「さ……朔夜様……」
いきなりのことに小春は息を飲んだ。一瞬で身体が発熱したように熱くなる。そして、小春の瞳が湖のように潤った。
「本当なら……今すぐにでも……」
朔夜の細めた目が、小春の唇を見つめる。
小春は静かに目を閉じた。
朔夜もゆっくりと目を伏せ、唇を近づけた。
ふと、歩けなくなった父の背中が脳裏を掠めた。
瞬間、覚醒したように朔夜の目が開く。
恐怖の表情を浮かべ、すっと顔を戻した。
小春が目を開けると、目の前に項垂れた朔夜がいた。
「お前は……私のものだ……失いたくはない」
そう言い、両手で小春の頬を包み込む。
眉を下げた朔夜は今にも泣き出しそうに見えた。
小春は言葉が見つからず、ただ見上げるだけ。
頬に当たる朔夜の体温が逃げてゆく。
小春は起き上がり、朔夜の背を目で追う。
朔夜はそれ以上、何も言わず部屋を出た。
小春はただ頬に手を当て、残る熱を愛おしく撫でるしかできなかった。
ザッザッザッ。
草を分け進む草履の音が奥の院に乱暴に響く。
すでに日は落ち、周囲を照らすのは月明かりだけだった。降り注ぐ月明かりのせいで、森はさらに漆黒の影が目立つ。
(森が蠢いている)
全身の肌が毛が逆立つようにピリピリと痺れた。
注連縄の先、結界の中に閉じ込めている正体を睨みつける。
(臨界が近づいている。自分の使命を忘れるな!)
全身に力がみなぎり、筋が隆起する。
置いてきたものへ身体は戻ろうとするが、朔夜の理性が前へと突き動かす。
浮かぶのは、縁側で楽しそうに笑う小春の笑顔だった。
「今度こそ──守る!」
清めの岩に流れる水が澱んでいる。
朔夜は手を顔の前で構える。小さく、そして鋭く呟く。
「──除濁!」
素早く手刀を切ると、闇だと思われた黒い影が一瞬で消え去った。すると、水がサラサラと流れ出した。
朔夜はふっと息を吐き、ようやく踵を返す。
「小春を巻き込みはしない」
朔夜は静かに強固な誓いを決めた。
一方、部屋では小春はまだ立ち上がれずにいた。触れてくれた頬の温もりから離れることができない。
「私は朔夜様のもの……。嬉しいはずなのに」
切なさが込み上げて、胸の中を鎮めることができない。
「私が朔夜様を求めてはいけないの?」
頬に添えた手がゆっくりと落ちる。
「この気持ちは、閉じ込めるべきなの?」
精霊たちも応えはしてくれない。
けれど、頬に残る朔夜の熱だけは消えなかった。
拒まれたわけではない。
あの人も、同じように苦しんでいる。
