌だし」

「それまで、耐えられるのか……?」

「気持ち悪いけど、仕方なくない?」

 感情的になって泣き喚いて、そのせいで人生終了なんて、辛すぎる。

 ただでさえ、信じていたものを、全部粉々にされたのに。

 家の中にいるのが、吐きそうなくらい、辛いのに。

「——わかった」

 海斗は、低く息を吐いた。

「そしたら、それまで同盟結ぶか。協力して、証拠を集めよう。確実に、互いの家族をぶち壊せるように」

 海斗はそう言って、私に大きな手のひらを広げてみせた。

 ハイタッチ?

 この状況下で?

 できるわけないじゃん。

 いつまで経っても応えようとしない私を、海斗は一瞥する。

「なんだよ、ノリ悪いな」

「は!? この状況でのれるわけないでしょ!」

「いや、悪ノリしないとやってられなくないか。シラフで受け止めるとか、無理だろ」

 はぁ、と大きなため息を吐きながら、海斗は私の手を掴み、無理やり自分の手のひらに打ちつけた。

 ぱんっ、と小気味よい音が鳴る。

 やめてよ、と思いながらも。

 なぜだか少しだけ、気持ちが晴れたような気が、しないでも、ない、でも、ない……?

「なんかもう、何もかける言葉ないんだけどさぁ……。強く生きろよ、お前ら」

 部長をはじめとする三年生の先輩たちが、次々と私と海斗の前に、お菓子の差し入れを積み上げる。

 その日から、私と海斗の、お互いの家族を壊すための共闘の日々が、幕を開けたのだった。