彼は淡々としている。だが、その言葉に迷いは一切なかった。
拒絶というより、ただ事実を告げられているようだった。
(でも……私の帰る場所はもうないの)
小春はどうすることもできず、その場に立ち尽くすしかなかった。逃げ場も、言い訳も、もう残されていない。
そのとき、朔夜の呼吸のリズムが乱れた。浅く、途切れがちになる。肩で息を吸おうとしているが、胸を圧迫されているかのように、うまく呼吸ができていなかった。
「朔夜様? 息が……」
そう言いかけた瞬間、朔夜の身体が傾き、そのまま畳へ崩れ落ちた。
同時に、黒い靄のようなものが彼の周囲から滲み出すように溢れ出した。畳の上を這うように広がり、空気を濁らせていく。
小春は初めて目にする瘴気に慄き、思わず一歩後退った。肌に触れた瞬間、粘りつくような不快さが走る。
「これは、油断しました! 朔夜様の気力がなくなっておる。小春様、すぐに下がりなさい!」
鷹宮は低く鋭い声を飛ばす。
小春の脳裏に、先ほどの志乃の言葉が蘇る。
『普通の甘いものではもう無理なの』
(だから、普通ではない私の菓子が選ばれた?)
抱き抱えている風呂敷包みに視線を落とす。本能は危険だと告げている。それでも、目の前で倒れている朔夜から視線を逸らすことができなかった。
無意識に風呂敷を強く握りしめる。
(……この菓子を使ったら、朔夜様を苦しめるかもしれない……)
衣の袖から覗いた朔夜の上腕に、じわりと黒い血管が浮かび上がった。
小春はぎゅっと拳を握った。
「……見ていられない!」
その言葉は、ほとんど無意識だった。
小春は朔夜の元へ駆け寄る。膝をつき、風呂敷を急いで開いた。
中から取り出したのは桜餅。淡い色のやわらかな餅の上には、塩漬けにされた桜の花が控えめに乗っている。
「朔夜様、少しだけ……お食べください!」
返事はないが、朔夜の視線は小春を捉えている。だが、そこに意思があるのか判然としなかった。
小春は桜餅を一口大にちぎり、そっと唇へ運ぶ。触れた唇は氷のように冷たかった。
(これが……死神?)
一瞬、手が止まる。だが小春は息を詰めたまま、もう一度そっと唇へと運んだ。
その時だった。ぱっと朔夜の身体から桜の花びらが弾け飛んだ。重苦しい空気が、一瞬で瑞々しい桜の香りに塗り替えられる。幾重にも重なった花びらが淡い光をまとい、ふわりと宙へ舞い上がる。まるで生きているかのように、ゆっくりと空間を巡った。
小春の手が止まる。思わず息を忘れ、その光景を見上げてしまう。
花びらはその場にとどまるように漂いながら、重く淀んでいた空気に触れていく。すると、黒い瘴気がほどけるように崩れていった。
やがて、舞っていた桜はすっと溶けるように消えた。
同時に、その場の空気は軽くなる。張り詰めていた重さが嘘のように薄れていった。
朔夜の喉が動き、桜餅がゆっくりと飲み込まれた
荒れていた呼吸が少しずつ整っていく。
そして、先ほどまで浮かんでいた黒い血管も、闇に染まっていた瞳も、すべて消えていた。
そこにいるのは、ただ一人の男だった。
静かで神々しいほどに整った顔立ち。その瞳が小春を射抜くように見つめる。
「……お前」
低い声が静かに響く。
小春は膝をついたまま、その顔を見上げる。確かに彼の意識は戻っている。だが、その視線にはまだどこか焦点の合わない揺らぎがあった。
突如として、朔夜の冷たい指先が小春の手首を強く掴んだ。
次の瞬間、彼の呼吸がもう一度乱れた。
「……っ」と短く息を吸い込む音がする。今度は苦しそうにではない。むしろ空気を吸い込みすぎているかのような、不自然な呼吸だった。
朔夜の視線が小春へと定まる。先ほどとは違う、鋭すぎるほどに研ぎ澄まされていた。
(……何か、違う)
その場の空気が再び張り詰める。瘴気は消えたはずなのに、別の緊張がその場を満たす。
『……この人、ただ者じゃない』
桜の精霊が息を潜めるように囁いた。
『小春の力を全部、受けきってる……普通の人なら、途中で壊れるのに!』
わずかな間のあと、声がさらに低くなる。
『でも……きれいにしすぎた。瘴気だけじゃなくて、抑えていた感覚まで、一緒に引き剥がしちゃってる』
(……やはり、食べさせない方がよかった?)
