死神の旦那様は花嫁菓子しか食べられない 〜捨てられた霊草菓子職人は、主神様の唯一の救いになりました〜




(外から様子を見るだけ)

 自分にそう言い聞かせながら、小春は鈴白の看板を見上げた。
 戸が少しだけ開いている。そっと覗き込むと見慣れた家財道具がまだ並んでいた。

(まだこの家は売られていないんだわ)

 胸に手を当て、静かに息を吐いた。
 戸に指をかけては離し、それを何度か繰り返した。やがて、焼きおにぎりの香りに背を押されるように、ようやく戸を開いた。
 店内はがらんとして静まり返っている。奥の厨房へ向かうと、人の気配はない。だが、大鍋には小豆が煮込まれていた。

(温かい。今朝、誰かが火を入れたの?)

 小春は弾かれたように居間へと向かった。

 廊下を進むと人の気配がした。襖を滑らせると、そこには両親がいた。
 卓を囲む二人の周りには、くしゃくしゃに丸められた書類が散乱している。

「小春……っ。何をしに来た」

 父の声には、正気を吸い取られたように覇気がない。

「金に目が眩んだ親の顔を笑いに来たの?」

 母も荒んだ目を小春に向けた。

「御神影の金は二束三文だった! 借金の穴埋めにもならなかったんだぞ!」
「仕返しに親を飢え死にさせる気ね。あの死神も、お前も同じだよ!」

 両親の口から出るのは、耳を塞ぎたくなるような罵声ばかり。
 小春は途端に恐怖に襲われた。
 鷹宮の声が小春の頭の中に過る。

(欲深い祈りが歪み、穢れとなる)

 指先が震えた。
 目の前の両親は、すでに心を穢し始めている。

「だめです。そんなことを言っては!」

「卑怯な誓約書まで書かせた奴が、何を今さら!」

 父が立ち上がり、小春を掴もうとした。だが足がふらつき、そのままよろめいてしまう。

(気力を奪われている……)

 このままでは命まで削られる。小春の背にぞっと冷たいものが走った。

「ちゃんと、生きてください! 嘆いていても何も変わりません!」

 小春は焼きおにぎりの包みを卓へ置く。

「まずはしっかり食べてください。それからです」

 匂いに釣られた両親の目が、ぎらりと光った。飢えた獣のように両手でおにぎりを掴みかぶりつく。その姿に、小春の胸はひどく痛んだ。

(こんなこと……私は望んでない)

「……紗良は?」

 答えは返ってこない。
 小春は一人で紗良を探しに向かった。

 廊下の奥にある書庫から灯りが漏れている。覗き込むと、手蝋燭を頼りに本を広げている紗良の姿があった。

(あれは……菓子作りの教本)

 板の間が軋む音に、紗良が振り向く。

「姉様?」

 小春を見た途端、紗良は眉を険しく寄せた。そして、居心地が悪そうに襟元を直す。その着物は、かつてこの家で小春が着ていたものだった。

「なによ……笑いに来たの?」

 棘のある声音だった。

「紗良、相変わらずね。ねえ、焼きおにぎりを食べましょう」

「要らないわよ。姉様に恵んでもらう気なんてない!」

「お腹が満たされると、人は幸せを感じられるのよ」

「……」

「父上も母上も、空腹で思考が歪んでしまっている。このままでは穢れを生んでしまうわ。そうなれば……朔夜様のお仕事を増やしてしまうもの」

 紗良が鼻で笑った。

「ふん。親のせいにしないでよ。朔夜様が死んだらそれは姉様のせいだと、九条って男が言ってたわ!」

 心臓を掴まれたような痛みが走る。小春はぐっと指を握り言葉を飲み込んだ。

「……私にしか、朔夜様を人間に戻せない。だから、おそばにいるの」

「勝手にすれば? 私には関係ないことだわ」

 紗良は勢いよく本を閉じた。

「その本……菓子作りの教本ね」

 小春は一歩近づく。

「紗良、菓子作りを再開するつもりなのね」
「だったら何よ。癪に障るわ!」
「嬉しいの」
「は?」
「餡を炊いていたでしょう? 鍋はまだ温かかったもの」
 紗良が息を飲む。
「挑戦したのよね?」
「なっ……」
「惜しいわ。もう少し豆を水に浸けた方がいいわ。そうすれば、もっと皮が柔らかくなる」

 紗良は何かを言い返そうとして、結局口を閉ざした。

「教本から学ぼうとしていた。素晴らしいことだわ。だから、私も協力したいの」

「情けなんてかけないでよ! 」

 紗良が叫ぶ。

「姉様にやられっぱなしなんて悔しいの! 絶対、自分の力で見返してやるんだから!」

 小春はふっと笑った。

「私も全部教える気はないわ。私が教えられるのは技だけ。心までは教えられないもの」

 紗良は少しの間、黙り込んだ。視線を上げては逸らし、何度も迷った末、ぽつりと呟いた。

「教えたいなら、聞いてあげてもいいわよ。ちょうど時間もあるしね」
 紗良は腕を組み、そっぽを向いた。
「ええ。じゃあ、まずは腹ごしらえね。早く行かないと全部食べられてしまうわよ」

 小春が振り返る。その背に紗良が声をかけた。

「お姉様……っ」
「なあに?」

「……あの着物、売ったの。いい値段になったから。当座の凌ぎにはなりそう」
 そして、小さく続ける。
「その……ごめん」

 頭は下げない。けれど、はっきりと小春に聞こえる声で謝った。
 小春は静かに目を細める。

「紗良……。もういいの。これからのことだけ考えていきましょう」

 紗良は返事をしなかった。
 だがその瞳には確かな光が戻っていた。