あの日も、南から吹き付ける生暖かい風が強かった。
「また、この場所か」
湿気を帯びて顔にまとわりつく銀髪を、九条は煩わしそうに指でかき上げる。
周囲を映すほど磨かれた革靴が砂利を踏み、乾いた音を響かせていた。
後ろに控える部下が、控えめに声をかける。
「九条管理官、現場はこちらです」
「知っているよ。前にも来たことがあるからさ」
その顔には、いつもの飄々とした笑みはなかった。九条は黒革の手袋をはめながら、この先に漂う黒い靄を見捉えていた。
「小規模だ。固定で完全に抑え込める。行くぞ」
表情を引き締め、再び革靴が高い音を立てる。
一年前、巨大な穢れに襲われ処理を受けた小さな村。トタン張りの簡素な家が立ち並ぶ、どこにでもある集落だ。
数年前、この村の先に巨大な紡績工場が建ち、地脈に沿って流れていた穢れが行き場を失い溜まり始めた。漏れ出した瘴気は村人から静かに、だが着実に気力を奪っていた。
今日もまた、同じ現象が起こっている。
「人がいないな。もう瘴気の影響を受けちゃってる。これでも早めに駆けつけたのに」
九条は独り言のように呟く。
「村ごと固定しますか?」
「それはだめだ。結界で瘴気を集めて、あの雑木林へ追い込む。そこで一気に固定するんだ。御神影が来る前に済ませるからね」
「はっ!」
部下たちが、素早く定位置につく。
九条は仁王立ちになり、怜悧な瞳で睨むように黒い靄を見据えた。そして、すっと両手を掲げた。
「──律式結界」
両手の間に、静電気のような細い閃光が走る。九条はそれを押さえ込むように溜め込み、一気に手のひらを前へ突き出した。瞬間、透明な薄い膜が広がり、瘴気に張り付くように包み込む。九条は重い舵を回すように足を踏ん張りながら、目の前に渦巻く瘴気を恐縮させるように手を動かした。すると、黒い靄が意志を持つように引き寄せられ、雑木林へと移動していく。
その間、九条は一度も瞬きをしなかった。
「準備はいいね。四方から一気に固定をするよ」
九条は奥歯を噛み締める。すると、瘴気を包む結界の膜に細い電流が幾重にも走り始めた。逃げ場を失った瘴気が激しく渦巻く。九条は手を突き出したまま、静かに目を閉じた。
「結界固定──凍結!」
四方から白い霧が噴き出す。
次の瞬間、渦巻いていた瘴気の動きがぴたりと止まった。そして急激に凝縮され、小さな塊となって地面へ落ちる。まるで黒い氷のようだった。
その瞬間、周囲の空気が一気に軽くなる。
「空気が軽くなりました! 九条管理官、固定は成功です!」
部下のその声で、九条はようやく突き出していた腕を下げた。
「九条!」
後方から怒気を含んだ声が響く。
九条が振り返ると、険しい形相の朔夜が足早に近づいてきていた。
「あーあ、早く帰りたかったのに」
九条はうんざりしたように空を仰ぐ。
「なぜ固定した! 小規模だからこそ浄化だ!」
朔夜の怒りがこもった視線を九条は冷たい目で受け止める。
「だから、国は固定処理の方針に変えたんだ。今回は御神影は呼ばれていないはずだろう? なぜ来た」
九条は腕を組み、小さく息を吐く。
朔夜はさらに苛立ちを募らせた。
「九条も、固定だけではいつか破綻するとわかっているだろう!」
「それは心外だな。僕はこれでも国内最強の結界師で、固定師だよ。みくびらないでくれる?」
横目でギロリと朔夜を睨みつけた。
「奥の院の穢れの限界は近い。固定はその場しのぎで意味はない!」
「だから増やさないように、少しずつ処理しているんじゃないか。それに」
九条の顔から一切の表情が消えた。
「この場所、御神影にとってはトラウマだろう。僕だって、気遣ったつもりなんだけどな」
わざと軽く言うように肩をすくめる。
朔夜は一瞬、息を飲んだ。視線を集落に移し、また九条へと戻す。
「……それなら、お前も同じだろう」
九条の瞳がかすかに揺れる。しかし次の瞬間には、ふいと顔を逸らした。
「ああ。あの日──救えなかった子供の手がね、今でも忘れられないよ。固定したのは、僕だから」
