チョコレートの甘い香り

甘い、しょっぱい、ピリ辛、酸っぱい。何かを口にするたびに、味と感情が混ざり合い、快楽の渦に飲み込まれる。食べることは愛の行為だ。材料を選び、丁寧に仕上げていく過程は、純粋な愛そのものであり、誰かがそれを温かい心と空いたお腹で受け取ってくれる。
チョコレートがバニラケーキの表面で溶けていく。甘い香りが教室中に漂う。テーブルには洗い物が山積みになっている。生徒たちはケーキが焼き上がるのを待ちながらおしゃべりに花を咲かせている。製菓部の部員は5人だけ、男子1人に女子4人だ。毎日放課後に集まり、世界中のお菓子のレシピや技術を一緒に学んでいる。
チン。タイマーが鳴った。それぞれがオーブンからケーキを取り出し、焼き加減を確認する。香りは抗いがたい。型から外し、花柄の美しい磁器の皿に乗せてからカットする。
「エリカちゃん、教室の外にいる人たちにケーキを試食してもらえるか聞いてきてもらえる?」と部員の男子が頼んだ。
「いいけど、どうしていつも学校のみんなに配るの?家族に持って帰らないの?」とエリカは不思議そうに聞いた。
「料理していて一番嬉しいのは、食べた人の顔がぱっと輝く瞬間を見ることだから」
エリカは微笑みながら、ケーキを持って廊下に飛び出し、生徒や先生たちに声をかけた。その香りと見た目に、多くの人が足を止めた。廊下はバニラとチョコレートの香りと、笑い声と、美味しいものを味わう喜びの表情で満ちた。
「一切れもらえる?」男性の声がエリカの注意を引いた。黒髪に濃いブルーの瞳を持つ、筋肉質な男子生徒だった。学校のサッカーチームのユニフォームを着ている。どこかで見たことがある気がしたが、確信はなかった。
「さっきハンバーガーとアイスを2個食べたじゃないか」と別の男子が呆れたように言った。
「お願い、美味しそうだし、体育館の階段まで香りが漂ってきたんだ」
エリカは頷き、一切れ差し出した。男子はそれをひと口でぱくりと頬張った。目がきらきらと輝き、満面の笑みが顔いっぱいに広がった。「これ、誰が作ったの?今まで食べた中で一番美味しいケーキかもしれない」
「英斗田中くん、あのカウンターの後ろにいる金髪の子よ」とエリカは指差しながら答えた。
男子は口の端にチョコレートをつけたまま教室に入り、カウンターへと近づいた。「ねえ、君のケーキ最高だよ、今まで食べた中で一番かも」。英斗は顔を上げ、目の前の男子と視線が絡み合った。深く暗い青い瞳は強烈で、目を逸らすことができない。顔には輝くような優しさがあり、口の端のチョコレートのしずくが午後の光を反射していた。「水木友哉、学校のサッカー部に入ってる」
「ありがとう。僕は英斗、見ての通り製菓部だよ」と英斗は少し視線を落としながら恥ずかしそうに言った。
「もう行かなきゃいけないけど、また君のお菓子を味わえるといいな」水木は優しい笑みを浮かべながら言った。
エリカはその一部始終を見守り、自分の中でふたりのカップルが形作られていくのを感じて胸が高鳴った。

それからの日々、英斗は製菓部での練習を続け、新しいレシピに挑戦し、常に自分のレベルを上げようとしていた。誰かを、少なくとも水木を驚かせたかった。自分のお菓子にあれほど嬉しそうな反応を示してくれた人は初めてだった。あの顔の輝きこそが、英斗が料理をする喜びだった。休憩のたびに窓際に近づき、グラウンドを眺める。水木はいつもグラウンドにいて、時々ベンチで息を整えている。そして毎日、練習が終わると教室にやってきて、その日のお菓子を味わい、英斗と言葉を交わした。
「今日は最高だよ、このストロベリーマフィンは信じられないくらい美味しい。50個食べても満足できないかも。このままじゃ太るけど、それだけの価値がある、本当に素晴らしい」
「ありがとう、気に入ってくれて嬉しいよ。今日はバニラを少し足して風味を出してみた」
「それが感じられるよ。色も完璧だ、君の琥珀色の瞳とプラチナブロンドの髪にぴったり合ってる」
その言葉に英斗は頬を赤らめた。
「ねえ、明日初めての公式試合があるんだけど、見に来ない?僕の実力を見せたいんだ。もちろん気が向けばでいいよ、無理しなくていい」水木はもうひとつマフィンを頬張りながら聞いた。
「うん、喜んで。明日の練習と同じ時間?」と英斗は尋ねた。
水木は嬉しそうに頷いた。
「来てくれて本当に嬉しい、期待を裏切らないといいけど」と水木は冗談めかして言った。「じゃあ明日ね」。立ち去ろうとした瞬間、水木は手を伸ばし、英斗の頬をそっと撫でた。繊細だが、強烈な触れ方だった。
英斗は固まり、言葉も動くこともできず、あの筋肉質な男子が教室を出て行くのをただ見つめていた。エリカは口を大きく開け、感動で潤んだ瞳でその一部始終を見ていた。

