小窓から流れる風と一緒に蝉の声が流れてくる。外に目をやると、新緑の木々が並んでいるのが見える。高原らしい清々しい空気が小春の頬を撫でた。
「軽井沢は過ごしやすそうなところですね」
「ああ。帝都より空気が澄んでいる。静養するにはいいところだ」
朔夜も流れる景色を眺める。
「お父様、お元気だといいですね」
「……そうだな」
朔夜がふっと俯いた。
小春は一度、前を見る。小さく息を吸い吐いた。そして、朔夜の膝の上にある彼の手に自分の手を重ねた。
「もう大丈夫。何も心配することはありません」
触れる手を見て小春が静かに言う。朔夜は少しの間、押し黙る。
だが、手のひらをくるりと返し小春の手を握り返した。
まるで、その存在を手に焼き付けるかのように。
「お前がいれば安心だな」
小さく呟いた後、再び窓の外へと視線を移す。しかし、繋いだその手は決して離さなかった。
深い木の香りが漂う和洋折衷の別荘だった。大きな窓の向こうでは新緑が風に揺れている。部屋はどこか温かい空気に包まれている。
部屋の先には石積みのテラスが続いている。そこに、椅子に腰をかけお茶を嗜む父親がいた。
女中に案内され、小春は朔夜とともにテラスへと出た。
朔夜が『お前に似合う』と新調してくれた初夏の光を吸い込んだような新しい若草色の着物。その瑞々しい裾が、高原の爽やかな風にふわりと揺れる。
それを目に留め、すぐに立ち上がったのは母親だった。
淡いブルーのワンピースを身につけ、ゆるいカールヘアーが似合う女性だった。
「朔夜、小春さん……遠いところまで、ありがとう」
柔和な笑顔を向けられて、小春はほっと安堵する。そして、すかさず頭を下げた。
朔夜が前に出る。
「二人とも、お元気で何よりです」
母に送った視線を父の背中へと移した。
すると、父がすっと立ち上がり振り向いた。
小春は、その静かで重厚な雰囲気が、朔夜に色濃く受け継がれていると感じた。
「よく来たな。そちらが……」
小春は父にじっと見られ、再び頭を下げた。
朔夜が自然に小春の腰に手を当てる。
「鈴白小春さんです。私の妻となる方です」
──妻。
小春の頬がぽあっと赤く染まる。
皆の視線が集まり、余計に落ち着かない。
「あ、あの、至らぬ身ですが、朔夜様をしっかりとお支えいたします」
言い終えると、また頭を下げた。
「そんなに緊張しないでくれ。家族になるのだから」
そう言いながら、小春に一歩近づいた。
父親の足元がわずかによろめく。
長い療養生活の名残なのか、その身体はまだ本調子ではないのだろう。
小春や母親よりも早く反応したものがいた。それは、朔夜だった。
迷うことなく、すっと手を差し伸べた。
しかし父は一瞬だけ眉を顰めた。
「……いらんよ。触れればな、またお前を傷つけてしまう……」
それは父の罪悪感から出た言葉だった。
触れてもらえぬ朔夜の指先が宙に取り残された。
小春の胸がちくんと痛んだ。
(朔夜様が人の温もりを取り戻したことを知ってほしい)
小春が宙に浮いた朔夜の手をとると、父の手も取った。
「怖いことは何もございません。今の朔夜さんは人間の温もりを持っています」
小春は静かに言う。
すると父は、迷いながらも朔夜へと手を伸ばした。
二人の指先が触れそうになった時、今度は朔夜の指先が反射的に強く握り込まれる。
(まだ、怖いのか。愛する者を壊したあの呪いが)
小春は息を飲み、すかさず彼の背中にそっと温かな手のひらを添えた。
朔夜が小春に振り向く。そして、静かに小さく頷く。再び父を見据えると自ら父の手を取りにいく。
大きな手と、深い皺の刻まれた手が重なった
(触れることが、できた)
小春の胸に込み上がるものがあった。
互いの熱を感じた瞬間、父の顔がくしゃりと崩れた。
「……温かい……よかったな。一人にしてしまい、すまなかった」
もう一つの手を口に当て、震える声で言う。
「お前の力が強くなるほど、死神の力が暴走して私の腕の骨まで腐りかけた。……私はお前を愛していたが、それ以上に我が子が怖くなってしまった。手を引いて逃げてしまったんだ。その傷がお前をどれほど孤独にしたか……!」
父親の双眸から涙がポロポロと零れる。
朔夜はその手をしっかりと繋いだ。
「もう、終わったことです」
朔夜はもう片方の手を小さく震える父の肩にそっと添えた。
「小春の菓子が私を繋いでおります。もう、一人ではない。これからも、小春と一緒に生きていきます」
「朔夜……小春さん。本当に、運命の二人なのね」
隣の母も涙声でそう呟いた。
「小春さん」
父に呼ばれ、小春はすっと顔を上げた。
「朔夜を守っていただきありがとう。もう一人ではないのだと、私たちまで救われました」
「私も朔夜様に救われた身です。私の居場所を与えてくださった恩人ですから」
小春の言葉に、朔夜は静かに目を細めた。
「……お互いに、な」
孤独から解放された朔夜の顔は、これまで以上に穏やかだった。
何より、父に触れているその手から、朔夜の視線が離れることはなかった。
