死神の旦那様は花嫁菓子しか食べられない 〜捨てられた霊草菓子職人は、主神様の唯一の救いになりました〜





 小屋の隅には、擦り切れた藁筵が一枚敷かれているだけだった。
 湿った土と黴の匂いが鼻を刺す。
 小春は膝を抱え、揺れる手蝋燭の火を見つめる。

(私は、このまま一生──)

 御神影で過ごした温かな日々が脳裏をよぎり、胸が締め付けられた。
 志乃の笑顔や鷹宮の呆れるような優しさ。

 そして──あの人の、触れそうで触れなかった熱い手。
 目の奥が熱くなり、小春は唇を噛んだ。

 その時、外から砂利を踏む音が鳴り、続いて錠前を触る音が聞こえた。そして、がちゃりと小屋の戸が開かれる。
 月明かりを背に立っていたのは、紗良だった。

「姉様、解放よ。早く出てきて」
 感情の欠落した冷たい声だった。
 何事かわからないまま、小春はゆっくり立ち上がる。
「母屋に来て。早く!」
「待って。一体、何をする気なのか教えてちょうだい」
 縋るように尋ねると、紗良は不機嫌そうに眉を寄せた。
「姉様、お金で買われたのよ」
「……お金で?」
「そう。朔夜様が、姉様と引き換えにって」
 紗良は嬉しそうに口角を上げる。札束の山を思い出しているのだろう。
 訳もわからぬまま、小春は母屋へ連れていかれた。

 襖を開くと、そこには朔夜がいた。

(迎えに来てくれた……!)

 目の奥が熱くなり一気に視界が滲む。
 小春の姿を認めた途端、朔夜がすぐに歩み寄ってきた。そして、抗う間もなく強く抱き寄せられる。厚い外套越しでもわかる確かな体温だった。

(……温かい。夢じゃないんだ)

 ただそれだけで、小春の張り詰めていた心が音を立てて崩れそうになる。

「小春は俺が引き取った。安心しろ」

 低い声と共に抱き締める腕に力が籠もった。
 小春はそっと目を閉じる。

(嬉しい……自分を必要としてくれる人がいることが、どうしようもなく)

 けれど──小春はそっと目を開ける。

「小春、二度と家の敷居を跨ぐな。そう契約も交わしたからな」

 父親の声が冷水のように落ちた。
 視線を向けると、父と母は憑かれたような手つきで札束を風呂敷へ詰め込んでいる。

(ああ──私は……家族に売られたんだ)

 その現実が胸に突き刺さり、小春の瞳から大粒の涙が溢れた。

「姉様たち、用がお済みなら、さっさとお帰りになったら?」

 紗良が自分より価値のないものを見る目で二人を見下ろす。
 その時、小春の視線が紗良の着物へ止まった。

「紗良……その着物を私へ返して」

 一瞬だけ紗良の顔が引き攣るが、すぐに鼻を鳴らし顔を背けてしまった。

「穢れが染みた着物など縁起が悪い。くれてやる」

 朔夜が紗良に静かに言った。そして小春を見下ろす。

「また俺が新調してやる」

 その声音には、紗良を見据える冷たさと小春へ向ける優しさが同時に滲んでいた。
 朔夜はそのまま小春の肩を抱き外へ導く。

 最後に振り返った小春の目に映ったのは、金に心を奪われた両親と勝利を信じて疑わない紗良の醜い笑顔だった。



 御神影へ戻る馬車の中。
 助け出されたはずなのに、小春の胸には虚しさが残っていた。

(私はお金で買われた……)

 それしか、自分を救う方法がなかったのだ。小春は膝の上で拳を握る。

「朔夜様。本当にありがとうございます。あの……お金ですが、私が少しずつ返済します」

 小春は丁寧に頭を下げる。
 だが、朔夜は小さく笑っただけだった。

「無用だ。あれは、近いうちにただの紙屑となる貨幣だ」

「……え?」

 小春は顔を上げる。
 朔夜は窓の外を眺めながら淡々と口を開いた。

「もうすぐ紙幣の刷新が始まる。町では古い紙幣を換えるための両替騒ぎだ。だが、鈴白は知らなかったらしい」

「それでは……あれは、使えないお金……?」

「そうだ。だから俺は、小春を金で買ったわけではない」

 その言葉に小春は息を飲む。

 あの家族が金に目を眩ませ、自分から小春と縁を切っただけの──自滅。

 朔夜は最初から、小春が負い目を感じぬよう立ち回っていたのだ。
 胸の奥が一気に熱くなる。

「朔夜様……私がそばにいると、ご迷惑ばかりおかけしてしまいますね」

 どうしても声が震えた。泣くまいとしても、うまく息ができない。
 そんな小春を見て、朔夜は珍しく困ったように視線を彷徨わせた。
 そして何かを思い出したように、後ろの荷物へ手を伸ばす。

「……これを」

 差し出されたのは、一束の薔薇だった。
 深い紅色の花弁が月明かりの中で静かに揺れている。

(……私に?)

 小春は目を瞬かせる。
 朔夜を見ると、彼は視線を逸らしたままだった。
 白い肌に透ける耳が、ほんのり赤く染まっている。

 小春は胸元の薔薇を抱き締めた。
 安堵と悲しみが入り混じってうまく言葉にならない。

「嬉しい……ですが、本当に私でいいのでしょうか?」

 花束を抱き締める指先が震える。
 朔夜はしばらく黙ったあと、小さく呟いた。

「……どうせ、精霊たちが喋るのだろう」

 気恥ずかしさを隠すように窓の外を向いてしまう。
 小春がそっと薔薇へ意識を向けると、案の定、花たちが楽しそうに囁き始めた。

『女性に花を贈るの、初めてだったみたい』
『誰にあげるのかと思ったら、あなただったのね!』

 次々暴露される朔夜の懸命な裏側に、小春は堪えきれなくなる。
 ぽろりと涙が零れた。
 嬉しかった。朔夜の不器用な優しさが真っ直ぐに伝わる。
 小春はそっと、朔夜の袖の端を摘まむ。

「……私が作る、新しいお菓子で、必ず朔夜様をお支えします」

 涙で途切れながらも、小春は必死に言葉を紡ぐ。
 朔夜は何も答えなかった。

 ただ、花束を抱える小春の肩をそっと引き寄せる。
 馬車の揺れの中。小春は少しだけその肩へ身体を預けた。
 もう帰る場所を失ったとは思わなかった。
 ここが自分の帰る場所なのだと、初めてそう思えた。