そう思った瞬間、掴まれている手の奥から確かな鼓動が伝わってくる。さっきまで、あんなにも冷たかったのに。
朔夜の呼吸は、もう乱れていなかった。
(……戻ってる)
その事実に小春の胸の奥が震える。
次の瞬間、彼の指先の力が小春を逃すまいと強まった。
「――俺のそばを、離れるな」
ぽつりと落ちた言葉は命令だった。だが、その奥にあるのは縋るような弱さだった。
小春は目を見開く。
そこにあったのは先ほどの冷たさではない。わずかに滲む焦りと、ひどく不器用な懇願だった。
「……はい」
理由はわからない。
それでも、気づけばそう答えていた。
ここで手を離してはいけない――そう強く思ったのだ。
小春はそっと掴まれた手にもう一方の手を重ねる。逃げるのではなく、受け止めるように。
その瞬間、朔夜の指からわずかに力が抜けた。
それでも手は離れなかった。
(初めて人を、救えたのかもしれない)
小春の胸の奥で、何かが静かに動き始めていた。
拒絶というより、ただ事実を告げられているようだった。
(でも……私の帰る場所はもうないの)
小春はどうすることもできず、その場に立ち尽くすしかなかった。逃げ場も、言い訳も、もう残されていない。
そのとき、朔夜の呼吸のリズムが乱れた。浅く、途切れがちになる。肩で息を吸おうとしているが、胸を圧迫されているかのように、うまく呼吸ができていなかった。
「朔夜様? 息が……」
そう言いかけた瞬間、朔夜の身体が傾き、そのまま畳へ崩れ落ちた。
同時に、黒い靄のようなものが彼の周囲から滲み出すように溢れ出した。畳の上を這うように広がり、空気を濁らせていく。
小春は初めて目にする瘴気に慄き、思わず一歩後退った。肌に触れた瞬間、粘りつくような不快さが走る。
「これは、油断しました! 朔夜様の気力がなくなっておる。小春様、すぐに下がりなさい!」
鷹宮は低く鋭い声を飛ばす。
小春の脳裏に、先ほどの志乃の言葉が蘇る。
『普通の甘いものではもう無理なの』
(だから、普通ではない私の菓子が選ばれた?)
抱き抱えている風呂敷包みに視線を落とす。本能は危険だと告げている。それでも、目の前で倒れている朔夜から視線を逸らすことができなかった。
無意識に風呂敷を強く握りしめる。
(……この菓子を使ったら、朔夜様を苦しめるかもしれない……)
衣の袖から覗いた朔夜の上腕に、じわりと黒い血管が浮かび上がった。
小春はぎゅっと拳を握った。
「……見ていられない!」
その言葉は、ほとんど無意識だった。
小春は朔夜の元へ駆け寄る。膝をつき、風呂敷を急いで開いた。
中から取り出したのは桜餅。淡い色のやわらかな餅の上には、塩漬けにされた桜の花が控えめに乗っている。
「朔夜様、少しだけ……お食べください!」
返事はないが、朔夜の視線は小春を捉えている。だが、そこに意思があるのか判然としなかった。
小春は桜餅を一口大にちぎり、そっと唇へ運ぶ。触れた唇は氷のように冷たかった。
(これが……死神?)
一瞬、手が止まる。だが小春は息を詰めたまま、もう一度そっと唇へと運んだ。
その時だった。ぱっと朔夜の身体から桜の花びらが弾け飛んだ。重苦しい空気が、一瞬で瑞々しい桜の香りに塗り替えられる。幾重にも重なった花びらが淡い光をまとい、ふわりと宙へ舞い上がる。まるで生きているかのように、ゆっくりと空間を巡った。
小春の手が止まる。思わず息を忘れ、その光景を見上げてしまう。
花びらはその場にとどまるように漂いながら、重く淀んでいた空気に触れていく。すると、黒い瘴気がほどけるように崩れていった。
やがて、舞っていた桜はすっと溶けるように消えた。
同時に、その場の空気は軽くなる。張り詰めていた重さが嘘のように薄れていった。
朔夜の喉が動き、桜餅がゆっくりと飲み込まれた
荒れていた呼吸が少しずつ整っていく。
そして、先ほどまで浮かんでいた黒い血管も、闇に染まっていた瞳も、すべて消えていた。
そこにいるのは、ただ一人の男だった。
静かで神々しいほどに整った顔立ち。その瞳が小春を射抜くように見つめる。
「……お前」
低い声が静かに響く。
小春は膝をついたまま、その顔を見上げる。確かに彼の意識は戻っている。だが、その視線にはまだどこか焦点の合わない揺らぎがあった。
突如として、朔夜の冷たい指先が小春の手首を強く掴んだ。
次の瞬間、彼の呼吸がもう一度乱れた。
「……っ」と短く息を吸い込む音がする。今度は苦しそうにではない。むしろ空気を吸い込みすぎているかのような、不自然な呼吸だった。
朔夜の視線が小春へと定まる。先ほどとは違う、鋭すぎるほどに研ぎ澄まされていた。
(……何か、違う)
その場の空気が再び張り詰める。瘴気は消えたはずなのに、別の緊張がその場を満たす。
『……この人、ただ者じゃない』
桜の精霊が息を潜めるように囁いた。
『小春の力を全部、受けきってる……普通の人なら、途中で壊れるのに!』
わずかな間のあと、声がさらに低くなる。
『でも……きれいにしすぎた。瘴気だけじゃなくて、抑えていた感覚まで、一緒に引き剥がしちゃってる』
(……やはり、食べさせない方がよかった?)
そう思った瞬間、掴まれている手の奥から確かな鼓動が伝わってくる。さっきまで、あんなにも冷たかったのに。
朔夜の呼吸は、もう乱れていなかった。
(……戻ってる)
その事実に小春の胸の奥が震える。
次の瞬間、彼の指先の力が小春を逃すまいと強まった。
「――俺のそばを、離れるな」
ぽつりと落ちた言葉は命令だった。だが、その奥にあるのは縋るような弱さだった。
小春は目を見開く。
そこにあったのは先ほどの冷たさではない。わずかに滲む焦りと、ひどく不器用な懇願だった。
「……はい」
理由はわからない。
それでも、気づけばそう答えていた。
ここで手を離してはいけない――そう強く思ったのだ。
小春はそっと掴まれた手にもう一方の手を重ねる。逃げるのではなく、受け止めるように。
その瞬間、朔夜の指からわずかに力が抜けた。
それでも手は離れなかった。
(初めて人を、救えたのかもしれない)
小春の胸の奥で、何かが静かに動き始めていた。
