「よいしょっと」
鶴瓶から手を離し、汲み上げた桶を抱える。手桶へ水を移し替えると、再び桶を井戸の底へ落とした。
小春はここで一息つき、庭の片隅へ目を向けた。
かつて小春が管理していた花壇だ。あれから、自然に芽を出した草花たちが息を吹き返していた。
小春は柄杓で水を掬って、草花にかけた。
『こ……はる……』
『みず……ありがとう……』
精霊の声が妙に小さく、掠れている。
「どうしたの、元気がないわ」
『土が……なんか変なんだ。ビリビリするような』
『なんだか冷たいのよ。私は朝から気持ちが悪い』
精霊たちの声は静かというより、気力がなかった。
小春はその場にしゃがみ込んで、指先で掬うように触る。
(特に変な感じはしないけど)
その時、空が一瞬だけ暗くなった気がした。立ち上がり見上げるが、突き抜けるほどの青い空だった。雲ひとつなく、それがかえって違和感を強めた。
(……怖いくらい青い)
遙か遠方へと目をやった。その瞬間、小春は息を飲む。
一部の上空だけ、不自然な黒い雲がかかっていた。
(あそこは)
理解する前に、心臓がドクンと跳ねた。
気づいたら小春は家裏手にある高台へと走っていた。裾に泥がつくのも構わず、登り切る。そして、息を切らして街を見下ろす。
「……やっぱり!」
予想が的中し、声が震えてしまう。あの怪しい黒雲の下は、御神影の奥の院がある森だった。
思わず握りしめた指が震え出す。
(朔夜様!)
先に思い出すのは彼だった。小春は息ができないほど苦しい。しかし、目を逸らしてはいけない気がした。雲に見えたものは、黒い靄だった。
「瘴気っ……!」
震える手が口を塞ぐ。
奥の院は帝都の穢れを集める場所。つまり、帝都中の地脈と繋がっている。
先ほどの精霊たちの元気のない声を思い出す。
「瘴気が……漏れている?」
小春は急いで花壇へと戻ろうとする。恐怖で足が竦んで、足捌きが絡まる。ようやく花壇に着くと、すぐに膝を付いた。
「精霊さん! 瘴気が漏れているの?」
「……」
何も返らない。焦る小春は手を付き、覗き込むように叫ぶ。
「お願い! 何が起こっているのか教えて!」
『おち……つ……』
『こは……る……』
何かに握りつぶされているかのように途切れた声しか聞こえない。
「聞こえないの。朔夜様に何か起こったの?」
気がつけば小春の呼吸は浅く、指先は白かった。
「だ、だめよ……落ち着かないと、あの子たちの声が聞こえなくなるっ」
ごくんと唾を飲み、ゆっくりと吸って吐いてを繰り返した。すると、周辺の異変に気がついた。
「土の匂いが……しない」
(おかしい。こんなこと一度だってなかった!)
「結界が……崩れた?」
死神となった朔夜がドス黒い瘴気に飲まれている姿が浮かんでしまう。
小春の全身から力が抜けて、その場に座り込んでしまった。
「……いや……」
「姉様!」
紗良が小春を呼ぶ声がした。振り向くことすらできない。
「ここで座り込んで何をしているのよ」
回り込んで小春の顔を見た瞬間、紗良は絶句する。その場に屈み、小春の腕を強く掴む。
「何かあったの?」
焦点の合わぬ目で小春が呆然とする。
「姉様! しっかりして」
肩を揺すぶられて、ようやく視線が合った。
「……結界が……崩れたかもしれないの。御神影の森……瘴気に包まれている」
紗良は立ち上がり、つま先立ちで目を凝らした。一瞬でその顔色が白くなる。
「な、何あれっ」
「朔夜様っ、どうしよう」
怯える小春を安心させるように、紗良が声を張る。
「大丈夫よ。姉様が作ったラムネがあるじゃないの!」
「あ……」
「最強の霊草菓子だって、自賛してたでしょう?」
しかし、紗良もことの重さを感じていた。
「私たちには何もできない。一人で頑張ってもらうしかないわよ!」
その言葉が小春の頭の髄を突き刺すように、残った。
「一人?」
「姉様が行っても、無駄死にするだけ」
「死?」
小春の顔から血の気が一気に引いた。
(朔夜様は、また一人で背負うの?)
御神影家で初めて朔夜様に会ったあの日を思い出す。冷たい手で小春に縋るように掴んできた。
『──俺のそばを、離れるな』
「……朔夜様の手を、離さないと決めたんじゃないの?」
自分に言い聞かせるように、小春が呟いた。
(それなのに、自分が去ったことで、朔夜をさらに孤独な死の場所へ追いやっている)
「ずっとそばにいると誓ったはずなのに……私ったら、すっかり忘れてた」
小春の表情から恐怖が消えていた。
それが紗良には怖かった。
「朔夜様はあれがお仕事なの、これでいいのよ!」
離すまいと小春の腕を握る紗良。
小春はそれを見て、優しく笑みを浮かべる。そして、自分を掴むその指を、そっと解いた。
「……やめてよ。姉様!」
紗良の表情が崩れる。
小春は紗良の頬に手を当てる。その温もりは確かな生を感じさせた。
「大丈夫」
心の底から湧き上がる思いが、小春に笑顔を作らせる。
「私、行ってくる」
胸の奥の恐怖よりも、朔夜を失う恐怖の方が大きかった。
小春はもう、振り返らなかった。
