その日の晩。朔夜は執事・鷹宮の部屋を訪れた。
「朔夜様、いかがなさいましたか」
一日の疲れを癒すようにクラシックを流していた鷹宮は、当主の姿に慌てて蓄音機の針へ手を伸ばす。
しかし朔夜は、「すぐに終わる」と静かに制した。そして低い声で告げる。
「早急に金を集めてほしい」
「金庫のものを用意いたしましょうか」
「いや。──特別な貨幣だ」
鷹宮の眉がぴくりと動く。
「それを、どれほど?」
「鈴白家が目を回す程度には」
淡々と告げられた言葉に、鷹宮は息を飲んだ。しかし次の瞬間には、事情を察したように小さく目を細める。
「……承知いたしました。難しいことはございません。最近は旧弊を手放すものが増えているとか」
朔夜は短く頷くと踵を返した。
廊下を歩く背中には、静かな怒りが滲んでいる。
小春を泣かせた代償は必ず払わせる。
※
夕暮れの光が、台所の窓から斜めに差し込んでいた。
作業台の上には、重曹の包み、小皿、砂糖鉢、そして小さな器に入れられた酢が並んでいる。
小春は腕を組みながら真剣な顔で唸っていた。
「膨らまし粉と酸……」
薬種屋の主人の言葉を何度も頭の中で反芻する。
「酸っぱいものといえば……お酢、よね」
そう呟きながら小皿の酢を見つめた。料理にも使う身近な酸味だ。
小春は椀に入れた粉糖と重曹に、慎重に酢を数滴落とした。 その瞬間、ぷくぷくと白い泡が勢いよく膨らみ、椀の中で弾けた。
「あっ……!」
小春は慌てて蓋を押さえる。しかし発泡は止まらず、炭酸の気配はあっという間に消えていく。台所には酸っぱい匂いだけが残った。
「だめだわ……」
肩を落とし、小春は椀を見つめた。
酸っぱいものなら何でもよいと思った。しかし、お酢は液体だ。重曹と合わせた瞬間に反応してしまい、『閉じ込める』ことができない。
(これでは口に入れる前に全部終わってしまう)
水を使わずに『酸』を閉じ込める方法を探さなければならない。
目の前の、酢で湿って発泡の終わった塊を見つめながら、小春は額に指を当て考え込む。
「ずいぶん熱心だな」
低く穏やかな声が背後から落ちてくる。
「ひゃっ」
驚いて振り返ると、仕事から戻った朔夜が台所の入口に立っていた。
「朔夜様……! お帰りなさいませ」
「ああ」
彼は小春の前まで来ると、卓に並ぶ失敗作を見下ろした。
「試作品か」
「はい……。大失敗ですけれど」
小春は気まずそうに笑う。
「味見をしてみよう」
朔夜は自然な動作で小春の隣に立った。
「えっ? ま、待ってください。美味しい保証はできません!」
「構わない」
朔夜は静かに答える。
「お前が作ったものなら、何であっても食べる」
さらりと言われ、小春の胸がどくりと鳴った。
(そんなこと、平然と言うんだから……)
熱くなる頬を誤魔化すように、小春は慌てて試作品を差し出した。
「……で、では。こちらを」
朔夜は小さな塊をひと摘みし、躊躇いなく口へ放る。
数秒後、ぴしりと彼の表情が固まった。
「…………」
「ど、どうですか?」
朔夜は無言のまま口元を押さえる。
「……まずい」
低く漏れた声に小春は吹き出した。
「やはり……」
「ああ、まるで酢だ。おかげで目が覚める」
眉間に深い皺を刻み、必死に飲み込もうとする。
小春は急いで口直しの水を差し出した。
「すみません、そんな気はしてました」
二人で顔を見合わせた瞬間、堪えきれず笑い声が重なった。
「あははっ」
「ふっ……くくっ」
あの日、初めて二人でラムネを飲んだ時のような、素の姿で触れ合う幸福な時間。やがて、どちらからともなく笑いが収まった。不意に静寂が戻り、二人の距離が近いことに気づく。
朔夜の瞳が真剣な光を湛えて小春を見つめていた。吸い寄せられるように、彼の手がゆっくりと持ち上がる。細く長い指先が、小春の頬に触れようと宙を動く。
(ああ……)
小春は無意識に、その指を待って目を閉じかけた。
しかし、触れる直前で朔夜の指がぴたりと止まった。
触れれば、もっと欲しくなる──微かに震えたあと、その手は力なく引き戻された。
「……すまない。その菓子、完成するといいな」
突き放すような声ではなかった。むしろ、自分自身を強く律するような、苦渋の滲む声だった。朔夜はそのまま、一度も振り返ることなく台所から去っていった。
一人残された小春は自分の頬に手を当てた。彼の手が近づいた場所だけが、じりじりと熱を持っている。
(……触れて、欲しかった)
そんな想いが心の底から澱のように湧き上がってくる。以前の自分なら、朔夜と同じ空間にいられるだけで満足だったはずなのに。
(私、どんどん欲深くなっている。……朔夜様に触れてほしいなんて)
触れられなかったはずなのに、頬にはまだ朔夜の熱が残っていた。
