小春は膝の横に置いたビスケット缶へ、そっと視線を落とした。
深い紺色の缶には、夕暮れの光が鈍く反射している。
遠ざかっていく革靴の音は、もう聞こえない。
代わりに、風鈴の音だけが静かに残っていた。
「朔夜様」
小春がぽつりと呟く。
「なんだ」
「九条さん……とても朔夜様のことを大切に思っているんですね」
朔夜は少しだけ目を細めた。
「あいつの故郷は昔、大規模な穢れ災害に遭った」
小春が顔を上げる。
「助けたのは、父上だ」
夕暮れの風が二人の間を抜けていく。
「村一つが消える規模だったらしい。父上は、ほとんど眠らず穢れを浄化し続けたと聞いている」
朔夜は空を見上げたまま続ける。
「その時、九条はまだ子供だった」
小春は静かに耳を傾ける。
「だから、あいつは御神影へ恩を返そうとしている」
ラムネ瓶の水滴が、ぽたりと縁側へ落ちた。
「だが同時に……」
朔夜の声がわずかに低くなる。
「御神影がどういう末路を辿るのか、誰よりも知っていた」
「……」
「穢れを引き受け続ければ、俺はいずれ壊れる。そうなる前に、どうにかしたかったんだろうな」
小春は小さく息を飲む。
(……死んでほしくない)
九条はずっと、そう願っていたのだ。
けれど御神影の役目を否定することもできない。
だから感情を押し殺して職務として扱ってきた。
小春は、去っていった白制服の背中を思い出す。
孤独だったのだ。
朔夜も、九条も。
役目のためだけに生きることで、自分を守っていた。
小春はそっと微笑む。
朔夜が視線を向ける。
「でも……九条さん、安心していました。朔夜様が、ちゃんと生きているって」
その言葉に朔夜は静かに目を伏せた。しばらくして小さく息を漏らす。
「……そうかもしれないな」
風鈴が、ちりんと鳴る。
穏やかな沈黙が落ちた。
小春は膝の上で指を絡める。
そして、ゆっくり朔夜を見る。
夕暮れに照らされた横顔は、以前よりずっと柔らかくなっていた。
(こんな顔をするようになった)
胸の奥が、じわりと熱くなる。
すると朔夜が小春の視線に気付いた。
「どうした」
「……いえ」
小春は小さく笑った。
「朔夜様が、ここにいてくださるのが嬉しくて」
その瞬間、朔夜の目がわずかに細められる。
静かな沈黙の中、遠くでヒグラシが鳴いている。
やがて朔夜は、ゆっくり身体を小春へ向けた。
「小春」
「はい」
「お前の実家へ行こう」
小春が目を瞬かせる。
「え……?」
「正式に挨拶をする」
真っ直ぐな声だった。
「お前を迎え入れると伝える」
小春の呼吸が止まる。
かつて実家では、厄介者として扱われていた。
店のための道具のように扱われ、最後には生贄のように送り出された。
そんな自分を、今度は迎え入れると言ってくれている。
視界がじわりと滲んだ。
「朔夜様……」
小春のまつ毛が震える。
望まれている──その事実が胸の奥へ痛いほど染み込んでいく。
小春はゆっくりと朔夜の手へ自分の手を重ねた。触れた瞬間、呼吸が浅くなるが苦しさはない。どうしようもなく温かかった。
小春はその指をきゅっと握る。
「これからも……朔夜様のために、世界一美味しいお菓子を作ります」
少し震える声。
朔夜はその熱を手のひらから確かめるように目を伏せた。
やがて、もう片方の手がそっと小春の頬へ触れる。
低く穏やかな声。
「……俺の命は、お前のものだ」
小春の瞳が揺れる。
主神と職人──菓子で命を繋ぐ、二人だけの契約。
「お前の菓子が俺を生かす」
指先が小春の頬をなぞる。
「だから俺は、お前のために生きる」
小春の胸がいっぱいになる。
朔夜の手がそのまま腰へ滑り、小春を引き寄せた。
ふわりと朔夜の香りに包まれる。
見上げれば、すぐそこに朔夜の唇があった。
その距離に小春は途端に頬が熱くなり、視線が落ち着かなく彷徨った。
「なんだ。今更か?」
朔夜がくすりと笑う。
小春は慌てて首を振った。
「違うんです……その……」
「なんだ」
「みんなが囃し立てるから……」
小春の視線が庭の草花へ向く。
葉陰では小さな精霊たちがきゃあきゃあと騒いでいた。
朔夜はしばらくそれを眺めていたが、やがて静かに目を細める。
「……見られているのか」
小春は恥ずかしそうに小さく頷いた。
朔夜は一度だけ空を仰ぐ。
それから再び小春を見つめた。
「なら、黙らせてやろう」
「え……」
小春が息を飲む。
朔夜の顔がゆっくり近付いてくる。
唇が触れそうな距離で、ぴたりと止まった。
「そばにいろ」
低く甘い声。
「──ずっとだ」
小春は泣きそうな笑みを浮かべ、小さく頷いた。
「はい」
次の瞬間。二人の唇が、そっと重なった。
夕立前の湿った風が吹き抜ける。
風鈴が澄んだ音を鳴らすと、庭の桜の枝がざあと揺れる。
季節外れの花びらが一斉に縁側へ舞い落ちた。まるで祝福するように。
小春は目を閉じたまま、そっと朔夜の背へ腕を回す。
もう、この手を離すことはない。
ー 了 ー