英斗はすでにスタンドに座っていた。隣にはチョコレートとアーモンドが入ったアメリカンスタイルのクッキーが山盛りのトレーがある。前の晩、サッカー部全員のために作ったものだ。試合を生で観戦するのは初めてで、基本的なルールすら知らない。ただ水木がグラウンドを駆け回るのを目で追い、何が起きているのか、どちらが勝っているのかを理解しようとしていた。大切なのは水木のチームが勝つことを願うことだった。クッキーを食べてもらうのが待ち遠しかった。水木はきっと喜んでくれる。
3対2。水木のチームが試合に勝った。皆が歓喜し、英斗も嬉しくなってクッキーを持ってロッカールームへ向かった。中に入ると選手たちは跳び上がって叫んでいた。裸の子もいれば半分着替えた子もいた。水木はシャツを脱いでいた。英斗は水木の体がこれほど筋肉質で引き締まっていることに今まで気づいていなかった。汗で光る肌。水木は英斗に気づくと近づいてきて、羽根のように軽々と抱き上げた。
「来てくれてありがとう、勝ったよ。君がラッキーチャームだ」と水木は叫んだ。
「みんな最高だったよ。お祝いにお菓子を持ってきた、遠慮なくどうぞ、全員分あるから」英斗はトレーの蓋を開けた。アーモンドとチョコレートの香りがロッカールームに広がった。大成功だった。皆がその味に歓喜したが、水木だけはひとつも食べようとしなかった。英斗は不思議に思った。水木がこれまで何かを断ったことは一度もなかった、しかも英斗の作ったものなら尚更。どうしたんだろう?アーモンドアレルギーかもしれない。
英斗は目に見えてがっかりしながらトレーを置き、チームが着替えて帰れるようにロッカールームを出た。建物の裏の階段に差し掛かったとき、壁に押し付けられた。英斗は驚いて顔を上げると、水木がいた。片手を壁についた水木が目の前に迫り、英斗を動けなくさせていた。
「なんで?」水木は低い声で聞いた。
「どういう意味?」英斗は混乱し、怖くなって聞いた。
「なんで他の奴らにもクッキーを配ったんだ?」
「試合の勝利をお祝いしたかったから」英斗は困惑しながら答えた。
「僕だけのために作ってくれてると思ってた。僕が特別だと思ってた。君のお菓子を味わえる数少ない人間のひとりだと」水木の頬を涙が伝った。
「傷つけるつもりはなかった、ただ親切にしたかっただけ。でも君が一番好きな試食係だって分かってるでしょ、料理するとき、頭に浮かぶのは君の顔だけだよ」英斗は初めて、はっきりとした口調で言い切った。
水木は腕を折り曲げ、英斗に近づいた。互いの息遣いを感じるほどの距離になった。ふたりはそのまま、時間の感覚が失われるほど長く、じっと見つめ合った。水木は英斗の口元に唇を近づけた。触れることなく。静止したまま。「君の口は、君のお菓子みたいに甘くて美味しいのかな」水木は温かい声で言った。
英斗は目を見開き、唇をきつく結んで、水木の手を振りほどき走り去った。水木は引き止めようとしたが間に合わなかった。水木は走り去る英斗を見つめた。ポケットからクッキーを一枚取り出し、かじった。

英斗はベッドに仰向けになり、天井を見つめながらあの瞬間を何度も思い返していた。どうすればいいのか分からない。考えて、また考える。「あの子に惹かれてるの?あの子は僕に惹かれてる?なんで?今まで男の子に興味を持ったことなんてなかったし、女の子にも。いったい何が起きてるんだ?明日絶対部に来るだろうけど、どう接すればいいんだ。なんでこんなことになったんだ?」と髪をかきむしりながら心の中で叫んだ。「大丈夫、いつも通りにすればいい。あの子に会えるのは嬉しいんだから、大丈夫」
油が沸騰し、砂糖がカラメル化し、クリームがクラーフェンに入れる準備ができている。カロリー爆弾だが、絶品だ。教室の香りがあまりにも強烈で、多くの生徒や先生が覗きに来た。英斗はとても緊張していて落ち着きがなかった。エリカもそれに気づいていた。
「英斗、今日の香り最高だね」水木が入ってきた。「早く食べたい、いい?」挑発的な笑みを浮かべながら聞いた。
英斗は恥ずかしそうに頷いた。
水木はドーナツに大きくかぶりついた。クリームがあふれ出して口の端に広がる中、顔が輝いた。
「クリームがついてるよ」英斗は指差して言った。すると水木は即座に英斗の指をそっと取り、自分の唇のクリームをそれで拭き取り、ゆっくりと舐めた。エリカはその一部始終を見て、これ以上ないくらい幸せそうだった。英斗は言葉を失った。
「いつも通り最高だった、また明日ね、その先も」水木は唇を舐めながら教室を出て行った。
「英斗!!!今のは何?ふたりの間に何があるの?何も話してくれないじゃない。絶対に素敵なカップルになれるのに、もう興奮が止まらない!」エリカが大はしゃぎする中、英斗はぼんやりと虚空を見つめていた。

