翌日も小春はラムネ菓子作りをしていた。
朔夜からの贈り物である若草色の着物を着て、心は弾んでいた。
台所を片付けていると、志乃が葡萄酒の瓶を大事そうに抱えてやってきた。
「菓子作りは成功しました?」
その表情はいつになく明るい。
「いいえ……。志乃さん、何かいいことでも?」
「ふふっ。実は舶来ものの葡萄酒が手に入りましてね。今夜開けてもよいと朔夜様の許可が下りたんですの」
口に手を当てて、志乃は少女のように小さく笑う。
「志乃さん、本当にお好きなんですね」
つられて小春まで微笑んでしまう。
「ええ。あの渋みと甘みがたまらなくって。でも……」
志乃の視線が台所の奥に向けられる。そこには、十数本の葡萄酒の空き瓶が置かれていた。
「返却を面倒くさがって、溜まる一方でね」
気まずそうに葡萄酒を台に置いた。
「私、返却してきますよ。これから薬種屋へ行く予定ですので」
「ありがたいわ。では、数本だけでもお願いしようかしら」
薬種屋で『酸』のヒントをもらい、その足で瓶を返却する。
その予定の裏で小春へ向けられた悪意が迫っていることに、その時はまだ誰も気づいていなかった。
御神影の家を出て商店街までは徒歩十分ほどの距離にある。
籠に詰めた瓶の重みを感じながら歩いていると、後方から馬の蹄の音が聞こえてきた。
小春は振り向かずに道の端へ避けた。しかし、蹄の音は小春の真横でぴたりと止まる。
見上げた先には、一台の馬車。
中から二人の男がいきなり飛び出してきた。
小春が悲鳴を上げようとした瞬間、無骨な手が力任せにその口を塞いだ。
息ができない。
叫び声は喉の奥で潰れ、視界がぐらりと揺れた。
軽い小春の身体は簡単に持ち上げられ、暗い馬車の中へと押し込められる。
あまりにも一瞬の出来事。
路上には籠から放り出された空き瓶が、虚しく転がっているだけだった。
揺れる馬車の中で、小春は目隠しをされていた。
「どこへ……連れて行く気ですか?」
「喋るな。俺たちはただ金で雇われただけだ」
早馬のごとく走る車内の揺れはひどい。
御神影家の敷地周辺で事件が起きるなど、小春も想像していなかった。
しかし、小春はそれ以上抵抗しなかった。心の中には認めたくない確信があったからだ。
(こんなことをするのは……考えたくはなかった。けれど──)
馬車は十五分ほど走り、停車した。
(この距離、この曲がり角の揺れ……)
馬車が石畳から土道へ変わる揺れは、幼い頃から身体に刻み込まれた帰路だった。
「早く降りろ」
男に促されて降りると、そのまま建物の中へ連れ込まれる。目隠しをされていても、そこがどこか分かった。漂ってくるのは、煮詰めた砂糖と染み付いた古い家屋の匂い。
(懐かしい。それなのに──こんなにも胸が痛い)
「ご苦労さん。これ、約束の金だ」
「……確かに受け取った」
聞き慣れた声が、男たちと冷徹な会話を交わした。
雑に目隠しが外される。
光の中に立っていたのは、両親と紗良──かつての家族であった。
「痛い、離してください! 何を、何をする気なの!」
小春は父親に腕を強く引かれ、裏庭の隅にある重い錠前がかかる小屋へ連れ込まれた。
腕を離すと同時に突き飛ばされ、小春は冷たい床に転がってしまう。
「……何を」
痛みに耐えて上半身を引き起こす。
そこには父親が腕を組み、仁王立ちで立ち塞がっていた。
「小春、お前は鈴白の人間だ。鈴白を立て直せ」
「お前が知っている家伝の調理法をすべて書き留めなさい。明日からは、そこで死ぬまで鍋を回して餡を作るんだよ」
母親が便箋と鉛筆を、ゴミのように小春へ投げつけた。
ジャリと砂を踏みしめる音が響く。
視線を向ければ、怒りで顔を歪めた紗良が自分を見下ろしていた。かつての華やかさは微塵もなく、執念に満ちた瞳だった。
「どうして姉様ばかり選ばれるのよ。鈴白の生贄なのに」
「生贄……?」
「鈴白が復活するよう、その見窄らしい身を生涯にわたって捧げるの。この暗くて、日の当たらない場所でね!」
「そんな……! 待ってください、急にそんなことを言われても、無理です!」
「お前に拒否権はないと何度言ったらわかるんだ。この阿呆め!」
「元はと言えば、お前が鈴白の味をわざと落としたんだろう? その代償を、きっちりここで払ってもらうからね!」
母親が苛立ちとともに、足元へ砂をかけた。
紗良が腰を落とし、小春の着物袖を掴む。それは朔夜が準備させた若草色の紬でできた着物。
「……これ、御神影様からの贈り物? ……姉様のくせに」
勢いよく立ち上がる。
「……脱ぎなさい。姉様に似合うのは、こっちよ!」
投げつけられたのは、くすんだ紺色の裾がボロボロに破れた古い着物だった。
「こんなこと、家族だからって許されないわ……」
悔しさで手を握ると、床に爪が引っかかる。
「安心して。あの方が迎えに来ても、絶対に通さないから。姉様はここで、煤にまみれて一生餡を練り続けて年老いていくのよ。お似合いだわ!」
狭く粗末な小屋の中に、紗良の高笑いが響き渡る。
扉が閉まり、錠が降りる重い音がした。
小春の身体は細かく震えていた。
ここの暗い小屋には、小春の声を聴いてくれる花壇の草花すらもいない。
話しかけても誰も返してくれない。
いくら叫んでも、あの人のもとには届かない。
小春は震える手で自らの頬をそっと撫でた。
昨夜、あの人の温もりが届きかけた、あの場所を。
(……あの人に触れたい)
自覚したばかりの『欲』が、絶望の中で鋭い痛みとなって胸を突き刺す。
小春は膝を抱え、ただ一人、声を殺して泣き続けた。
