死神の旦那様は花嫁菓子しか食べられない 〜捨てられた霊草菓子職人は、主神様の唯一の救いになりました〜



 
 東雲の空が明るくなり始めた頃、庭先で早速、小鳥のさえずりが聞こえる。

 朔夜はそっと目を覚ます。まだ意識がはっきりしない中でも彼の手は無意識に布団の上を這い、小春の手に触れようと動いてしまっていた。

(手に触れて、次はどうするつもりだ)

 かろうじて残る理性が揺れる朔夜に釘をさす。探していたものに触れる前に、指が反射的に引っ込んだ。静かに身体を起こし、小さく寝息を立てる小春を見下ろす。その穏やかな寝顔を見ているだけで朔夜の心は満たされる。

(触れたい。だがこの安息をずっと守ってやりたい)

 ふうと長く息を吐いて正面に向き直った。
 朔夜はふと、いつもとは違う何かを感じた。軽く首を傾げる。そしてゆっくりと腕を上げて、はっとする。再び小春に目をやった。

(手が……袖を握っていない)

 起床時の密かな楽しみだった、小春が朔夜の袖を掴む癖。それが今朝はなかった。

 朔夜はただ自分の袖を見つめた。あるはずのものがない、胸の奥に冷たい風が吹き抜けたような虚しさがあった。




 白制服に着替えた朔夜が鏡の前で身支度を整える。
 その横には小春がいた。

「今日は実家へ行くのか?」
 朔夜がぽつりと尋ねる。
「はい。行って参ります」
 はっきりと、そして嬉しそうに言う。
 朔夜は少しだけ困った顔をする。

「絶対に無理はするな」

(本当はどこにもやりたくはない。しかし、それはしてはならぬこと)

 思わず、ぐっと奥歯を噛む。

「嫌なことがあればすぐに帰ってこい。いいな」

 官帽をぎゅっと被りながら言う。

「朔夜様は心配性ですね。私も、もう我慢はしませんわ」

 小春はいつも通りの表情で朔夜に笑いかける。

「あ、お袖にほつれ糸があります」

 小春は袖口のほつれに気がつき、戸棚から糸切り鋏を取り出す。

「切りますね」

 そう言って、そのまま自然と朔夜の腕を取ろうとした。一瞬、朔夜が身を固くしてしまう。

(ただの糸切りではないか。なにを焦る)

 心を乱した自分に朔夜は眉を寄せる。

 小春はいつも通りの様子で淡々と作業をする。そして、ほつれ糸を切ると、にこりと笑う。

「これで大丈夫」

 その笑顔を見ると、朔夜は思わず両手で小春を抱きしめたくなる。

(欲望が深くなっている──)

 ぐっと唇を噛み、目を逸らした。

「お前を傷つけるのは、何人たりとも許さない。そのつもりで」

「……え?」

 朔夜の言葉は、はっきりと聞こえた。
 だが小春はすぐに返せない。
 嬉しさよりも先に戸惑いがあった。



「朔夜様、今日の飴です」
「ああ。ありがとう」

 玄関先での二人のいつものやりとりだった。
 鷹宮や志乃も、ただそれを見守る。

「では、行ってくる」

 朝の爽やかな風に外套を揺らして、朔夜が馬車へと乗り込んだ。
 小春はいつも通り、その姿を見送る。
 馬車が出発するのと同時に小春は頭を軽く下げる。
 馬車のひずめの音が遠くになっても、頭を上げることができない。

「小春さん、どうしましたか。中へ入りましょう」

 不思議そうに鷹宮が小春に声をかけた。
 ようやく小春は顔を上げた。

「ええ。今日は実家へ行きますから、先にお掃除を済ませてしまいますね」

「小春様も変わったお方ですね。あんな……いえ、何でもございません」

 鷹宮と小春は、毎朝の仕事を一緒に済ませるのだった。

 なにも変わらない日常──なのに、二人の胸の中は苦しさに揺れていた。