その日英斗は家にいた。出張中の両親の代わりに家のことをする必要があったのだ。学校には体調不良と伝えた。面倒なことになるのも余計な説明をするのも嫌だった。キッチンとリビングにコーヒーの強い香りが漂っている。英斗はお気に入りのお菓子のひとつを作っていた。ティラミスだ。世界中で愛されるイタリアのスイーツ。冷蔵庫に入れてもう2時間以上経つ、そろそろ出来上がっているはずだ。暑い夏の日にぴったりのデザートだ。
本を読もうと腰を下ろしたとき、玄関のチャイムが鳴った。その日は誰も来る予定がなかった。ドアを開けると、そこには水木がいた。
「何しに来たの?」英斗は驚いて聞いた。
「ごめん、エリカにアドレスを聞いたんだ。体調が悪いって聞いたから、何か必要なものがないか確認しに来た。快気祝いにマフィンも持ってきた。それより、すごくいい香りがするけど、何を作ってるの?本当に大丈夫?」水木はものすごいスピードで話した。
「うん、大丈夫、病気じゃないよ。個人的な用事があって一日休んだだけ。ティラミスを作ってた。マフィンありがとう、すごく優しいね」
「あ、それ食べていい?香りが最高だから、お願い」水木はいつもの、子犬と密林の豹を合わせたような笑みで頼んだ。
英斗はしぶしぶながら断ることができず、家に上げた。ふたりきりでいることがひどく居心地悪かった。特にここ数日のことがあった後は。
ふたりはリビングのソファに腰を下ろした。誰も言葉を発しない。気まずい雰囲気が漂っていた。英斗はグラスを取りに行き、オレンジジュースを出した。のどが渇いていそうだった。水木は礼を言ったが、動いた拍子にジュースを全部こぼしてしまった。
「ごめん、やらかした」水木はダメージを確認しながら言った。
「気にしないで、タオルを持ってくるよ」
「いいよ、大丈夫」水木はシャツを脱いでバッグに入れた。腕、胸、腹筋の血管までくっきりと見える引き締まった体。「このままでいい?」と自分のズボンを確認しながら聞いた。
「全然問題ないよ、オレンジジュースのおかわりを持ってくる」英斗は恥ずかしさを隠しながらキッチンへ向かった。こんな状況は初めてだった。深呼吸をして水木のところへ戻った。
「ありがとう。で、ティラミスはいつ食べられる?」水木は興味津々に聞いた。
「もう出来てると思う、ちょっと待って」
英斗はティラミスがたっぷり入った耐熱皿とふたつのスプーンを持って戻ってきた。ローテーブルに置いて、スプーンを差し出した。
「いただきます!」ふたりは声を揃えた。
水木が先に食べた。背もたれにどさっと倒れ込み、獣のような声を出した。「最高、今まで以上に最高。全部ひとりで食べたい」スプーンをもう一杯すくいながら言った。
「気に入ってくれて嬉しい。もう一皿分冷蔵庫にあるから、これ全部食べていいよ」その言葉に水木はこれ以上ないくらい嬉しそうになった。猛烈な勢いでデザートを平らげていく。英斗はその光景に呆れながら、どれだけ大きい胃袋をしてるんだと思った。マスカルポーネクリームがスプーンから落ちて、水木の胸に着いた。
「またやった。本当にすまない、手伝ってくれる?」水木は英斗の目をじっと見つめながら、反応を期待して言った。
「タオルを取りに行くよ」英斗は立ち上がろうとしたが、水木が手で引き止めた。
「いらない。直接手伝ってほしい。食べて」
英斗はその言葉に戸惑った。目を逸らしたかったが、できなかった。接触があまりにも強烈だった。ゆっくりと近づき、口で水木の胸からクリームを取り除いた。ゆっくりと。「口も汚れてる」水木は英斗の首に指を添えながら言った。二人の唇が初めて触れた。甘く、激しく、情熱的なキスだった。コーヒーの香りがふたりの感覚を包み込んだ。離れると、静かな午後の空気の中で互いの吐息が混ざり合った。英斗は視線を落とした。頬が深紅に染まっている。水木はそっと指で彼の顎を持ち上げ、深い青の瞳と目を合わせさせた。
「やっぱりそうだった」水木は微笑みながら、静かな声で言った。
「何が?」英斗はささやくように聞いた。
「君の口は、君のお菓子と同じくらい甘いって」
英斗は思わず笑みをこぼした。今度は逃げなかった。固まりもしなかった。そのままそこに座っていた。隣には水木がいて、ふたりの間にはほとんど空になったティラミスの皿があり、空気にはコーヒーの香りが漂い、胸の中には温かくて軽い、新しい感覚があった。出来たてのティラミスに、マスカルポーネクリームをそっと重ねた瞬間のような感覚。それが何という名前なのか、まだわからない。でも料理をするとき、あの顔が輝く瞬間をずっと見たいと思っていた。そして今、その顔がすぐそこにある。自分だけに向けられた笑顔と共に。
これが、自分の最高傑作なのかもしれない。