朔夜が裏戸の扉を両手で開け放つと、目の前の森はすでに黒に侵食されていた。
生き物の声がしないどころか、瘴気に当てられた鳥たちの死骸が点々と落ちている。森を形作っていた木や草花たちも、精気を吸い取られ色をなくし項垂れていた。
漂ってくるのは、完全に無臭の冷たい空気。自然界にある土や青臭さも、一切が消え失せていた。
朔夜は眉を寄せながら歩み寄る。すでに小さな社と湧水場は暗幕をかけられたように黒で覆われ、姿を見ることができない。
(結界は壊されたか)
巨大な黒い球体が、どす黒い靄を吐き出しながら蠢いている。いつ朔夜に飛びかかろうかと、触手を伸ばしては引っ込めているように見えた。
すると目の前の球体から再び、ぎぎぎという奇妙な音が響く。上部から中央にかけて大きな裂け目が入ると、その隙間から、濁流のような黒い気体が川となって流れ出した。
朔夜の身体に緊張が走る。一度、大きく息を吐くと、片足を引いた。そして、右腕を顔の前に掲げる。
穢れから流れ出た瘴気は墨汁のように這い広がっていく。
朔夜は決して後退りはしない。
いよいよ朔夜の足元まで瘴気が迫る。絡みつくように脚を這い上がろうとするが、朔夜の肌に触れた途端、ふわっと色を無くして消えた。次から次へと押し寄せる瘴気は、朔夜に触れると簡単に浄化されていく。
朔夜の唇に密かな笑みが浮かんだ。
(小春、お前に守られている)
静かに目を伏せた。そして、少しずつ吸い寄せ始める。
どす黒い靄が小さな渦を作り、朔夜の中へと取り込まれていく。
朔夜へ流れ込んだ瘴気が、熱を持ってほどけていく。重かった身体が一瞬だけ軽くなった。
(楽だ。大丈夫だ)
朔夜は、ただ瘴気を浄化することだけに全神経を集中させた。
──だが、吸っても吸っても終わらない。
穢れは底なしの井戸のように瘴気を吐き出し続けていた。
(どこまでも終わりの見えない……)
そう思った瞬間、呼吸が乱れた。すぐさま、体勢を整え直し吸い寄せ続ける。
(決してつけ込まれるな!)
朔夜は腰元の巾着から伝わる温もりで己に気合いを入れた。
(小春のためにも穢れは断つ!)
限界を超えたとしても、すべての瘴気をその身に吸い込んでいく覚悟だった。しかし、微かに景色が歪み、世界が揺れたような気がした。かざした腕の皮膚に、黒い血管が浮き上がった。
「……っ!」
順調に浄化できているはずなのにと、朔夜は険しく鼻根を寄せる。もう一度、腕に視線を送るが、そこにははっきりと黒く変色した血管が這っていた。
(小春に……また会えるのだろうか)
朔夜の心に弱音が過った次の瞬間、意識が一瞬だけぷつりと途切れた。喉が焼けるように熱いのに、指先だけが冷えていく。視界の端がゆらゆらと滲み、呼吸の間隔すら掴めなくなる。
(吸い込みすぎたのか?)
頭がぼうっとした。胸の動悸が激しくなると、また意識が遠のいた。
頭の中で墨が水に滲むように闇が広がっていく。その光景に慄き、心臓が激しく促迫した。
(ラムネを早く……! 小春の菓子を食べるんだ!)
しかし、巾着へ手が動かない。それだけではなかった。顔も、身体も、脚も、地に縫い付けられたかのように固まっている。
ただ瞳だけが上下左右に忙しなく動く。
(瘴気に飲まれたのか? なぜだ!)
固まった関節に無理に力を入れると、電流のような痛みが走った。思わず目を閉じる。そして、ゆっくりと瞼を開けた。その双眸は、いつの間にか黒く染まり始めていた。
それでも朔夜は震える指先を無理やり動かし、腰元のラムネへ手を伸ばす。
(小春のためにも、ここで堕ちるわけにはいかない!)
愛する人のいる未来のために──その瞳が闇へ堕ち始めていたとしても。
