死神の旦那様は花嫁菓子しか食べられない 〜捨てられた霊草菓子職人は、主神様の唯一の救いになりました〜




 馬車が止まる。

 扉が開かれたときには、もうここだとわかっていた。
 足を下ろし、石畳に草履の底が触れた瞬間、ひやりとした冷たさが伝わってくる。

 小春は顔を上げた。
 社殿を囲うように建てられた広大な屋敷だった。石畳の先には古い鳥居が立ち、色褪せた朱がところどころ黒ずんでいる。注連縄も張られているが、清めというより、何かを閉じ込めるためのもののように見えた。
 昼だというのに屋敷全体は薄暗く沈み、風が吹いているはずなのに庭木はほとんど揺れない。鳥の声も、人の気配もなかった。

「……ここが、御神影家……」
 思わず呟く。胸の奥にじわりと重たいものが広がる。息を吸うが、うまく肺が開かない。
(……息が、苦しい)
 そのときだった。

『……ここの空気、重いね』
 懐の中で、ハッカの精霊が小さく震えた。
 小春は反射的に胸元を押さえる。精霊が怯えることは滅多にない。

『でも、ちゃんと抑え込まれてる』
『きっと、あの榊だよ。すごく強い力を感じる』

 桜の精霊の声に、小春は参道脇の榊へ視線を向けた。
 けれど、何も聞こえない。

(……どの子とも話せるわけじゃないものね)

 この場所の異様さは、はっきりと感じ取れていた。門に手をかけ、一歩を踏み出しかけて、足を止める。
(逃げようと思えば、今ならまだ引き返せる)
 その考えがよぎった瞬間、荒らされた庭園の光景が脳裏に浮かんだ。ぎゅっと唇を噛み、小さく息を吸った。
「……大丈夫よ」
 誰に言うでもなく呟き、再び足を踏み出す。

 門をくぐると、背後で重い音がした。ゆっくりと門が閉じていく。外の世界と完全に切り離される音だった。数歩進んだところで、小春はようやく人の気配を感じた。

「……お待ちしておりました」
 石段の上に、一人の男が立っていた。
 五十を過ぎているように見える。黒の羽織に袴という古風な装い。だが着こなしに一切の乱れはない。背筋はまっすぐに伸び、指先の動きひとつにまで無駄がなかった。長くこの家に仕えてきた者だけが持つ、静かな威圧感があった。

「御神影家に仕える執事、鷹宮と申します」
 丁寧に頭を下げるが、その所作にも隙はない。だが、その目だけがわずかに細められていた。

(値踏みされている)
 そう感じた瞬間、小春は思わず背筋を伸ばす。
「鈴白小春と申します……本日より、お世話になります」
 声が震えないように気をつけながら、深く頭を下げた。
 そのやり取りを見守るように、もう一つの気配がそっと近づいてきた。

「まあ……こんなに可愛らしいお嬢さんが」

 やわらかな声だった。振り向くと、年配の女性が控えめに立っている。落ち着いた色合いの着物に身を包み、背筋はしゃんと伸びているが、その表情には温かみがあった。

 おずおずと顔を上げた小春の姿を見て、志乃は小さく息を飲んだ。
 実家で下働きをさせられていたという通り、着ている着物は地味で、お世辞にも裕福な家の娘には見えない。
 けれど、丁寧に切り揃えられた前髪の下で揺れる、透き通った栗色の瞳。緊張でぎゅっと結ばれた小さな唇。
 まるで咲き始めの野に咲く花のような、守ってあげたくなる可憐さがあった。

 志乃が、心からの笑みを浮かべる。
「私は志乃と申します。身の回りのお世話をさせていただきますね」
 志乃のその笑みだけで、小春の胸に張りつめていたものが、ほんの少し緩んだ。

「よろしくお願いいたします……」
 自然に小春の頭が下がる。
 志乃はやさしく頷いたあと、小春の手元の風呂敷包みに視線を落とした。
「……大事なものを、お持ちくださったのですね」
 その言葉に、小春は思わず風呂敷を握りしめる。
「……あの……本当に、私の菓子をお望みなのでしょうか?」
 志乃は答えず、ただ静かに微笑んだ。
「当主様に甘いものが必要なのです。ですがもう、他の菓子では無理なのです」
 やわらかな口調のまま、その言葉だけがわずかに重く沈んだ。

 鷹宮が一歩前に出る。
「ご案内いたします。当主様は奥にてお待ちです」
 短く告げ、振り返ることなく歩き出した。小春はその背を追う。

(人はいる。言葉も通じる。それなのに、この場所の空気は少しも軽くならない)

 むしろ、奥へ進むほど、何かが濃くなっていく。不安から、包みを持つ指に力が入ってしまう。
 案内された座敷は昼だというのに薄暗かった。障子越しに光は入っているはずなのに、部屋の奥へ届くころには色を失っている。

 その中央に一人の男がいた。
 白い狩衣。長い黒髪を無造作に垂らしていた。