死神の旦那様は花嫁菓子しか食べられない 〜捨てられた霊草菓子職人は、主神様の唯一の救いになりました〜





 その日の晩。朔夜は執事・鷹宮の部屋を訪れた。

「朔夜様、いかがなさいましたか」

 一日の疲れを癒すようにクラシックを流していた鷹宮は、当主の姿に慌てて蓄音機の針へ手を伸ばす。
 しかし朔夜は、「すぐに終わる」と静かに制した。そして低い声で告げる。

「早急に金を集めてほしい」
「金庫のものを用意いたしましょうか」
「いや。──特別な貨幣だ」
 鷹宮の眉がぴくりと動く。
「それを、どれほど?」
「鈴白家が目を回す程度には」
 淡々と告げられた言葉に、鷹宮は息を飲んだ。しかし次の瞬間には、事情を察したように小さく目を細める。
「……承知いたしました。難しいことはございません。最近は旧弊を手放すものが増えているとか」
 朔夜は短く頷くと踵を返した。
 廊下を歩く背中には、静かな怒りが滲んでいる。

 小春を泣かせた代償は必ず払わせる。





 夕暮れの光が、台所の窓から斜めに差し込んでいた。
 作業台の上には、重曹の包み、小皿、砂糖鉢、そして小さな器に入れられた酢が並んでいる。
 小春は腕を組みながら真剣な顔で唸っていた。

「膨らまし粉と酸……」

 薬種屋の主人の言葉を何度も頭の中で反芻する。

「酸っぱいものといえば……お酢、よね」

 そう呟きながら小皿の酢を見つめた。料理にも使う身近な酸味だ。
 小春は椀に入れた粉糖と重曹に、慎重に酢を数滴落とした。 その瞬間、ぷくぷくと白い泡が勢いよく膨らみ、椀の中で弾けた。

「あっ……!」

 小春は慌てて蓋を押さえる。しかし発泡は止まらず、炭酸の気配はあっという間に消えていく。台所には酸っぱい匂いだけが残った。

「だめだわ……」

 肩を落とし、小春は椀を見つめた。
 酸っぱいものなら何でもよいと思った。しかし、お酢は液体だ。重曹と合わせた瞬間に反応してしまい、『閉じ込める』ことができない。

(これでは口に入れる前に全部終わってしまう)

 水を使わずに『酸』を閉じ込める方法を探さなければならない。
 目の前の、酢で湿って発泡の終わった塊を見つめながら、小春は額に指を当て考え込む。

「ずいぶん熱心だな」

 低く穏やかな声が背後から落ちてくる。

「ひゃっ」

 驚いて振り返ると、仕事から戻った朔夜が台所の入口に立っていた。

「朔夜様……! お帰りなさいませ」
「ああ」

 彼は小春の前まで来ると、卓に並ぶ失敗作を見下ろした。

「試作品か」
「はい……。大失敗ですけれど」

 小春は気まずそうに笑う。

「味見をしてみよう」
 朔夜は自然な動作で小春の隣に立った。
「えっ? ま、待ってください。美味しい保証はできません!」
「構わない」
 朔夜は静かに答える。

「お前が作ったものなら、何であっても食べる」
 さらりと言われ、小春の胸がどくりと鳴った。
(そんなこと、平然と言うんだから……)
 熱くなる頬を誤魔化すように、小春は慌てて試作品を差し出した。
「……で、では。こちらを」
 朔夜は小さな塊をひと摘みし、躊躇いなく口へ放る。
 数秒後、ぴしりと彼の表情が固まった。

「…………」
「ど、どうですか?」
 朔夜は無言のまま口元を押さえる。

「……まずい」

 低く漏れた声に小春は吹き出した。
「やはり……」
「ああ、まるで酢だ。おかげで目が覚める」

 眉間に深い皺を刻み、必死に飲み込もうとする。
 小春は急いで口直しの水を差し出した。

「すみません、そんな気はしてました」

 二人で顔を見合わせた瞬間、堪えきれず笑い声が重なった。

「あははっ」
「ふっ……くくっ」

 あの日、初めて二人でラムネを飲んだ時のような、素の姿で触れ合う幸福な時間。やがて、どちらからともなく笑いが収まった。不意に静寂が戻り、二人の距離が近いことに気づく。

 朔夜の瞳が真剣な光を湛えて小春を見つめていた。吸い寄せられるように、彼の手がゆっくりと持ち上がる。細く長い指先が、小春の頬に触れようと宙を動く。

(ああ……)

 小春は無意識に、その指を待って目を閉じかけた。
 しかし、触れる直前で朔夜の指がぴたりと止まった。

 触れれば、もっと欲しくなる──微かに震えたあと、その手は力なく引き戻された。

「……すまない。その菓子、完成するといいな」

 突き放すような声ではなかった。むしろ、自分自身を強く律するような、苦渋の滲む声だった。朔夜はそのまま、一度も振り返ることなく台所から去っていった。

 一人残された小春は自分の頬に手を当てた。彼の手が近づいた場所だけが、じりじりと熱を持っている。

(……触れて、欲しかった)

 そんな想いが心の底から澱のように湧き上がってくる。以前の自分なら、朔夜と同じ空間にいられるだけで満足だったはずなのに。

(私、どんどん欲深くなっている。……朔夜様に触れてほしいなんて)

 触れられなかったはずなのに、頬にはまだ朔夜の熱が残っていた。